第87話「今日は、やる」
朝。
紙の王冠は、一つしかなかった。
入口の脇。
昨日は二十七個あった場所。
《おかえり》
好代は箒を止めた。
拾う。
昨日、何も書けなかった言葉。
少し迷って、ゴミ袋には入れなかった。
レジの下へ置いた。
開店する。
今日は、静かだった。
第一章「先に決める」
十一時過ぎ。
男が来た。
黒い上着。
白いシャツ。
昨日と同じ。
ただ、今日は入口で止まらなかった。
そのままレジまで来る。
「今日はこれ」
メニューの一つを指す。
好代が画面を開く。
「こちらですね」
「うん」
「承知しました」
会計。
それだけ。
男が少し笑った。
「聞かないんだ」
「何をですか?」
「今日は?って」
好代はレシートを渡した。
「もう決めていたので」
男は受け取る。
「そっか」
窓際へ行く。
昨日までより、ずっと早かった。
第二章「つまんない」
昼過ぎ。
二人組が来た。
注文する前から、男を撮っていた。
「いた」
「黒いままじゃん」
男は気づいている。
けれど食べ続けた。
一人が近づく。
「ねえ、やってよ」
男は包み紙を畳んだ。
「何を」
「怖いやつ」
「今日はいい」
「じゃあ優しい方」
「それもいい」
「えー」
スマートフォンが近づく。
レンズが、男の顔から二十センチほどのところで止まった。
「昨日めっちゃ伸びたんだよ」
「そう」
「もう一回やればもっと行くって」
「やらない」
男は席を立った。
撮る側も一歩下がる。
それでもレンズは追う。
「なんだよ。つまんね」
男の足が止まった。
好代はカウンターの内側から見ていた。
トングを持ったまま。
第三章「やめて」
男が振り返る。
「撮るの、やめて」
「なんで?」
「嫌だから」
「昨日は撮らせてたじゃん」
「今日は嫌」
相手が笑った。
「そのキャラじゃないって」
もう一人も笑う。
「怖い方なら止められるんじゃね?」
両手を頭の横へ。
くるり。
指を鳴らす。
からかうように。
男は見ていた。
好代はトングを置いた。
出ようとした。
その前に。
男が右手を上げた。
第四章「三秒」
誰かが息を吸った。
男の指が開く。
店の照明が落ちた。
一灯ずつではない。
全部。
同時に。
冷蔵庫の唸りも。
フライヤーの油が弾ける音も。
空調も。
消えた。
暗闇の中で、二台のスマートフォンだけが白く光っていた。
その画面も。
黒くなった。
一秒。
二秒。
三秒。
男が手を下ろす。
音が戻った。
油が、ばち、と鳴る。
照明が点く。
スマートフォンにはカメラ画面が戻っていた。
録画時間だけが三秒進んでいる。
映像は黒い。
二人は動かなかった。
男が自分の右手を見る。
「……できた」
誰も笑わない。
男は顔を上げた。
撮っていた二人を見る。
「もう撮らない?」
一人が、先にスマートフォンを下ろした。
もう一人も続いた。
「……うん」
「そっか」
二人は注文せずに出ていった。
自動扉が閉まる。
男はその扉を見ていた。
それから。
少しだけ笑った。
第五章「怖かった?」
好代はカウンターを回った。
「大丈夫ですか?」
「俺?」
「はい」
「大丈夫」
男は自分の右手をまだ見ていた。
「今のさ」
「はい」
「怖かった?」
好代は少し考えた。
「少し」
男の口元が上がった。
「よかった」
好代は眉を寄せる。
男が笑う。
「その顔」
「すみません」
「謝るの?」
「癖です」
男はもう一度、自分の手を見る。
「俺、今のやりたかった」
好代は何も言わない。
「撮るのやめてほしかったし」
「はい」
「びびらせたかった」
「はい」
「ちょっと楽しかった」
好代の返事が止まった。
男がこちらを見る。
昨日までなら。
ここで何かを聞いたかもしれない。
これでいいのか。
本物なのか。
怖い方なのか。
でも今日は聞かなかった。
「腹減った」
男が言った。
「もう一個頼んでいい?」
好代はレジへ戻った。
「もちろんです」
第六章「同じ」
夕方。
男が帰ったあと。
好代はレジ下から紙の王冠を出した。
《おかえり》
裏返す。
白い。
ペンも取った。
書こうとして。
やめた。
王冠を畳み、保管庫へ持っていく。
六個目の箱。
《本人確認:失敗》
《自己選択:2》
その下。
新しい履歴が二つあった。
《外部定義との一致を検出》
好代の指が止まる。
もう一行。
《自己選択:3》
同じ時刻。
秒まで同じ。
好代は二つを交互に見た。
怖い方。
本人が選んだ方。
重なっている。
画面が一度だけ明滅した。
新しい判定が出る。
《矛盾なし》




