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第85話「ご注文は?」


翌日。


好代は、六個目の箱を見なかった。


見れば、昨日と同じ文字がある。


《本人確認:失敗》


たぶん。


だから保管庫の扉を閉め、エプロンの紐を結び直した。


フライヤーが温まる。冷蔵庫が低く唸る。客席では椅子の脚が一つだけ床を擦っていた。


仕事は、好代が見ていなくても始まる。


第一章「見に来た人」


昼前から、客の入り方がおかしくなった。


注文を決める前に窓を見る。


席へ着いても外を見る。


スマートフォンを構えたまま、何も撮らない。


「今日、来るって」


「本物?」


「たぶん」


好代は聞こえないふりをした。


ポテトを渡す。


飲み物を置く。


レシートを切る。


ただ、入口のベルが鳴るたびに顔が上がった。


十三回目。


客席の空気が動いた。


誰かが立つ。


次の誰かも立つ。


窓の外。


派手な人影がいた。


昨日の人物。


今度は、逃げるように消えなかった。


自動扉が開く。


店内のあちこちで、撮影音が鳴った。


「来た」


「やって」


「例のやつ!」


男は立ち止まった。


好代を見る。


客を見る。


また好代を見る。


それから、自分の両手を見た。


第二章「それをやって」


最初の一人が、両手を頭の横へ上げた。


別の客が首を切る仕草を足す。


「こっちだって」


「いや、指鳴らす方」


「人消すやつやってよ」


笑い声。


男は右手を上げた。


客席が静かになる。


指が開く。


少し曲がる。


その影だけが、壁の上で大きく伸びた。


誰かが嬉しそうに息を漏らした。


好代は、レジの画面を閉じた。


「ご注文は?」


男の手が止まった。


「え」


「ご注文です」


後ろから笑い声。


「人間一人!」


「記憶バーガー!」


「三十一個だろ!」


男がそちらを向く。


好代はメニューを指で一度叩いた。


「お客様に聞いています」


男が、好代を見る。


「……何を頼めばいい?」


好代は少しだけ首を傾けた。


「それは、私が決めることではないです」


「じゃあ」


男はメニューを見る。


後ろからまた声が飛ぶ。


「肉!」


「赤いやつ!」


「一番やばいの!」


男の視線が泳ぐ。


好代は注文端末から手を離した。


「今は決めなくても大丈夫ですよ。後ろのお客様から先に伺います」


「待って」


初めて。


男の方から言った。


第三章「普通の」


客席の半分が、まだ撮っていた。


男はメニューを上から下まで見た。


一度。


二度。


三度。


「これ」


指した。


好代も見る。


何の変哲もない商品だった。


特別な名前もない。


世界を壊さない。


記憶も食べない。


「こちらでよろしいですか?」


「たぶん」


「たぶんでは困ります」


男が好代を見る。


好代も見る。


数秒。


「……これがいい」


「はい」


好代は注文を通した。


客席から、小さく「えー」という声がした。


男の肩が動いた。


好代は聞こえなかったことにした。


第四章「期待」


商品を待つ間も、客は諦めなかった。


「笑ってよ」


「怖い顔して」


「消してみて」


男は、そのたびに少しだけ反応した。


口角を上げる。


目を見開く。


手を上げる。


求められた形へ、身体が先に寄っていく。


そのたび、店の照明がわずかに暗くなった。


好代はトレーへ包みを置いた。


その横へ紙ナプキン。


飲み物。


番号札。


「お待たせしました」


男が手を伸ばす。


その瞬間。


客席の子供が椅子から降り損ねた。


紙の王冠が床へ落ちた。


ころころ転がって、男の靴に当たる。


客席が止まった。


男も止まった。


誰かのスマートフォンが、さらに近づく。


「来るぞ」


小さな声。


男は子供を見る。


子供も男を見る。


男の右手が上がった。


何人かが笑った。


好代は動かなかった。


男は、その手を下ろした。


しゃがむ。


王冠を拾う。


潰れた角を指で直して。


子供の頭に戻した。


「落とした」


子供は王冠を押さえた。


「ありがと」


それだけだった。


誰も笑わなかった。


第五章「面白くない」


最初にスマートフォンを下ろしたのは、入口近くの客だった。


「なんだよ」


別の客も言った。


「普通じゃん」


男は、その言葉を聞いた。


好代には分かった。


笑顔が消えたからではない。


むしろ逆だった。


男は、ほんの少しだけ笑った。


「普通だって」


好代はトレーを差し出した。


「注文されたものは普通ですね」


「おれも?」


好代の手が止まる。


昨日。


窓越しに問われた二文字。


だれ。


答えはまだない。


「そこまでは知りません」


男が笑う。


今度は、誰も求めていない笑い方だった。


「知らないんだ」


「知らない分だけ、まだあります」


男は少し考えた。


それからトレーを受け取った。


第六章「食べる」


男は窓際の席へ座った。


撮影していた客の多くは、もう興味を失っていた。


派手な事件が起きないから。


誰も消えないから。


血も出ないから。


一人が帰る。


二人帰る。


最後まで残っていた客も、別の動画を見始めた。


男は包みを開けた。


匂いを嗅ぐ。


一口。


長く噛む。


好代は遠くから見ていた。


男がこちらを向く。


「これ、前から好きだったかな」


「知りません」


「そうか」


もう一口。


「じゃあ、今は好きかもしれない」


好代は返事をしなかった。


レジへ戻った。


次の客が待っていたから。


第七章「本人」


閉店前。


男は帰った。


例の仕草は、一度もしなかった。


窓の曇りも出なかった。


好代は保管庫へ行った。


六個目の箱。


《本人確認:失敗》


昨日と同じ。


その下に、小さな履歴が一件増えていた。


好代は読む。


《外部定義への不一致を検出》


その次。


《原型定義への不一致を検出》


好代の指が止まる。


どちらにも合っていない。


なのに。


最後にもう一行。


《自己選択:1》


好代は画面を閉じた。


追跡しなかった。


店の外。


遠くで、派手な男が歩いている。


片手には、食べ終えた商品の紙袋。


もう片方の手には。


子供が落としたのと同じ、安い紙の王冠があった。

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