第37話「届けに行く」
五十二日目の朝、至誠ちゃんが来た。
いつもの馬耳がぴんと立っている。緑と赤の制服。手に地図を持っている。
「好代さん!今日から一緒に外業務をさせてください!」
「よろしくお願いします」
「命にかえても、お届けします!」
「命にかけなくていいです」
「……承知しました。でも命にかけてもいいくらい、お届けしたいです」
好代は少しそれを聞いた。
至誠ちゃんにとって「届ける」という行為は、命と等価だ。それが至誠ちゃんの在り方だ。好代は千姿になってから、至誠ちゃんの「届ける」と自分の「届けたい」が、形は違っても根が近いと感じていた。
「今日の届け先は」と好代は聞いた。
至誠ちゃんが地図を広げた。「本日の配送ルートを確認します!第一便は——」
地図の一点を指した。
「消えかけている世界線の、最後の一ヶ所です」
好代は少しそれを受け取った。
消えかけている。最後の一ヶ所。
「……何を届けますか」
至誠ちゃんが少し止まった。それから、静かに言った。
「……まだ決まっていないんです。今まで届けに行ったことがない場所なので」
「一緒に考えましょう」と好代は言った。
至誠ちゃんが「はい!」と言った。耳がさらに立った。
第一章「消えかけた世界線」
◆空間を抜けた先
至誠ちゃんが「三・二・一!」と言って空間を開けた。
好代も合わせて空間を薄くした。
二つの力が重なった。扉が開いた。
出た先は——薄かった。
色が薄い。光が薄い。空気が薄い。においを確認した——来た。でも薄い。
草のにおい。土のにおい。石のにおい。かつて人がいたにおい。今は人がいないにおい。
そして——時間のにおいがした。時間が少しずつ、この世界線から抜けていくにおい。
砂時計の砂が、静かに落ちているようなにおいだ。
「……どんなにおいがしますか」と至誠ちゃんが聞いた。
「終わっていくにおいがします」と好代は言った。「でも急いでいない。ゆっくりと、終わっています」
至誠ちゃんが少し黙った。地図を見ている。「……この世界線は、最後の住民が三年前に亡くなっています。でも場所は残っている。廃村が一つ、あそこの丘の上に」
地図が指した方向を見た。
丘があった。薄い空の下に、石造りの建物が数棟、静かに立っていた。
◆丘の上の廃村
二人で丘を上った。
至誠ちゃんが早い。「あ、遅れてすみません!」と言いながら、でも道が見えているのか迷わない。
好代はゆっくり歩きながらにおいを確認した。
草のにおいが積み重なっている。何年も、何十年も、ここに草が生えていたにおい。石のにおいが積み重なっている。誰かが積んだ石のにおい。人の手のにおいが、石に残っている。
「……人がいたにおいがします」と好代は言った。「かなり前から、ここに人がいた。長い間」
「何年くらいですか」と至誠ちゃんが聞いた。
においを読んだ。「……百年以上です。もっとかもしれないです」
「百年以上、ここで暮らしていたんですね」と至誠ちゃんが言った。声が少し静かになった。
廃村に入った。
建物の入口が開いていた。木の扉が朽ちて、半分落ちていた。中を見た。石の床。木の棚。棚に何かが並んでいた。
近づいて、においを確認した。
古い陶器のにおい。乾いた食料のかすのにおい。それから——何かを保存していたにおい。
「……ここに食器があります。まだ残っています」と好代は言った。
至誠ちゃんが入口から覗いた。「……本当だ。きれいに並べてあります」
「最後に住んでいた人が、片づけていったんだと思います」
二人でしばらく、その棚を見た。
最後の人が、食器を棚に並べて出ていった。あるいは、ここで亡くなった。どちらかはわからない。でも食器は棚にある。
「……何か届けますか」と至誠ちゃんが聞いた。
◆届けるものを決める
「至誠さん、バーガーを持ってきましたか」
「はい!三種類持ってきました!」至誠ちゃんが背嚢から取り出した。「郷愁さんのえびフィレオと、渾沌さんのビッグマックと、千姿さまの——」
止まった。
「千姿さまの担当メニューを持ってきました。ハンバーガーです」
好代は少し止まった。
自分の担当メニューだ。
においを確認した。ハンバーガーのにおい。一番シンプルなバーガー。世界線の記憶が詰まっているが、一番余分なものが少ない。
「このハンバーガーを、ここに置いていきます」と好代は言った。
「……食べる人がいませんが、いいんですか」
好代は少し考えた。
至誠ちゃんの問いは正直だった。届けることを仕事にしてきた至誠ちゃんだからこそ、「受け取る人がいない届け」がどういうことか気になっている。
「……届ける相手がいなくても、届けますか」と至誠ちゃんが聞いた。
「届けます」と好代は言った。
「なぜですか」
好代は食器棚を見た。きれいに並んだ陶器を。百年以上ここにいた人たちの記憶を。
「バーガーが好きだった、という記録がここに残ります」と好代は言った。「この場所が終わっていく時に、ここにバーガーがあった、ということが積み重なります。それが——ぱんでむのにおいになります」
至誠ちゃんが静かだった。
しばらくして、「……今まで、一番大切なことを言われた気がします」と言った。
「命にかえてもというのとどっちが大切ですか」と好代は聞いた。
至誠ちゃんが少し考えた。「……同じくらいです」
好代はハンバーガーを、食器棚の前に置いた。
においが広がった。バーガーのにおい。世界線のにおい。この薄い空間に、少しだけ濃いにおいが積もった。
第二章「帰り道」
◆丘を下りながら
丘を下りた。
至誠ちゃんが先を歩いている。今日は一度も迷わなかった。
「至誠さん、今日は迷いませんでしたね」と好代は言った。
至誠ちゃんが振り返った。「……そうですか?」
「いつもは途中で迷うと聞きました」
「……秩序さんに言われたんですが、私が迷うのは届け先のにおいが薄い時だそうです。今日は好代さんのにおいがずっとしていたので、方向がわかりました」
「私のにおいがしましたか」
「はい。ぱんでむのにおいです。ここを歩くたびに積もっていくにおいです」
好代は少しそれを聞いた。
渋谷と同じだ。届けに来るたびに、ぱんでむのにおいが積もる。
「……届けに来るたびに、ここにも積もっていきますか」
「積もります!」と至誠ちゃんが力強く言った。「次に来る時は、今日より迷わないと思います。好代さんのにおいがあるので」
好代は少し嬉しかった。
◆帰る前に、もう一度においを確認した
空間を開ける前に、好代は一度振り返った。
丘の上の廃村がある。石造りの建物が薄い空の下に立っている。
においを確認した。
さっきより、ぱんでむのにおいが少し積もっていた。バーガーのにおいが、廃村に残っていた。
「……届きました」と好代は小さく言った。
至誠ちゃんが「届きましたか!」と言った。
「届きました」
「よかったです!」至誠ちゃんが耳をぴんと立てた。「命にかえても届けてよかったです!」
「命にかけていないです」
「でも気持ちとしては」
「気持ちはわかります」と好代は言った。
二人で空間を開けた。
第三章「帰って、秩序ちゃんに報告する」
◆秩序ちゃんからの通信
帰り着く前に、インカムから秩序ちゃんの声が来た。
「至誠さん、今日は配送ルートのタイムが改善されました。時空を歪めた回数が三回でした」
至誠ちゃんが「……精進します!」と言った。
「いつもは何回ですか」と好代が聞いた。
「七回です」と至誠ちゃんが言った。「いつもは七回歪めてしまいます」
「今日は三回でした」と秩序ちゃんが言った。「理由の分析が必要です」
「好代さんのにおいがしたので、方向がわかりました!」
インカムの向こうで秩序ちゃんが何かを書く音がした。「……記録します。「千姿のにおいが至誠の方向感知に寄与」」
◆ぱんでむに戻って
ぱんでむに戻った。
廊下のにおいが来た。草と電子と時間のにおい。全部が今ここにある。
秩序ちゃんが廊下に立っていた。
「報告をお願いします」
「消えかけている世界線の廃村に届けました。ハンバーガーを一個、食器棚の前に置いてきました。受け取る人はいませんでしたが、においが積もりました」
秩序ちゃんがペンを動かした。「……受け取る人がいない届けは、今まで記録にありません。どう分類すべきかわからないので、新しい欄を作ります」
「何という欄ですか」
「……「においの記録を置く」でいいですか」
「いいと思います」
秩序ちゃんが書いた。「「においの記録を置く」——初回。五十二日目。好代・至誠の二名による」
「至誠さんの名前も入れてもらえますか」
「入れています」と秩序ちゃんが言った。「至誠さんは今日、時空を三回しか歪めませんでした。記録的な改善です。記録します」
至誠ちゃんが「よかったです!」と言って、廊下の奥に走っていった。次の届け先を確認しに行ったらしい。
秩序ちゃんが少し間を置いた。
「好代さん」
「はい」
「「受け取る人がいなくても届ける」というのは——旧千姿の記録に一件だけ、似た記述があります」
好代は少し止まった。
「どんな記述ですか」
秩序ちゃんがペンを持ったまま、少し考えた。「……「好きだったから、来た。それだけでいい」という一行です。届けた記録ではなく、来た記録ですが——受け取る人がいなくても、ここに来た、という記録です」
好代はその言葉を受け取った。
「……似ていますね」
「似ていると思います」と秩序ちゃんが言った。「どちらも、届ける相手ではなく、来たこと自体が記録として残っています」
廊下が少し静かになった。
「記録します」と秩序ちゃんが続けた。「「届けた記録は、届けなくても残る」——これを今日の記録の備考に書きます」
【クルー視点モノローグ】
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**至誠——五十二日目**
今日、好代さんと初めて外業務に出た。
消えかけている世界線の廃村に届けた。受け取る人はいなかった。
今まで「届ける相手がいる場所」にしか届けたことがなかった。
届ける相手がいなくても届ける、というのは——命にかえても届けることと、少し違う。
命にかえても届ける、は「必ず届ける」という意志の話だ。
でも今日の届けは——「届けたことが残る」という話だった。
受け取る人がいなくても、においが残る。記録が残る。
……それも、届けることだったんだ。
今まで知らなかった。
今日から知っている。
帰り道、方向を間違えなかった。好代さんのにおいがしたから。
ぱんでむのにおいは、どこに行っても少し残る。それを辿れば帰れる。
命にかえてもお届けする気持ちは変わらない。
でも今日から、届け先がなくても届けられる気がしている。
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**秩序——五十二日目**
今日の記録を整理した。
「においの記録を置く」という新しい欄を作った。
至誠の時空歪め回数:三回。従来比57%減。好代のにおいが誘導に寄与したことを記録した。
「受け取る人がいない届け」の記録。
今まで存在しなかった種類の記録を、今日二つ書いた。
「においの記録を置く」と「届けた記録は届けなくても残る」。
どちらも、今まで記録する必要がなかったことだ。
ぱんでむには「来た者に届ける」という構造があった。「届けに行く」は千姿になってから始まった。「受け取る人がいなくても届ける」は今日始まった。
記録が、少しずつ変わっている。
ぱんでむが「届けに行く場所」になっていることを、今日また確認した。
ぱんでむ拡張記録に、今日届けた世界線を追記した。正式な「区画」ではないが、においが積もった場所として記録した。
**ぱんでむ拡張記録:渋谷2.3区画分+消えかけた世界線1ヶ所(五十二日目)**
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**千姿——**
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【エピローグ】五十二日目の夜、届けた場所のにおい
夜、廊下を歩いた。
今日の届け先のにおいが、まだ少し来ていた。
草のにおい。石のにおい。食器棚のにおい。百年以上の人のにおい。その上に積もったバーガーのにおい。
全部が今ここにある。
好代は廊下の拡張記録の紙を見た。秩序ちゃんが今日追記した一行がある。
「消えかけた世界線1ヶ所——においの記録を置いた」
数字ではない。区画分でもない。でも記録がある。
届けた。
受け取る人がいなくても、届けた。
「前が広い」と好代は言った。
廊下に向かって。
今日届けた廃村の丘に、少しだけ声が届いた気がした。
——それはずっと変わらない。
**◆ぱんでむ拡張記録:渋谷2.3区画分+1ヶ所(五十二日目)**




