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第38話「郷愁ちゃんの『帰れない』」

「黄昏」のドアは、いつも少し重い。


木の扉で、少し反りがある。押しても引いても、最初に少し抵抗する。でも慣れると、それが「ここに入る」という感触になる。


五十三日目の昼過ぎ、好代はその扉を押した。


第三十五話で郷愁ちゃんに「後でお茶に来なさい」と言われていた。二日経ってしまったが、「後でいつでもいい」という言い方だったので、今日来た。


橙色の光が差し込んでいた。


いつも夕暮れの場所だ。外が昼でも関係ない。この部屋だけ夕方が続いている。においが来た——古い木のにおい。茶のにおい。それから、少し懐かしいにおい。どこかで嗅いだことがある感触があるが、いつかは特定できない。


郷愁ちゃんがカウンターの奥にいた。


こちらに気づくと、「来たのね」とだけ言った。多くを言わない人だ。


「お待たせしました」


「待ってないわ」と郷愁ちゃんが言った。「来た時が来た時だから」


お茶を入れてくれた。


好代は椅子に座って、その茶を受け取った。




第一章「昭和の夕暮れ」


◆静かな時間


しばらく、二人でお茶を飲んだ。


話すことがあるのかないのか、好代にはわからなかった。でも郷愁ちゃんは座っているだけで自然だった。この人は、黙っていることが得意な人だ。


窓の外を見た。夕暮れが続いている。木造の軒先が見える。石畳の路地。遠くに子供の声がするような気がした。


においを確認した——来ていた。炊き立てのご飯のにおい。どこかで夕食の準備をしているにおい。生活のにおいだ。でも今ここにある生活ではなく、どこか遠い場所の、とっくに終わった生活のにおい。


「……不思議な場所ですね」と好代は言った。


「あら、今頃気づいたの」と郷愁ちゃんが言った。声に笑いがある。


「最初から不思議でしたが、ゆっくり見るのは今日が初めてです」


郷愁ちゃんが窓の外を見た。「……私が好きな夕暮れを、ここに置いてるの。特定の場所じゃなくて、この光の角度と、このにおいと、この温度が好きで」


「どこの夕暮れですか」


「どこでもない」と郷愁ちゃんは言った。「いくつかの世界線の夕暮れが混ざってる。全部が終わった世界線のもの。今はもう、どこにも存在しない夕暮れ」


好代はその言葉を受け取った。


どこにも存在しない夕暮れが、この部屋にある。


「だから帰れないんですね」と好代は言った。


郷愁ちゃんが好代を見た。「……そう」




◆郷愁ちゃんが話した


お茶をもう一杯入れてくれながら、郷愁ちゃんが言った。


「……聞いてもいい?」


「何でも」


「千姿ちゃんは——旧千姿ちゃんは、「帰れない場所」があったと思う?」


好代は少し考えた。千姿の記憶を確認した。渋谷のにおい。路地の石畳のにおい。バーガーのにおい。それが「持てない」という記憶。


「ありました」と好代は言った。「渋谷です。においを嗅げなくなった場所です」


郷愁ちゃんがお茶を注ぐ手を少し止めた。「……そうなの」


「今は私が代わりに嗅いでいます」


「……そうね」と郷愁ちゃんが静かに言った。「あなたがいる意味って、そういうことかもしれない」


二人でしばらく黙った。


窓の外で、どこかの夕暮れが続いていた。




◆郷愁ちゃんの「好き」


「郷愁さんは」と好代は言った。


「何?」


「帰れない場所が好きですか」


郷愁ちゃんが少し驚いた顔をした。誰かにそう直接聞かれることが、珍しかったのかもしれない。


それから、「好き」と言った。迷わなかった。


「帰れないから好き。帰れたら、「帰れない場所」じゃなくなるから」


「帰れなくなることが、その場所を好きな理由ですか」


「そう」と郷愁ちゃんは言った。「失われたものが好き。終わったものが好き。続かなかったものが好き。——なんで好きなのかは、うまく言えないけれど」


好代はそれを聞いた。


郷愁ちゃんの「好き」は、自分の「好き」と少し形が違う。好代の「好き」は「前が広い」感触と一緒にある。でも郷愁ちゃんの「好き」は、終わったものの方を向いている。


どちらも本物だ。形が違うだけで。


「わかります」と好代は言った。


「どっちが?」


「郷愁さんが好きな理由が、うまく言えない、というのが」


郷愁ちゃんが少し笑った。声には出なかったが、目の端が少し動いた。




第二章「問いを渡す」


◆好代が聞いたこと


お茶が二杯目になった頃、好代は少し考えてから口を開いた。


「一つ聞いていいですか」


「いいわよ」


「郷愁さんのバーガーを食べたお客様が、帰れなくなるとします」


「うん」


「それは、いいことですか」


郷愁ちゃんが止まった。


お茶を飲もうとして、湯呑みを持ったまま止まった。


「……どういう意味で聞いてるの?」


「帰れない場所が好きなら——帰れない人が出ることも、好きですか」


郷愁ちゃんがしばらく黙った。


責めているわけではなかった。怒っているわけでもなかった。ただ、気になったから聞いた。


でも聞いてから、これは小さい問いではないと気づいた。郷愁ちゃんの顔が、少し変わっていたから。


「……考えたことがなかった」と郷愁ちゃんがゆっくり言った。「帰れない場所が好きだから——帰れない人が出ることを、当然のことみたいに受け取ってた」


「そうですか」


「……でも今聞かれると」郷愁ちゃんがお茶を置いた。「わからなくなってきた。帰れない場所は好き。でも帰れない人のことを、好きかどうかは——考えたことがなかった」


「急がなくていいです」と好代は言った。「今日答えが出なくてもいいです」


郷愁ちゃんが好代を見た。「……怒ってないの?」


「何に怒るんですか」


「帰れなくなった人のことを、ずっと考えてこなかったこと」


「怒らないです」と好代は言った。「気になったから聞きました。それだけです」


郷愁ちゃんがまた黙った。


今日は遠くを見ていない。手元のお茶を見ていた。




◆静かな残りの時間


それから二人でまたお茶を飲んだ。


今度は郷愁ちゃんからは何も言わなかった。好代も続けて話さなかった。


でも沈黙は重くなかった。郷愁ちゃんが何かを考えているのが、においでわかった。懐かしいにおいの中に、少し違う感触が混ざっていた。今まで止まっていた時間が、少し動き始めたような感触。


しばらくして、郷愁ちゃんが「お代わりは?」と言った。


「いただきます」


お茶が三杯目になった。


窓の外でどこかの夕暮れが続いていた。それは変わらなかった。




第三章「帰り際」


◆扉を出る前に


帰り際、好代が立ち上がると、郷愁ちゃんが「一つだけ」と言った。


「はい」


「あなた、帰れない場所ってどこかある?」


好代は少し考えた。


渋谷の路地。十七年間においだけ嗅いでいた場所。食べられなかった時間。でも今は食べられる。だから「帰れない」ではないかもしれない。


「……前は食べられなかった時間が、帰れない場所に近かったと思います」と好代は言った。「でも今は食べられているので、帰れない場所ではなくなりました」


「……そうなの」


「そうなりました」


郷愁ちゃんが少し目を細めた。「……羨ましいわね、それ」


声が素直だった。うらやんでいるが、悲しくはない感触の声だった。


「郷愁さんも、帰れる場所が増えるかもしれないです」と好代は言った。


「……どうして?」


「帰れない人のことを考えたから」と好代は言った。「考えたことが、何かを変えることがあります」


郷愁ちゃんが「……そうかしら」と言った。確信はない声だった。でも否定でもなかった。


好代は「ありがとうございました」と言って「黄昏」を出た。


扉が閉まる感触があった。少し重い木の扉が、きちんと閉まった。


廊下のにおいが来た。ぱんでむのにおい。草と電子と時間が混ざったにおい。


好代はそれを吸い込んで、歩き始めた。




【クルー視点モノローグ】

──────────────────

**郷愁——五十三日目**


好代ちゃんが来た。


二日経ってから来た。それがこの子らしい、と思った。来いと言われたら次の日すぐ来るような子じゃない。自分が来たいと思った時に来る。


お茶を三杯飲んだ。


「帰れない人のことを好きかどうか」と聞かれた。


考えたことがなかった。本当に。


帰れない場所が好き。失われたものが好き。それは確かだ。でもその場所に閉じ込められた人のことを、一度も「どうか」と思ったことがなかった。


私が管理する世界線のお客様が帰れなくなっても、それはそういうものだと思っていた。


帰れない場所に来たのだから、帰れなくなっても当然だ、と。


……でも、それを当然と思っていたのは私だけで、帰れなくなった人は、当然とは思っていなかったかもしれない。


考えてみる。急がなくていいと言われたので、急がないで考える。


帰り際に「帰れる場所が増えるかもしれない」と言われた。


今はまだわからない。でも——言われた言葉が、この部屋で夕暮れと一緒にある。


しばらく一緒にあることになると思う。



──────────────────

**渾沌——五十三日目**


すきよちゃんが「黄昏」から帰ってきた。


においを確認した。


郷愁ちゃんのお茶のにおい。昭和の夕暮れのにおい。それから——郷愁ちゃんが「考えている」時に出るにおい。


あのにおいは珍しい。郷愁ちゃんはいつも遠くを見ていて、今を考えないタイプだ。それが今日は考えていた。


すきよちゃんが何か言ったんだろう。


何を言ったかは聞かない。郷愁ちゃんとのことだから。


でも——郷愁ちゃんが「考えている」のは、悪くないと思う。


あの人が考え始める時って、何かが少し動く気がする。うまく言えないけど。



──────────────────

**千姿——**


——


──────────────────


【エピローグ】五十三日目の夜


夜、廊下を歩いていたら「黄昏」の前を通った。


明かりがまだついていた。


においを確認した。お茶のにおい。夕暮れのにおい。それから——少し違うにおいが今日は混ざっていた。


今まで止まっていたものが、少し動き始めたようなにおいだ。


好代は扉の前で少し立ち止まった。


ノックはしなかった。今日は入らなかった。


ただ、扉のにおいを確認した。


木のにおい。古い塗料のにおい。それから、少しだけぱんでむのにおいが積もっていた。この扉を何度も押して入ったことで積もったにおいだ。


次に来た時は、もう少し積もっている。


前が広い。


——それはずっと変わらない。




**◆ぱんでむ拡張記録:渋谷2.3区画分+1ヶ所(五十三日目・変化なし)**


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