第40話「月曜日と、気になること」
廊下に、世達ちゃんがいた。
壁にもたれて、端末を見ていた。黒いスーツ。目の下にクマ。コーヒーを片手に持っているが、飲んでいない。
「……おはようございます、世達さん」
世達ちゃんが顔を上げた。「……おはようございます」
「どうしましたか」
「月曜日です」と世達ちゃんが言った。
「……月曜日だと何かあるんですか」
「大体何かあります」と世達ちゃんが言った。コーヒーを一口飲んだ。顔が変わらない。
第一章「月曜日バーガーの収容違反」
◆業務室にて
午前中、好代は摩天ちゃんとの訓練を終えて廊下を歩いていた。
そこに世達ちゃんが小走りで来た。
珍しかった。世達ちゃんが小走りをするのは、初めて見た。
「好代さん」
「はい」
「少し手を借りていいですか」
「手伝えることであれば」
「……第七十一世界線で月曜日の収容違反が発生しました」
好代は少し考えた。「……月曜日が、収容違反をするんですか」
「月曜日バーガーというメニューがあります」と世達ちゃんが歩きながら言った。「週明けの鬱屈が物理化した世界線を圧縮したバーガーです。それが第七十一世界線に流出して、月曜日という概念が独立して侵食を始めました」
「……月曜日の概念が、独立して侵食、というのは」
「行けばわかります」と世達ちゃんが言った。
◆第七十一世界線
空間を開けて入った瞬間、好代は止まった。
においが来た。
重いにおい。濃いにおい。朝の通勤電車のにおい。残業後の疲れたにおい。やる気が出ないにおい。全部が一か所に集まって固まったような——
「これが月曜日のにおいです」と世達ちゃんが言った。
「……わかります。具体的にわかります」
「そうでしょう」と世達ちゃんが言った。感情のない声で。「十七年間、毎週月曜日を経験してきたので」
世界線は都市だった。でも全体が灰色に沈んでいた。建物の色が灰色なのではなく、光ごと灰色になっている。
住民たちが歩いていた。全員が重そうに歩いていた。空を見上げる人がいない。足元を見ながら歩いている。
「……住民の方たちが、元気がないですね」
「月曜日の侵食によって、常に月曜日の朝の状態が固定されています」と世達ちゃんが言った。「休日も月曜日です。夜中も月曜日です。三百六十五日、月曜日の朝の気分が続いています」
「……それは辛いですね」
「辛いです」と世達ちゃんが言った。少しだけ、自分のことのような声だった。
◆問題が明らかになる
世達ちゃんが端末を開いて状況を確認した。
「……秩序さん、月曜日の収容書類の準備はできていますか」とインカムに言った。
インカムから秩序ちゃんの声が来た。「世達さん、確認なんですが——月曜日の収容は概念単位での処理になります。概念単位の収容は対応範囲外とされています」
世達ちゃんが一秒だけ目を閉じた。「……では、どう処理すればいいですか」
「時間単位で処理することは可能かもしれません」
「月曜日は二十四時間あります」
「……一時間ずつ処理書類を作成すれば、対応範囲内の処理として通るかもしれません」
「二十四枚になります」
「……そうなります」
世達ちゃんが端末を閉じた。
「……わかりました」
そして好代の方を向いた。「書類を二十四枚書きます。一時間ほどかかります。時間があれば、においの確認をお願いできますか。侵食の範囲がどのくらい広がっているか」
「わかりました」
◆好代がにおいを確認する
好代は世界線の中を歩いた。
においを全部開いた。
月曜日のにおいが、世界線の全体に染み込んでいた。ただ染み込んでいるのではなく——石畳の下にも、建物の壁の中にも、空気の層の奥にも、全部が月曜日のにおいだった。
それから、住民たちのにおいを確認した。
疲れているにおい。眠れていないにおい。でも——その奥に、別のにおいが少しある。
何かを好きだったにおいの残滓。
趣味のにおい。好きな場所のにおい。誰かと笑ったにおい。全部が月曜日のにおいの下に押し込められていて、出てこられない状態だった。
住民の一人が、通りすがりに空を見上げた。一瞬だけ。
その瞬間、月曜日のにおいが少し薄くなった。
好代は止まった。
「……空を見上げた時だけ、においが薄くなります」とインカムに言った。
「どういうことですか」と世達ちゃんの声。
「住民の方が一瞬だけ空を見上げたら、その瞬間だけ月曜日のにおいが薄くなりました。月曜日のにおいは、下を向いていることで強化されているかもしれないです」
少し間があった。「……記録します。それは書類の処理後に確認します」
第二章「二十四枚と、好代の「気になる」」
◆世達ちゃんが書いていた
三十分後、世達ちゃんが建物の一角に座って書類を書いていた。
周りでは月曜日の住民たちが重そうに歩いている。世達ちゃんはその中で、淡々と書いていた。
好代が隣に座った。
「……何枚終わりましたか」
「十一枚です」と世達ちゃんが言った。「残り十三枚」
「手伝いましょうか」
世達ちゃんがペンを止めた。
「……好代さんの時間を使わせるのは」と言いかけて、止まった。
「何ですか」
「……気になりますか、私のことが」
「はい」と好代は答えた。「疲れてそうだったので」
世達ちゃんがまた止まった。
「……今日で三回目です」と言った。
「三回目?」
「好代さんに「気になる」と言われたのが」
好代は少し考えた。「そんなに珍しいですか」
世達ちゃんがゆっくりと前を向いた。住民たちが重そうに歩いている景色を見ながら、少し間を置いた。
「……クルーの方には、言われたことが一度もありませんでした」とゆっくり言った。「業務の確認はされます。今日の案件数の確認も。でも——疲れているかどうかは」
「疲れてますか、今日」と好代が聞いた。
世達ちゃんが「……はい」と言った。
間を置かずに言えた。正直に言えた。
「少し休んでください。月曜日の収容書類は夕方でもいいです」
世達ちゃんが「……ですが案件が」と言った。
「月曜日が終わらなかったらどうなりますか」
「……月曜日が終わらない世界線は、最終的に週ごと収容します」
「じゃあ今じゃなくていいです」
世達ちゃんが少し間を置いた。「……わかりました」
ペンを置いた。
「……ありがとうございます」と言った。今日初めて、声に少し温度が入った。
◆三十分後
ぱんでむに戻った後、好代が廊下を歩いていたら、世達ちゃんが業務室から出てきた。
書類を抱えていた。
「……やっぱり気になって、書き始めていました」
「……そうですか」
「好きなのでいいです」と世達ちゃんが言った。
好代は少し考えた。「……月曜日を二十四枚、手伝います」
「……ありがとうございます」
「好きかはわかりませんが、気になるので」
世達ちゃんが少しだけ、目元が緩んだ。
一瞬だけ。でも緩んだ。
「……では、午後三時に第七十一世界線でお待ちしています」
第三章「二人で処理する午後」
◆午後、再び第七十一世界線
好代と世達ちゃんが、月曜日の世界線に戻ってきた。
においを確認した。午前中と変わらなかった。でも——好代が空を向いたら、少しだけ薄くなった。確かに薄くなった。
「……上を向いたら薄くなります。私でも薄くなります」
「そうですか」と世達ちゃんが書類を広げながら言った。「記録します。「千姿の感知によれば、当事者が上を向いた瞬間に月曜日バーガーの侵食効果が軽減する」——後でにおいを根拠として書類に添付していいですか」
「はい」
「ありがとうございます」
二人で書類を書いた。
好代が書類の書き方を聞いた。世達ちゃんが教えた。
「事実だけ書きます」と世達ちゃんが言った。「感情はいりません。「月曜日のにおいが空を向いた瞬間に軽減した」が事実です。「空を向くと元気が出る気がした」は感想です。感想は書きません」
「わかりました」
「ただ」と世達ちゃんが続けた。「感想を書かなくていい、と思いながら書いていると、たまに感想の方が大事なことがあります。そういう時は、書類の外に置いておきます」
「書類の外に、とは」
「頭の中に置いておく、ということです」と世達ちゃんが言った。「私はよく、そうしています」
好代はその言葉を受け取った。
世達ちゃんは自分の感想を、頭の中に置いている。言葉にしない。でも置いている。
「……世達さんが今、頭の中に置いていることは何ですか」
世達ちゃんがペンを止めた。
「……好代さんに「気になる」と言われた、というのが三回ある、と先ほど言いました」
「はい」
「四回目になりました」と世達ちゃんが言った。「今日の午後が」
「そうですか」
「……四回になっても、まだ慣れません」と世達ちゃんが言った。「なので、頭の中に置いておいています」
◆侵食が止まった
十七枚を書いた頃、においが変化した。
「……世達さん」
「はい」
「月曜日のにおいが、少し動いています」
世達ちゃんが顔を上げた。「どちらに動いていますか」
「……上に向かっています」とにおいを追いながら言った。「書類の処理が進むにつれて、においが少し上に向かっています。圧縮されていたものが、少しずつ解放されていく感触です」
「処理が効いている」と世達ちゃんが言った。少し速くペンを動かした。「残り七枚。急ぎます」
七枚を書いた。
二十四枚が揃った。
世達ちゃんがインカムに「処理書類、提出します」と言った。
秩序ちゃんの声が来た。「確認します。処理を開始しました——月曜日の概念の収容を開始します」
においが、変わった。
重いにおいが、少しずつ薄くなった。灰色だった光が、少しだけ色を取り戻していく感触があった。
住民の一人が、空を見上げた。
今度は長く見上げた。
「……においが全体的に薄くなっています」と好代は言った。「住民の方のにおいが変わってきています。押し込められていたにおいが、少しずつ出てきています」
「何のにおいですか」と世達ちゃんが聞いた。
好代は確認した。
「……色々あります。趣味のにおい。好きな場所のにおい。誰かと笑った記憶のにおい。全部が少しずつ出てきています」
世達ちゃんが少し黙った。
「……よかったです」と言った。
その声が、今日一番温かかった。
第四章「帰り道」
◆夕方、ぱんでむに戻って
ぱんでむに戻った。
廊下で世達ちゃんが書類をまとめていた。秩序ちゃんへの提出用に整えながら、少しだけ手が止まった。
「……好代さん」
「はい」
「今日の午後、手伝ってもらいました」
「手伝いましたね」
「……疲れてるか聞いてもらいました」
「聞きましたね」
世達ちゃんが書類を整えながら、少し間を置いた。
「……こういうことを聞いてくれる人が、今まであまりいなかったので」とゆっくり言った。「正確に言うと、業務の話は誰もしてくれます。案件の数も、進捗も。でも——業務じゃない部分は、あまり聞かれたことがなかったです」
「業務じゃない部分が気になるので」と好代は言った。
「……なんでですか」
好代は少し考えた。
「世達さんがいつも業務室にいます。案件を処理しています。でも——においで確認すると、疲れているにおいがあります。疲れていても案件を処理し続けている。それが気になります」
「……残業代が出るので」と世達ちゃんが言った。
「出るんですか」
「……出ているはずです。契約書に書いてあったので」と言ってから、少し間を置いた。「確認したことはないですが」
「確認した方がいいかもしれないですね」
「……そうですね」と世達ちゃんが言った。「でも確認すると案件が増えそうなので、保留にしています」
好代はその言葉を受け取った。
世達ちゃんは確認しない。確認することで何かが変わることを、少し恐れているかもしれない。それとも、変わらないことがわかっているから確認しないのかもしれない。どちらかはわからない。
「……今日はお疲れ様でした」と好代は言った。
「……ありがとうございます」と世達ちゃんが言った。「お疲れ様でした、と言われたのも、今日で三回目です」
「四回目にもなります」と好代は言った。
世達ちゃんが少しだけ、また目元が緩んだ。
「……わかりました。では明日も」と言って、廊下の奥に歩いていった。
【クルー視点モノローグ】
**世達——五十五日目**
今日の件数は月曜日処理書類二十四枚と通常案件十一件で、合計三十五件。
比較的少ない。
好代さんが手伝ってくれた。
「気になる」と言われた回数が、今日で合計四回になった。
一回目が初めて業務室に来てくれた日。二回目が廊下ですれ違った日。三回目が今日の午前中。四回目が今日の午後。
四回でもまだ慣れない。
なぜ慣れないかというと——今まで、「気になる」という言葉をこういう文脈で使う人がいなかったからだと思う。業務について「気になる」は言われる。世界線の案件について「気になる」も言われる。
でも私自身について「気になる」は、なかった。
頭の中に置いておく。
それだけのことだ。
でも今日、空を向いたら月曜日のにおいが薄くなった、という話をした。
住民の方たちの、押し込められていたにおいが出てきた時に「よかった」と思った。
それも頭の中に置いておく。
書類に書かない部分が、今日は少し多かった。
**好代——五十五日目**
世達ちゃんがお疲れ様でした、と言われるとまだ慣れない、と言った。
なぜ慣れないのか。誰かに言われたことがなかったから。
クルーの中で、世達ちゃんほど案件を処理している人はいない。毎日、業務室で一人で処理し続けている。
でも、お疲れ様でした、という言葉が来ない。
それは——愛情の非対称の、一つの形かもしれない。
世達ちゃんはバーガーを処理する。世界線を整理する。始末書を書く。それが仕事だから。
でも世達ちゃんが疲れているかどうかは、誰も気にしていなかった。
今日は気にした。
それだけのことかもしれない。
でも世達ちゃんが「よかった」と言った時の声が、今日一番温かかった。
そのにおいが、今もまだ来ている。
**千姿——**
——
【エピローグ】五十五日目の夜
夜、好代は廊下を歩いた。
世達ちゃんの業務室の前を通った。
明かりがついていた。
においを確認した。コーヒーのにおい。書類のにおい。それから——今日の月曜日の世界線のにおいが少しついていた。住民の方たちの、押し込められていたにおいが出てきた時の感触が、かすかに混ざっていた。
扉に向かって「お疲れ様でした」と好代は言った。
声には出さなかった。
でも世達ちゃんは、まだ書類を書いているかもしれない。
あるいは、端末で第七世界線の観測を見ているかもしれない。
どちらでもよかった。
どちらも世達ちゃんだ。
前が広い。
——それはずっと変わらない。
**◆ぱんでむ拡張記録:渋谷2.3区画分+1ヶ所+外縁部2ヶ所(五十五日目)**




