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第89話「それ、私が言いました」


開店して十二分。


好代は、レジ横に置かれた小さな札を裏返した。


《本日の名言》


その下に。


《知らない分だけ、まだあります》


好代ちゃん


「……ありますね」


昨日まではなかった。


値段もついている。


三百円。


札の隣には、同じ文字を印刷した丸い缶バッジが六個並んでいた。


一つ減っている。


好代は売上端末を見る。


三百円。


売れていた。


「誰の商品ですか、これ」


厨房へ聞く。


返事はない。


フライヤーの油だけが鳴っている。


ぱち。


ぱちぱち。


好代は缶バッジを一つ持ち上げた。


自分の顔まで印刷されている。


少し困った顔。


いつ撮られたのかは分からない。


「……顔は要らないと思います」


そこが最初に気になった。



昼前には、残り二個になった。


買った客は、胸につけて帰った。


一人は写真も撮った。


好代は止めなかった。


止める理由を考えているうちに、自動扉が開いたからだ。


高校生くらいの女の子が入ってきた。


鞄に、同じ缶バッジがついている。


「本物だ」


「はい?」


「好代ちゃん」


「はい。好代です」


女の子はレジまで来ると、缶バッジを指で弾いた。


からん。


「これ、好き」


「ありがとうございます、でいいんでしょうか」


「いいと思う」


「そうですか」


女の子はメニューを見ない。


スマートフォンを出した。


画面には短い動画が止まっている。


二人の女の子。


片方が笑っている。


もう片方は、顔の半分しか映っていない。


「これ、消した方がいい?」


好代は画面を見る。


「私に聞いていますか?」


「うん」


「どうしてですか?」


女の子は缶バッジをまた弾いた。


「知らないなら決めない人でしょ」


好代の指が、レジの縁で止まった。


「……それは」


油の音が一度、大きく弾けた。


厨房からポテトの匂いが流れてくる。


「少し違います」


「違うの?」


「知らないことを、知っていることにはしないです」


「同じじゃない?」


好代は答えなかった。


女の子が動画を再生する。


三秒。


笑い声。


画面の外から、誰かが名前を呼ぶ。


そこで終わった。


「昨日上げた。けっこう回ってる」


「もう一人の方は、知っていますか?」


「友達」


「投稿したことをです」


女の子の親指が止まった。


「……知らない」


「そうですか」


「だから、消した方がいい?」


また同じ質問。


好代は、すぐには答えなかった。


いつもなら。


本人に聞いてください。


私には決められません。


そう言えば、間違いにくい。


実際、それでいいことも多い。


女の子は待っている。


胸ではなく、鞄の缶バッジを見ている。


そこにいる好代ではなく。


印刷された好代を。


「私は」


好代は言った。


女の子が顔を上げる。


「一度、消した方がいいと思います」


「え」


「そのあとで、載せていいか聞きます」


「でも、もう伸びてる」


「はい」


「消したらもったいなくない?」


「もったいないと思います」


「じゃあなんで」


好代はスマートフォンを見る。


動画の止まった画面。


笑っている子。


半分しか映っていない子。


「私なら、そっちの方が嫌だからです」


女の子が黙った。


「正しいから?」


「分かりません」


「じゃあ、名言と違うじゃん」


好代は缶バッジを見る。


《知らない分だけ、まだあります》


自分の顔。


「それも、私が言いました」


「うん」


「今のも、私が言いました」


女の子は、しばらく好代を見ていた。


それから。


「変わっていいの?」


「何がですか?」


「言うこと」


好代は少し考えた。


「同じことしか言わない方が、変じゃないですか?」


女の子が吹き出した。


「それも名言っぽい」


「やめてください」


今度はすぐに言った。



女の子は窓際の席へ行った。


注文はポテトだけだった。


一本食べる。


スマートフォンを見る。


また一本。


親指が画面の上で何度も止まる。


好代はレジから見ていた。


見ない方がいい気もしたので、トレーを拭いた。


二枚目を拭いている途中で。


「消した」


声が飛んできた。


好代は顔を上げる。


女の子がスマートフォンを掲げている。


「そうですか」


「めっちゃ減った」


「何がですか?」


「再生数」


「消したなら、そうだと思います」


「最悪」


「すみません」


「なんで好代ちゃんが謝るの」


好代はトレーを持ったまま止まった。


「私が、消した方がいいと言ったので」


女の子は少し考える。


「でも押したの私だよ」


「はい」


「じゃ、半分ね」


「何がですか?」


「最悪の責任」


「半分なんですか」


「たぶん」


好代はトレーを置いた。


「分かりました」


「分かるんだ」


「今は、それで」


女の子は笑った。



午後。


缶バッジは売り切れた。


好代は、空になった箱を片づけた。


底に紙が一枚入っていた。


次回入荷予定。


《好代ちゃん名言シリーズ》


第二弾。


《同じことしか言わない方が、変じゃないですか?》


好代は紙を見た。


まだ誰にも渡していないはずの言葉だった。


数秒。


そのまま事務所へ持っていく。


シュレッダーの前で止まる。


紙を差し込む。


刃が回る直前に、手を離した。


細い紙片になって落ちていく。


「これは、売らないです」


誰に言うでもなく言った。


それからレジへ戻る。


入口のベルが鳴った。


さっきの女の子だった。


「忘れ物ですか?」


「違う」


息を切らしている。


「聞いた」


「何をですか?」


「載せていいって」


スマートフォンを見せる。


メッセージが一つ。


《いいよ。でも次は先に聞いて》


好代は読んだ。


「そうですか」


「上げ直す」


「はい」


「同じやつ」


「はい」


女の子は帰りかけて、振り向いた。


「好代ちゃん」


「はい」


「さっきの、正解だった?」


好代は答える。


「知りません」


女の子が笑う。


「そこは変わんないんだ」


「はい」


自動扉が閉じた。


好代はレジへ戻った。


空いた缶バッジの箱を持ち上げる。


三百円の値札を剥がす。


粘着が少し残った。


爪でこする。


一度では取れない。


もう一度こする。


それでも少し残る。


好代は、そのまま箱を棚へ戻した。


全部きれいにしてからでなくても。


次の客は、もう入ってきていた。

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