第88話「昨日の真似」
開店して。
三人目。
「これください」
男が右手を上げた。
指を開く。
「三秒!」
友人がスマートフォンを伏せる。
二人で笑う。
何も消えない。
四人目。
「三秒!」
五人目。
「三秒!」
好代はポテトを袋へ入れた。
塩を振る。
一度。
二度。
入口を見る。
「……もうですか」
昨日から。
まだ一日しか経っていなかった。
第一章「新しいやつ」
昼前には。
名前がついていた。
《三秒》。
意味も決まっていた。
嫌なものを三秒だけ消す。
授業。
仕事。
親。
恋人。
借金。
月曜日。
客たちは笑いながら、消したいものを言った。
「上司!」
「三秒じゃ足りないって」
「じゃあ三年!」
笑う。
右手を上げる。
指を開く。
昨日。
男が初めて自分で使ったもの。
今日。
もう本人はいらなかった。
「好代ちゃんもやって」
「私は結構です」
「一回だけ」
「結構です」
「ノリ悪いなあ」
「すみません」
謝ってから。
好代は少し嫌な顔をした。
第二章「違う」
午後。
男が来た。
黒い上着。
白いシャツ。
入口を通った瞬間。
「三秒!」
客席から声。
男が止まる。
別の客も右手を上げた。
「本家!」
笑い声。
男は好代を見る。
好代も見る。
「いらっしゃいませ」
「何これ」
「増えました」
「また?」
「はい」
男が客席を見る。
三人が同時に右手を上げる。
「三秒!」
男は眉を寄せた。
「違う」
客が笑った。
「何が?」
「そういうんじゃない」
「でも昨日やったじゃん」
「やったけど」
男は右手を見る。
指を一度握る。
「昨日は、撮るのやめてほしかったから」
「だから嫌なもの消すんだろ?」
「……違う」
「同じじゃん」
男の口が閉じた。
好代には。
その「違う」を説明できなかった。
たぶん。
男にも。
第三章「教えて」
小学生くらいの男の子が来た。
母親と一緒だった。
注文を待っている間。
男の席へ近づく。
「ねえ」
男が顔を上げる。
「三秒のやりかた教えて」
「やだ」
「なんで?」
「やだから」
男の子は困った。
「でも、みんなやってるよ」
「みんなに教えてもらえば」
「ほんものがいい」
男の顔が固まった。
好代の手も止まった。
本物。
また。
その言葉だった。
男の子は悪くない。
ただ。
知っている言葉を使っただけ。
「ねえ、ほんものやって」
男は立ち上がった。
男の子が一歩下がる。
母親が気づいて寄ってくる。
「すみません、この子が」
男の右手が動いた。
好代はカウンターから出なかった。
昨日なら。
暗くなる。
三秒。
今日は。
男の手は途中で止まった。
下がる。
「今日はやらない」
男の子が聞く。
「できないの?」
「できる」
「じゃあなんで?」
「やりたくないから」
男の子は少し考えた。
「昨日は?」
「昨日は、やりたかった」
「今日は?」
「やりたくない」
「明日は?」
男が止まった。
好代も。
母親も。
男の子だけが待っている。
男は笑った。
「知らない」
男の子も笑った。
「ぼくも!」
母親に手を引かれていった。
第四章「昨日の人」
男はカウンターへ来た。
「昨日の俺って、俺?」
好代は注文端末を拭いていた。
一往復。
手を止める。
「昨日は、そうだったと思います」
「今日の俺は?」
「今日も、そうだと思います」
「違うことしてるのに?」
好代は布巾を畳む。
「昨日と今日で同じことしかできない方が、変ではないですか?」
男が黙った。
「好代ちゃんは?」
「私?」
「昨日と同じ?」
好代は答えようとした。
昨日。
男が怖い力を使った。
好代は止めなかった。
怖かったと答えた。
それでも。
それを間違いだとは言わなかった。
今日。
男が使わなかった。
それも。
間違いではないと思っている。
「……たぶん、違います」
「毎日?」
「そこまでは」
男が笑った。
「知らない?」
「はい」
「便利だな、それ」
「便利ではないです」
少し考える。
「結構、困ります」
男は声を出して笑った。
第五章「好代ちゃんの」
夕方。
客が途切れた。
好代はトレーを拭いていた。
奥の席で。
高校生が二人。
小声で話している。
「違う」
聞こえた。
「昨日はやりたかった。今日はやりたくない」
好代の手が止まる。
男の言葉。
そのまま。
もう一人が言う。
「それ、昨日のやつ?」
「そう」
「いいじゃん」
スマートフォンへ打ち込む。
数秒。
「上げた」
好代はトレーを置いた。
嫌な感じがした。
でも。
何が嫌なのか。
すぐには分からなかった。
男が選んだ言葉。
本人の言葉。
改変されていない。
怖くもされていない。
優しくもされていない。
そのまま。
なのに。
もう。
本人から離れていく。
高校生の一人が好代に気づいた。
「あ、好代ちゃん」
「はい」
「これ、いい言葉だよね」
画面を見せる。
《昨日はやりたかった。
今日はやりたくない。
明日は知らない。》
その下。
《好代ちゃん理論》
好代は三秒ほど動かなかった。
「……私、言っていません」
「でも好代ちゃんっぽいじゃん」
「言っていません」
「似たようなこと言ってたでしょ?」
「言っていません」
三回目は。
少し強かった。
高校生が画面を下げる。
「あ、ごめん」
「いえ」
好代は頭を下げた。
「こちらこそ、すみません」
謝ってから。
また。
少し嫌な顔をした。
第六章「消さない」
閉店後。
保管庫。
六個目の箱。
好代は開かなかった。
今日は。
先にレジ下を片づける。
レシート。
予備のペン。
輪ゴム。
そして。
紙の王冠。
《おかえり》
まだある。
好代は裏側を見る。
白いまま。
ペンを持つ。
今度は止まらなかった。
《帰らなくていい》
書いた。
見た。
眉を寄せる。
「……違いますね」
線を引く。
消えない。
黒い線の下に。
文字が残る。
《帰らなくていい》
好代は王冠を見た。
また。
決めた。
帰らなくていい。
それだって。
自分が決めた。
新しい王冠を取ることもできた。
書き直すことも。
捨てることも。
好代はしなかった。
線の引かれた王冠を、そのまま保管庫へ持っていく。
六個目の箱を開く。
《自己選択:3》
その下。
《派生定義:増加》
さらに。
《発話帰属:混線》
好代は王冠を見る。
自分が言っていない言葉。
男が言った言葉。
誰かが好代へ付け替えた。
自分が書いた言葉。
自分で間違いだと思った。
でも。
全部。
もう存在している。
画面に質問が出た。
《誤帰属を削除しますか?》
はい。
いいえ。
好代は。
しばらく見ていた。
「これは」
指を伸ばす。
「消していいと思います」
はい。
押す。
箱が鳴る。
《削除対象を選択してください》
一覧が出る。
《好代ちゃん理論》
好代は選ぶ。
その下にも。
似た言葉。
さらに下。
別の言葉。
そのまた下。
好代が昔。
面白いと思って。
誰かへ渡したもの。
好代の指が止まった。
古い。
怖い笑顔。
刃物。
赤い目。
一言だけ足された台詞。
好代は。
画面を見たまま。
動かなかった。
消したい。
今なら。
消せる。
たぶん。
一つずつ。
指を置く。
でも。
押せなかった。
自分が渡したものまで。
なかったことにするのは。
違う。
好代は一覧を閉じた。
《削除:0》
箱を閉める。
線を引いた王冠だけを上に置く。
《おかえり》
裏。
《帰らなくていい》
その上に。
一本の黒い線。
どちらも。
消えていなかった。




