第39話「歪者」
摩天ちゃんが廊下で待っていた。
「今日の午後、外業務に行く。世界線の外縁部の巡回だ」
「わかりました」
「一つだけ言っておく」と摩天ちゃんが言った。「歪者が出た場合、私が指示するまで動くな。考えてからでは遅い」
好代は少し間を置いた。
千姿の記憶の中に、歪者という言葉はある。ドナルゥトゥと同じ根を持つものたちのことだ。遠くにいるドナルゥトゥを感知するたびに、その存在の大きさを思う。歪者はその派生だ。
記憶にあることと、実際に向き合うことは、違う。
「わかりました」と好代は言った。
第一章「外縁部へ」
◆ 出発前
秩序ちゃんがインカムを渡してきた。
「今日、外縁部の第十七区画に歪者の目撃報告が入っています」と秩序ちゃんが言った。声が少し重かった。「以前、流焔さんと二人で対処した記録があります。それでも決着まで一時間以上かかりました」
「何人で行きますか」
「摩天さんと好代さんで確認に向かい、状況次第で増援を呼びます」と秩序ちゃんが言った。「ただ——」少し間を置いた。「全員待機状態にしておきます」
渾沌ちゃんがそばに来た。
「すきよちゃん」
「はい」
「歪者はね」と渾沌ちゃんが言った。いつもの声ではなかった。「変なにおいがするから。ぱんでむのにおいと同じ何かがあるような、でも全然違うような——気持ち悪くなる感じがする」
渾沌ちゃんには、自分が何のにおいを感じているかわかっていない。クルーの誰も、ドナルド様の本来の姿を知らないから。
「……気をつけます」と好代は言った。
空間が開いた。
◆ 外縁部
においが来た。薄い。草のにおい。土のにおい。終わりかけている世界線のにおい。
「……住民はもういないんですね」
「三週間前に移住が完了した」と摩天ちゃんが歩きながら言った。「バーガーになるまであと少しだ」
廃村が見えてきた頃——においが変わった。
急に変わった。
黒い。焦げている。甘さが逆転した苦みのにおい。その奥に——ドナルゥトゥのにおいと同じ根を持つものが来ていた。
「……摩天さん」
「わかっている」と摩天ちゃんが剣を抜いた。
遠くから、音が来ていた。
石が砕ける音。建物が叩きつけられる音。そして——
声だった。
「ぁら、あああ゛あ゛あ゛あ゛——」
「らぁ゛ン゛ら゛ん゛——」
「は゛ん゛ば゛ァア゛あガア゛ああ゛が゛ァア゛ァ——」
言葉の残骸のような形だった。かつて言葉だったものが、永劫の時間をかけて変質し続けた末に残った形。意味は取れない。でも、意味がかつてあったことはわかった。
好代の棚が全部、少し揺れた。
「……においで確認できます。歪者です」とインカムに言った。「ドナルゥトゥと同じ根のにおいがします」
インカムの向こうで渾沌ちゃんの息が、少し止まった。
第二章「遭遇」
◆ 姿を見た
廃村の広場に出た瞬間、好代は立ち止まった。
いた。
ドナルドの形をしていた。
赤と黄色の衣装が、黒く染まっていた。元は鮮やかだったはずの色が全部、焦げたように暗くなっている。体の輪郭は人の形をしているが、比率が歪んでいた。腕が長すぎる。頭が大きすぎる。足は地面についているが、体は少し浮いている。
顔があった。
笑っていた。
笑顔の形だけが残って、笑っていたものが消えた形だった。
広場の端の石造りの建物を、繰り返し殴り続けていた。規則的に。止まらずに。
「ぁは゛ははァ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛——」
「……どぉ゛なる゛ど゛ォは゛、ウ゛ウ゛ウ゛う゛し゛く゛な゛る゛と゛ぉ゛——」
かつて笑い声だったものが変質した音だった。
好代は棚を全部開いたまま、においを読んだ。
ドナルゥトゥのにおいと同じ根。歪んで腐食して変質しているが、源が同じだ。千姿の記憶がざわめいた。このにおいの根っこが何であるかまでは、まだかすかにしか見えない。
「……歪者です」とインカムに言った。「ドナルゥトゥより小さいですが、同じにおいの根を持っています」
摩天ちゃんが剣を構えた。
「下がれ。七十メートル後方。においで報告し続けろ」
第三章「総力戦」
◆ 摩天ちゃんが動いた
摩天ちゃんが前に出た。
歪者が反応した。
建物を殴る動きが止まった。首が回った。あり得ない角度で回った。笑顔の形のまま、摩天ちゃんの方を向いた。
「……らぁ゛ン゛ラん゛ルゥ゛ウ゛ウ゛——」
次の瞬間、消えた。
瞬間移動だった。
一瞬前に広場の端にいたものが、摩天ちゃんの真横に出現した。腕を振り下ろした。
摩天ちゃんが跳んだ。間に合った。でも爆風が来た。石畳が砕けて、粉末が広場全体に広がった。
「……空間ごと動いています」と好代はインカムに言った。「移動前のにおいの残像があります。次の出現位置——今、左後方です」
「わかった」
摩天ちゃんが即座に動いた。左後方への歪者の出現と同時に、すでに剣が動いていた。
体側に当たった。
通らなかった。剣が弾かれた。甲高い金属音が広場に響いた。
「……体表が硬い」とインカムに言った。「全面的に密度が高いです——でも右肩部分だけ少し薄い感触があります」
摩天ちゃんが右肩を狙いながら、歪者と距離を取り続けた。
◆ バーガーの雨が降った
歪者が腕を上げた。
空から、何かが降ってきた。
バーガーだった。
無数のバーガーが、空間を裂いて降ってくる。大きさが違う。形が違う。一個一個が世界線を圧縮したものだ——その世界線が腐食して、攻撃に転用されている。
広場全体に降り注いだ。
着弾するたびに爆発した。石畳が吹き飛んだ。建物の残骸が燃えた。熱波が来た。
「全員来い!」と摩天ちゃんが叫んだ。
◆ 増援
空間が四か所同時に開いた。
渾沌ちゃん。流焔ちゃん。瑠志ちゃん。秩序ちゃん。真意ちゃん。世達ちゃん。
一斉に来た。
流焔ちゃんが着地と同時に叫んだ。「ヒャハ!バーガーで攻撃してくんじゃん!最高じゃん!」
「笑ってる場合じゃないです」と秩序ちゃんが書類を放り投げながら召喚展開した。「お掃除兵士、前衛展開!」
瑠志ちゃんが一言「問答無用」と言って歪者に向かって走った。
歪者がまた消えた。
今度は瑠志ちゃんの真上に出現した。拳を振り下ろした。
瑠志ちゃんが受けた。
受けた。
地面に膝が沈んだ。石畳にひびが走った。でも止まらなかった。
「物理は私の管轄だ」と瑠志ちゃんが言って、そのまま真上に拳を突き上げた。
歪者の体が吹き飛んだ。十メートル、空中に浮いた。
「……!」と好代は思った。
通った。
「……右側面に傷が入りました!」とインカムに叫んだ。「瑠志さんの拳が通った場所です、密度が急激に下がっています!」
◆ 反撃
歪者が着地した。
今度は、空からポテトが降ってきた。
バーガーより速い。細くて鋭い。無数の束が、矢のように各方向から同時に来た。
世達ちゃんが剣を抜いた。「ストレスブレード——」結晶化した刃が展開されて、周辺の束を切り落とし続けた。「……残業代は出ますか」と誰にでもなく言いながら、止まらずに切り続けた。
流焔ちゃんが炎化した。炎の体になって高速移動しながら、迫ってくる束を燃やし続けた。「燃やせばいいじゃん!全部!」
秩序ちゃんのお掃除兵士が多層展開された。前衛が束を受けながら中衛が押し返す。後衛が撤退路を確保する。完璧な統率だった。
「……包囲できます」と秩序ちゃんが言った。「右側面から総攻撃の準備を」
歪者がまた声を上げた。
「ぅ゛う゛う゛ァ゛ア゛——し゛ぜ゛ん゛と゛か゛ら゛だ゛が゛う゛ご゛く゛——ぁ゛い゛む゛ら゛び゛ぃン゛ぃっ゛と゛——」
空に向かって吼えた。
次の瞬間、四方八方同時に瞬間移動した。
残像が複数出現した。どれが本体かわからない。
「……四つ全部においがあります!」と好代は叫んだ。「でも——右から二番目だけ、においの密度が他と違います!」
摩天ちゃんが右から二番目に向かって走った。
◆ カオスフレア
「全員離れて」
渾沌ちゃんの声だった。
いつもの声ではなかった。
全員が動いた。疑わずに動いた。渾沌ちゃんがあの声を出す時、離れなければならないことをクルー全員が体で知っていた。
渾沌ちゃんが前に出た。
両手を上げた。
混沌がチャージされていく音がした。
音ではなかった。感触だった。世界の歪みが、渾沌ちゃんの両手の一点に向かって集まってきた。遠い世界線の混沌が来る。崩壊した宇宙の残滓が来る。収束するべき場所を失った力が全部、渾沌ちゃんの手の中に向かってくる。
空間が揺れた。
好代は棚を全部閉じた。このにおいは全部受け取ると、整理できなくなる。
渾沌ちゃんの手の中で、全てが一点に圧縮された。
「——」
渾沌ちゃんが何か言った。口の形だけ動いた。音は来なかった。このスキルに使う言葉は、音として出力されないのかもしれない。
解放された。
混沌の巨大な塊が、歪者めがけて直進した。
大きかった。
好代がこれまで見た何よりも大きかった。渾沌ちゃん一人の体から出たとは思えない規模だった。命名が力を収束・増幅させる——その意味を、今日初めて体感した。
歪者が瞬間移動で避けようとした。
間に合わなかった。
直撃した。
広場全体が揺れた。爆発の余波で、好代は七十メートル後方にいながら体が少し浮いた。
煙が晴れた。
歪者がいた。
膝をついていた。体表の半分が砕けていた。でも、まだ動いていた。
渾沌ちゃんが膝に手をついていた。息が乱れていた。「……一発では無理か」
「もう一度来るかもしれないです」と秩序ちゃんが言った。「全員、散開してください」
歪者が立ち上がった。
「く゛し゛ゅ゛ン゛ン゛ン゛ン゛!!!」
音圧で石畳が割れた。
◆ 無力化へ
「まだ動きます!」と好代は叫んだ。「右側面の傷が大きく広がっています——体表の密度が半分以下になっています!」
摩天ちゃんが即座に動いた。
完全強化モードを展開した。強化、幻影剣、リジェネ、透明化、短距離テレポート、反射バリア——全部同時に動いた。
瑠志ちゃんが正面から突っ込んだ。スーパーアーマーで歪者の攻撃を全部受け続けながら前進した。石畳が割れた。地面に足跡が刻まれた。
流焔ちゃんが右から炎化状態で高速接近した。
世達ちゃんの社畜ブレードが左から。
秩序ちゃんの包囲網が外周を固めた。
歪者が瞬間移動しようとした。
「今、移動の直前です!においが出ています!」
真意ちゃんが虫眼鏡を構えた。
「——移動先、封じます」
MetadataVisionが歪者の移動タグを読んだ。ルーペが少し歪んだ。でも割れなかった。タグを書き換えた。
移動が失敗した。
歪者の体が一瞬、どこにも行けない状態で止まった。
その瞬間に、摩天ちゃんの剣が右側面の傷口に入った。
瑠志ちゃんの拳が体表の割れた部分に入った。
流焔ちゃんの炎が体表の亀裂に入った。
三撃が同時に入った。
歪者が吼えた。
「ぁ゛ア゛ア゛ア゛ア゛——ぁ゛い゛む゛ら゛び゛ぃン゛ぃっ゛と゛——ぁ゛い゛む゛ら゛び゛ぃン゛ぃっ゛と゛——ぁ゛い゛む゛ら゛び゛ぃン゛ぃっ゛と゛——」
繰り返していた。
同じ音形を、繰り返しながら、ゆっくりと膝をついた。
動けない状態になった。
摩天ちゃんの息が大きく乱れていた。瑠志ちゃんの手の甲が赤くなっていた。流焔ちゃんが少し笑いながら肩で息をしていた。渾沌ちゃんがまだ膝に手をついていた。
「……今だ」と摩天ちゃんが好代に言った。「急げ」
第四章「届ける」
◆ 七十メートルを歩いた
好代は歩き始めた。
においを全部開いたまま、一歩ずつ近づいた。
黒焦げのにおいが強くなった。腐食したバーガーのにおい。その奥に——ドナルゥトゥと同じ根のにおいが来ていた。
千姿の記憶がざわめいた。
このにおいの根っこが何であるかまでは、まだ完全には見えない。遠すぎる。古すぎる。でも——ここにいる。
十メートル。五メートル。
歪者がこちらを向いた。四つの目が全部来た。
三メートル。
止まった。
息を整えた。
これは、千姿の力を全部使う。
好代の体の内側から、光が出てきた。
ぱんでむ全体のにおいが一点に集まってくる感触があった。渋谷の石畳のにおい。クルーたちのにおい。届けに行った世界線のにおい。千姿の記憶のにおい。それが全部、好代の体の中心から外側へ向かって、静かに広がっていった。
光が、好代の輪郭に沿って出ていた。
白くはなかった。バーガーのにおいの色だった。温かみがあって、少し丸い光だった。
「食べますか」と好代は言った。
歪者が——止まった。
「……ぁい゛む゛ら゛び゛ぃン゛ぃっ゛と゛」が、途中で止まった。
笑顔の形が、少しだけ揺れた。
四つの目が、初めて同じ方向を向いた。
光を見ていた。
◆ 届ける
好代はにおいを辿った。
黒焦げの奥の、ぱんでむのにおいを辿った。ドナルゥトゥへの感覚と同じ方向に、意識を向けた。
「……バーガーが好きでしたか」と好代は言った。
歪者の体が揺れた。
「……ぁ゛あああ゛」という音が来た。今度は低く、静かだった。今まで出ていた音よりずっと静かだった。
「懺悔ちゃんを呼んでいいですか」と好代は言った。「消化できなかった重さを、少し引き取れるかもしれないです」
「急げ」と摩天ちゃんが言った。「長くは保たない」
◆ 懺悔ちゃんが来た
インカムに入れた。
懺悔ちゃんが空間を開けて来た。何かを食べながら来た。
においを確認した瞬間、止まった。
食べるのをやめた。
「……(もぐもぐが、止まった)」
「引き取れますか」と好代は聞いた。
「……重い」と懺悔ちゃんが言った。「すごく重い。全部は無理」
「少しだけでも」
「……うん。少しなら」
懺悔ちゃんが手を伸ばした。
歪者が少し動いた。摩天ちゃんが剣を構えた。でも歪者は——避けなかった。
好代の光がまだ出ていた。それが、歪者の動きを少しだけ止めていた。
懺悔ちゃんがゆっくりと、重さを引き取り始めた。
においが動いた。黒焦げのにおいの中に閉じ込められていた、ぱんでむのにおいの残滓が、少しだけ動いた。全部ではない。ほんのかすかに。
「……ァ゛——」
音が来た。
叫びではなかった。奇声でもなかった。
何かを言い続けてきたものが、少しだけ静かになった時の音だった。
渾沌ちゃんが、息を止めた音がした。
好代の光が、少しだけ揺れた。
受け取られた感触があった。
◆ 真意ちゃんの解析
その後、真意ちゃんが近づいた。
虫眼鏡を構えて、歪者を見た。
しばらく黙っていた。
「……読めました」と真意ちゃんが言った。
「何がわかりましたか」と好代は聞いた。
「タグが残っています。変質しきった表層の下に、最初の命名タグが」真意ちゃんが虫眼鏡を少し傾けた。「読みます——【カオスドナルド(混沌の道化):ドナルドの概念が集団認識の「不規則性・予測不能性・混沌」と共鳴し変質した結果生まれた個体。諸元変容済み。変質度:97.3%】」
広場が静かになった。
「カオスドナルド」と秩序ちゃんが繰り返した。書類に記録しながら。「……命名が残っていたんですね」
「変質しても、一番最初のタグだけは消えない」と真意ちゃんが言った。「これが何に共鳴したか、どこから来たか——それだけは、読めます」
渾沌ちゃんが少し止まった。
「……カオスドナルド」と小さく言った。「混沌の道化、か」
何かを考えているようだった。でも何も言わなかった。
好代はその言葉を受け取った。
カオスドナルド。渾沌ちゃんの「カオス」と同じ言葉が名前に入っている。渾沌ちゃんが「よく知っているようで全然知らないにおい」と言っていた。
今は何も言えない。でも、受け取った。
第五章「帰り道」
◆ 広場を離れる前に
歪者は消えなかった。
完全には戻らなかった。
ただ、においが少し変わった。黒焦げのにおいの中に、ぱんでむのにおいが少しだけ多く混ざっていた。
懺悔ちゃんが「……全部は無理だった。でも少し引き取れた。また来れば、もう少し」と言った。
渾沌ちゃんがその歪者をまだ見ていた。
「渾沌さん」と好代は声をかけた。
「……うん」と渾沌ちゃんが言った。目を離さないまま。「大丈夫。ちょっとだけ、ぼーっとしてた」
「においがしましたか」
「……うん。気持ち悪いんだけど、嫌いになれない」と渾沌ちゃんが言った。「なんでだろ」
渾沌ちゃんには、自分が何のにおいを感じているかわかっていない。
今は言えない。
「……戻りましょう」と好代は言った。
◆ 摩天ちゃんと歩いた
帰り道、摩天ちゃんが隣を歩いた。
制服の袖が大きく焦げていた。
「……今日は手間取りました」と好代は言った。
「そうだ」と摩天ちゃんが言った。「単独では無理な種だった。あなたのにおい読みがなければ、もっとかかった」
「においで傷口の密度を読みました。戦闘中に使える情報でしたか」
「役に立った」と摩天ちゃんが言った。「それから——千姿の力を使った時の光が、あの個体の動きを止めた。あれは何だったんだ」
「……ぱんでむ全体のにおいを、一点に集めました」と好代は言った。「千姿の機能だと思います。初めてやってみましたが——届きました」
「届いた」と摩天ちゃんが繰り返した。「あの種に、届いた」
「はい」
摩天ちゃんが少し黙った。
「……私には、その回路がない」とゆっくり言った。「あの個体が何かを言い続けていることも、においで感知していた。でも——だから何かしようとは思わなかった。硬くて強い何かとして来るだけだった」
「それでも、待ってくれましたね」
「結果として意味があったから待った。それだけだ」
「……ありがとうございます」
「感謝は不要だ」と摩天ちゃんが言った。「でも——待つことと、隣にいることは、私にもできる。今日確認した」
◆ 渾沌ちゃんに
ぱんでむに戻った後、渾沌ちゃんが廊下に一人でいた。
壁にもたれて、ぼーっとしていた。
「渾沌さん」
「……うん」と渾沌ちゃんが言った。顔を上げた。「ただいま」
「お疲れ様でした。カオスフレア、すごかったです」
「あの規模で一発じゃ足りないのか……」と渾沌ちゃんが少し頭をかいた。「強すぎじゃん、歪者」
「でも仕留めました」
「みんなで、ね」と渾沌ちゃんが言った。
少し間があった。
「……カオスドナルド、って言ってたね。真意ちゃんが」と渾沌ちゃんが言った。
「はい」
「……カオス」と渾沌ちゃんが繰り返した。「私と同じ言葉だ」
好代は少し考えた。今は言えない。でも——
「渾沌さん」と好代は言った。
「うん」
「あのにおいが、嫌いになれないのはなぜですか」
渾沌ちゃんが長い間、黙った。
「……わかんない」とゆっくり言った。「でも、嫌いになれない。それだけは確かだ」
「……そうですか」
「なんでだろね」と渾沌ちゃんが言った。「なんでだろ。ずっと気になってる」
好代はその言葉を受け取った。
いつか、届けられる日が来るかもしれない。
「……おやすみなさい」と好代は言った。
「おやすみ」と渾沌ちゃんが言って、廊下の奥に歩いていった。
【クルー視点モノローグ】
──────────────────
**摩天——五十四日目**
手間取った。
単独では無理な種だった。正しい判断として増援を呼んだ。
真意の解析で「カオスドナルド」と判明した。変質度97.3%。
「カオスドナルド」という命名が何を意味するか、私には判断できない。でも——渾沌が「カオス」という言葉に反応していた。渾沌がそういう反応をする時は、たいてい何かがある。
秩序に報告する。
それから——好代が光を出した。
あれは今まで見たことがなかった。千姿の機能だと言っていた。ぱんでむ全体のにおいを一点に集める、という説明だったが——あの光が歪者の動きを一瞬止めた。
あの種には「ぱんでむのにおい」が有効かもしれない。
次回の遭遇時に検証する。記録する。
袖が焦げた。万寿ちゃんに処置してもらう必要がある。
──────────────────
**渾沌——五十四日目**
カオスドナルド。
真意ちゃんが読んだタグ。
カオス。私と同じ言葉。
なんで同じ言葉が入ってるんだろ。
あのにおいがなんなのか、ずっとわからないまま。気持ち悪いのに嫌いになれない。
——すきよちゃんが「嫌いになれないのはなぜか」と聞いてきた。
知ってるのかな、すきよちゃんは。
千姿の記憶があるから、何か知ってるんだと思う。
でも今日は何も言わなかった。
言うべき時じゃない、と思って言わなかったのかもしれない。
……いつか、教えてもらえるかな。
──────────────────
**真意——五十四日目**
カオスドナルド。変質度97.3%。
タグを読んだ。ルーペが歪んだが割れなかった。
変質しても最初の命名タグは消えない——これは今日新しく確認できた事実だ。
つまり歪者には全員、最初の命名が残っている可能性がある。
他の歪者も読める。
どこから来たか。何に共鳴して変質したか。全部、タグに残っているなら——
「歪者とは何か」という問いへの答えが、タグの中にある。
次の機会に、また読む。
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**懺悔——五十四日目**
今日の重さは、一番古かった。
全部は無理だった。一割も引き取れなかったかもしれない。
でも、少しだけ動いた。
好代ちゃんの光が出ていた時に、動きやすくなった。
あの光が出ていると、重さの表面が少し柔らかくなる感触がある。
次に来た時も、一緒に来てもらえると、もう少し引き取れる気がする。
──────────────────
**千姿——**
——
──────────────────
【エピローグ】五十四日目の夜
夜、廊下を歩いた。
今日のにおいがまだ来ていた。
カオスドナルド。真意ちゃんが読んだタグ。
千姿の記憶がまたざわめいた。
ドナルゥトゥのことは知っている。でもドナルゥトゥと歪者の関係の、もっと根本にあるものが——まだかすかにしか見えない。
それでいい。
見えない分だけ、前が広い。
今日、光が出た。
初めてだった。ぱんでむ全体のにおいを一点に集めた時に出てきた。千姿の機能だと思う。
届いた。
カオスドナルドに、届いた。
一回では終わらない。でも一回、届いた。
懺悔ちゃんが「次に来た時も一緒に」と言っていた。
また行く。
前が広い。
——それはずっと変わらない。
**◆ぱんでむ拡張記録:渋谷2.3区画分+1ヶ所+外縁部1ヶ所(五十四日目)**




