第86話「それ、似合ってるよ」
朝。
好代は、店の前に落ちていた紙の王冠を踏んだ。
ぱき。
足を止める。
黄色い紙。
赤い丸が三つ。
昨日、あの男が持って帰ったものと同じだった。
「……すみません」
誰もいないのに謝った。
拾う。
潰れた王冠を指で広げる。
内側に、黒いペンで文字があった。
《やさしいほう》
好代は眉を寄せた。
隣にも落ちている。
《こっちが本物》
もう一つ。
《おかえり》
歩道の先まで、七つ。
昨夜はなかった。
好代は三つ拾ったところでやめた。
残り四つを見た。
それから。
店へ戻った。
第一章「置いておく」
箒を持って戻る。
王冠を一つずつ掃く。
紙がアスファルトを擦った。
しゃっ。
しゃっ。
六つ。
最後の一つだけ残す。
入口の脇。
壁に寄せる。
好代はしゃがんだまま、それを見る。
捨てればいい。
なのに。
昨日、男が王冠を持って帰ったことを思い出した。
あれを本人が気に入ったのか。
たまたま持って帰っただけなのか。
好代は知らない。
だから一つだけ。
「……勝手に捨てるのも違いますか」
店内へ戻った。
自動扉が閉じる。
黄色い王冠だけが、外に残った。
第二章「本物」
十一時十二分。
一人目が来た。
注文より先に王冠を見つけた。
「あ、これだ」
拾う。
頭にかぶる。
写真を撮る。
返さない。
十一時四十分。
二人目。
王冠がないことに気づく。
紙袋から自作らしい王冠を出した。
入口に置く。
十二時七分。
三つになった。
十二時二十九分。
九つ。
好代はレジから、それを見ていた。
自分が一つ残した場所だった。
「……私ですか」
小さく言う。
客の一人が聞いた。
「何が?」
「いえ」
注文を受ける。
次の客。
その次。
昼の列が切れたころには、入口の横が黄色くなっていた。
王冠。
王冠。
王冠。
一つには。
《本物の人にどうぞ》
と書いてあった。
第三章「選んだ服」
午後二時。
男が来た。
昨日までの派手な服ではなかった。
黒い上着。
白いシャツ。
黒い靴。
地味だった。
客席から、笑い声がした。
悪い笑いではない。
むしろ嬉しそうだった。
「来た!」
「王冠あるよ!」
「こっち!」
男は入口の王冠を見る。
好代を見る。
「これ、何」
「増えました」
「なんで」
好代は答えかけた。
やめる。
「最初の一つを、私が残しました」
男が王冠を見る。
「好代ちゃんが?」
「はい」
その瞬間。
客席の誰かが言った。
「やっぱり!」
好代が振り向く。
スマートフォンがこちらを向いていた。
「好代ちゃんが用意したんだ」
「復活イベントじゃん」
「昨日ので戻ったんだろ」
好代はレジから出た。
「違います」
撮っていた客が笑う。
「でも置いたんでしょ?」
「一つだけです」
「じゃあ同じじゃん」
違う。
と言おうとして。
好代は止まった。
一つ置いた。
それを見た誰かが増やした。
また誰かが増やした。
今、二十を超えている。
誰も命令していない。
最初の一つだけ。
好代が残した。
男は、まだ入口に立っていた。
第四章「着替えようか」
女の子が一つ拾った。
男へ差し出す。
「はい」
男は受け取らない。
「いらない」
「なんで?」
「今日は、いい」
女の子は男の服を見る。
「それ、ちがうよ」
男も自分を見る。
「違う?」
「黒い」
母親が慌てて寄ってきた。
「すみません」
男は笑った。
「いいよ」
女の子は王冠を差し出したまま。
「前のがいい」
客席から声が重なる。
「分かる」
「派手な方が似合うよ」
「赤いやつ!」
「黄色も入れて!」
男は黒い袖をつまんだ。
親指と人差し指で。
布を擦る。
「着替えようか」
好代は、その指を見た。
昨日。
何を食べるか。
男は長い時間をかけて選んだ。
今日は。
店へ来る前に。
もう服を選んできている。
「どうしてですか?」
男が振り向く。
「え?」
「着替えるんですか?」
「こっちの方がいいって」
「誰がですか?」
男が客席を見る。
たくさんいる。
女の子もいる。
王冠もある。
カメラもある。
「……みんな?」
好代は言った。
「あなたは?」
男の指が止まった。
第五章「怖くない方」
「でもさ」
入口近くの客が言った。
「こっちの方がよくない?」
スマートフォンを男へ見せる。
昨日の動画。
紙の王冠を拾う。
子供へ返す。
そこで終わる。
「怖くないし」
別の客。
「昔みたい」
「やっぱ根は優しかったんだよ」
「怖い方が偽物だったんじゃない?」
男は画面を見ている。
好代も見た。
王冠を拾う。
返す。
それだけ。
その前に何をしていたか。
その後、何を食べたか。
何を選んだか。
映っていない。
「いいじゃん」
客が笑う。
「帰ってきたって感じ」
男が小さく言った。
「帰る?」
誰も答えない。
男が好代を見る。
「俺、どこに帰るの」
好代の舌が動かなかった。
分からない。
だから。
「分かりません」
男が少し笑った。
「ほんと知らないね」
「はい」
「何なら知ってるの」
好代は考える。
昨日。
「その商品は、昨日お好きだったみたいです」
「それだけ?」
「今のところ」
男が笑った。
短く。
今度は客席の誰も笑わなかった。
第六章「似合ってるよ」
女の子が、まだ王冠を持っていた。
男はしゃがむ。
目線が近くなる。
「これ、かぶってほしい?」
「うん」
「なんで?」
「にあうから」
「そっか」
男は王冠を受け取った。
客席がざわつく。
カメラが上がる。
男は王冠を見る。
黄色。
赤い丸。
指で端を折る。
一度。
反対側も折る。
そして。
女の子の頭に戻した。
「俺は今日はいいや」
女の子が王冠を押さえる。
「なんで?」
男は立った。
黒い上着の裾を引く。
「こっち着たかったから」
女の子は男を見上げた。
黒。
白。
どこにも黄色はない。
少し考えて。
「それ、にあってるよ」
男の動きが止まった。
客席も。
好代も。
女の子はもう母親の手を引いていた。
「ポテト!」
「はいはい」
それだけ。
好代はレジへ戻った。
男も来る。
「ご注文は?」
「昨日の」
好代は端末へ指を置いた。
「昨日と同じもの、ですか?」
「うん」
「今日は?」
男がメニューを見る。
昨日ほど長くない。
「今日は……」
一つ隣を指した。
「こっち」
「はい」
注文を通す。
男が言った。
「昨日のも好きだけど」
「はい」
「今日はこっち」
「はい」
それ以上、好代は聞かなかった。
第七章「一個目」
閉店後。
好代は入口の王冠を片づけた。
二十七個。
紙袋へ入れる。
一つ。
二つ。
三つ。
途中で。
内側の文字が目に入る。
《やさしいほう》
次。
《本物》
次。
《おかえり》
好代は手を止めた。
その三つだけ別にした。
捨てるためではない。
保管するためでもない。
ペンを持ってくる。
《やさしいほう》
その下へ。
《誰が決めた?》
《本物》
その下へ。
《本人は?》
三つ目。
《おかえり》
好代のペンが止まる。
長く。
書かなかった。
全部まとめて紙袋へ戻す。
保管庫へ行く。
六個目の箱。
《本人確認:失敗》
《自己選択:1》
好代は画面を見る。
昨日から増えていない。
「……そうですか」
箱を閉じようとした。
表示が変わった。
《自己選択:2》
好代は手を止める。
今日。
男は二つ選んだ。
黒い服を着た。
昨日とは違う商品を頼んだ。
どちらが記録されたのか。
分からない。
箱は教えない。
その下に。
別の文字が出た。
《外部定義:善性》
数字が猛烈に増えている。
《原型回帰要求》
それも。
増えている。
好代は見ていた。
昨日まで。
怖くなれと押していたものが。
今日は。
優しくなれと押している。
向きが違うだけだった。
箱の中央に質問が出る。
《原型定義へ近づいています》
《補正しますか?》
はい。
いいえ。
好代は。
どちらも押さなかった。
箱を閉じた。
店の外へ出る。
夜気が、揚げ油の匂いを薄くした。
王冠はもうない。
歩道の先に。
男がいた。
黒い上着。
白いシャツ。
紙袋を持って歩いている。
頭には何もない。
途中。
ガラスに自分が映った。
男が止まる。
襟を直す。
少し見る。
また歩く。
好代は呼ばなかった。
似合っているとも。
似合っていないとも。
言わなかった。
ただ。
男が自分で直した襟だけを。
遠くなるまで見ていた。




