第84話「本人確認」
開店前。
好代は、客席側の窓を拭いていた。
昨夜の影が立っていた場所だけ、何度拭いても薄く曇る。
洗剤を足す。
拭く。
曇る。
もう一度。
「……しつこいですね」
四度目で諦めた。
厨房ではフライヤーの予熱音が鳴り、奥から食材ケースを引きずる音がする。
いつもの朝だった。
だから。
窓の外を、派手な男が横切ったとき。
好代は雑巾を落とした。
男は通り過ぎた。
数歩。
戻ってきた。
窓越しに好代を見る。
好代も見る。
男が右手を上げた。
好代は上げなかった。
昨夜までなら。
上げていたかもしれない。
男は入口へ回った。
自動扉が開く。
軽い電子音。
「いらっしゃいませ」
声だけは勝手に出た。
男は店内を見回した。
天井。
メニューボード。
客席。
好代。
それから。
「ここ、まだ開いてない?」
普通の声だった。
好代は一秒遅れて時計を見た。
「あと十一分です」
「そっか」
男は出ていこうとした。
「待ってください」
止まる。
好代自身も、自分が何を止めたのかわからなかった。
男が振り返る。
「何?」
近くで見る。
昨夜の影と輪郭が似ている。
古い映像とも似ている。
けれど。
それだけだった。
派手な服の袖口には薄い染み。
靴底には泥。
目元には寝不足らしい隈。
好代が何度も見てきた、整えられた像にはなかったものばかり。
「お名前を伺っても?」
男が少し笑った。
「開店前って名前聞かれるの?」
「すみません」
「まあいいけど」
男は名乗った。
知らない名前だった。
好代は、その名前を二度、頭の中で読んだ。
何も起きなかった。
保管庫も。
窓も。
世界も。
男は首を傾げた。
「知り合い?」
「いいえ」
「だよね」
今度こそ男は出ていった。
自動扉が閉まる。
好代はしばらく、その向こうを見ていた。
落とした雑巾から、洗剤が床へ細い染みを作っていた。
「……違いました」
誰にともなく言った。
開店して二時間。
三人来た。
一人目は、例のポーズをした。
二人目は、あの笑い方をした。
三人目は、何もしなかった。
ただ顔が似ていた。
好代は三人とも見た。
前より長く。
しかし、追わなかった。
昼前。
四人目が来た。
小さな男の子を連れた父親だった。
子供が好代を見つけるなり、両手を頭の横へ持っていく。
くるり。
父親が笑った。
「それ好きだなあ」
子供も笑う。
好代は注文端末の横で手を止めた。
「それ、どこで覚えたんですか?」
父親が答える。
「動画じゃないかな。園でもみんなやってるみたいで」
「意味は?」
「さあ」
子供が先に答えた。
「たのしいやつ!」
好代は子供を見る。
「楽しいんですか?」
「うん!」
もう一度。
くるり。
昨日。
同じ動きで、人が死ぬ真似をしていた。
その前は、首を切っていた。
その前が何だったのか。
好代は知らない。
この子にとっては。
楽しいやつ。
それだけだった。
「おねえちゃんもやって」
好代は困った。
父親が止めようとする。
その前に。
好代は両手を上げた。
頭の横。
一度。
くるり。
子供が跳ねた。
「ちがう!」
「えっ」
「こう!」
もう一度見せられる。
好代も真似する。
「ちがう!」
「難しいですね……」
三回目。
「そう!」
子供が笑った。
父親も笑った。
好代も少し笑った。
ポテトの揚がる音がした。
好代は手を下ろした。
それだけだった。
休憩時間。
六個目の箱を開く。
表示は昨夜のまま。
外部定義。
内部定義。
原型定義。
好代は「原型定義」を開かなかった。
代わりに、新しく増えていた項目を見る。
《本人確認》
「……」
押す。
画面が白くなる。
中央に入力欄。
《確認対象を入力してください》
好代は、指を置いた。
止めた。
名前を知らない。
古い映像に映っていたもの。
窓に立っていた影。
噂の中で笑うもの。
怖いもの。
優しいもの。
戻ってきてほしかったもの。
どれの名前を入れればいいのか。
試しに、古い記録に使われていた識別名を入力した。
《該当:14,821》
好代の指が止まる。
別の呼称。
《該当:9,440,317》
別の名前。
《該当:3》
三。
好代は画面へ顔を寄せた。
候補は表示されない。
《追加条件を入力してください》
「追加条件……」
何を入れる。
外見。
年代。
行動。
声。
好代は昨夜の言葉を思い出した。
あなたが決めてください。
それなら。
好代が条件を足すほど。
また好代が決めることになる。
入力欄を全部消した。
《確認対象を入力してください》
空欄。
そのまま確定した。
エラーになると思った。
ならなかった。
《該当:1》
好代の指が浮いた。
画面下部に。
小さな文字が出る。
《確認しますか?》
はい。
いいえ。
好代は「はい」に触れた。
厨房の音が消えた。
換気扇。
冷蔵庫。
客席の話し声。
全部。
窓を叩く音。
こん。
好代は振り向いた。
客席側の窓。
朝から何度拭いても曇っていた場所。
誰かが立っている。
昨夜の影ではない。
古い映像の姿でもない。
朝の男でもない。
服装すら。
好代にはうまく認識できなかった。
ただ。
顔だけが見えた。
笑っていない。
怒ってもいない。
好代を見ている。
好代は動かなかった。
窓の向こうの人物が。
自分の胸を指した。
それから。
口を動かす。
ガラス越しで。
声は聞こえない。
好代は唇を読んだ。
たった二文字。
「だれ?」
箱が鳴った。
好代は振り返らない。
画面には。
《本人確認:失敗》
とだけ表示されていた。




