第80話「そこにいるのに」
朝。
好代は。
勤務表を持って。
ぱんでむへ来た。
二十六番目。
名前は読める。
文字も知っている。
昨日まで。
何度も呼んだ名前。
なのに。
顔が浮かばない。
「……」
好代は。
その名前を指で隠した。
それから。
もう一度見る。
変わらない。
読める。
わからない。
その時。
背後から。
肩を軽く叩かれた。
好代は振り返る。
クルーが一人。
立っていた。
見慣れた制服。
見慣れた場所。
知らない顔。
「……おはようございます」
反射的に。
好代は頭を下げた。
相手も。
何かを言った。
聞こえている。
意味もわかる。
なのに。
好代は。
返事ができなかった。
その人物の胸元。
名札。
そこに。
二十六番目の名前があった。
「いた」
好代は後ずさった。
ぶつかった椅子が。
床を鳴らす。
相手が。
手を伸ばした。
好代は。
さらに離れた。
「ごめんなさい」
声が出た。
「少し、待ってください」
知らない人。
違う。
知っている。
勤務表にいる。
クルーだ。
昨日まで一緒にいた。
それも。
わかっている。
でも。
身体が。
そう扱わない。
知らない人が。
ぱんでむの内側にいる。
その感覚だけが。
消えない。
相手は。
しばらく好代を見ていた。
それから。
何も言わず。
厨房へ戻った。
その背中を。
好代は。
追えなかった。
「記録はある」
「削除されていません」
秩序ちゃんの端末には。
記録が並んでいた。
勤務。
会話。
共同作業。
同じ客への対応。
同じテーブルでの休憩。
好代自身が残した記録まである。
「この時」
好代は画面を見る。
「私、この人と何をしてたんですか?」
「記録上は、在庫確認です」
「覚えてません」
「こちらは?」
別の日。
「……覚えてません」
また別の日。
写真。
好代が。
その人物の隣で笑っている。
距離が近い。
どう見ても。
知らない相手への立ち方ではない。
好代は。
写真の自分を見た。
知らない人だった。
「これ、本当に私ですか?」
秩序ちゃんの指が止まった。
好代は。
言ってから。
自分でも驚いた。
写真にいるのは。
自分だ。
顔も。
制服も。
全部同じ。
ただ。
その隣の人物へ向けている表情だけが。
理解できない。
「触らない」
隔離保管庫。
五個目。
交換対象:他者
輪廻ちゃんが。
箱を開けようとした。
「待って」
好代が止めた。
輪廻ちゃんの手が止まる。
「開けないでください」
「調べない?」
「はい」
「どうして?」
好代は。
箱から目を離さなかった。
「昨日までは」
一個目。
二個目。
三個目。
四個目。
「中身を見れば、何がなくなったかわかると思ってました」
輪廻ちゃんは黙っている。
「でも」
五個目。
「これを開けたら」
好代は。
少しだけ離れた。
「なくなったものに、形を与える気がします」
輪廻ちゃんは。
箱を閉じたまま。
棚へ戻した。
止めなかった。
勧めもしなかった。
それだけで。
好代は助かった。
「知らない人の仕事」
昼。
厨房は忙しかった。
注文が重なる。
トレーが足りない。
端末が鳴る。
誰かが。
好代の横へ補充箱を置いた。
「あ、ありがとうございます」
言ってから。
好代は顔を上げた。
二十六番目。
知らない人。
好代の手が止まる。
相手は。
何も言わない。
次の箱を取って。
別の場所へ行く。
好代は。
補充されたトレーを見る。
必要な枚数。
ぴったり。
好代が困る前に。
置かれていた。
次。
ソースが切れかける。
その人物が。
もう交換している。
次。
客が呼ぶ。
好代が向かおうとすると。
すでに対応している。
知っている。
好代が何をするか。
何を忘れやすいか。
どこで手が止まるか。
相手は。
知っている。
好代だけが。
知らない。
午後。
休憩室。
机の上に。
飲み物が置いてあった。
好代の前。
いつも使う位置。
好代は。
しばらく触らなかった。
二十六番目の人物が。
向かいに座った。
好代は。
何か言わなければと思った。
でも。
謝るのも違う。
初めまして。
もっと違う。
「……私」
やっと。
言った。
「前は、あなたのこと」
続かなかった。
相手は。
答えなかった。
ただ。
好代の飲み物を。
少しだけ。
好代の方へ押した。
近すぎた位置を。
いつもの位置へ。
好代の手が。
勝手に伸びた。
ちょうどいい。
いつも。
ここだった。
指先だけが。
覚えていた。
「他者」
好代は。
棚を開いた。
匂いを探す。
二十六番目。
ない。
いや。
違う。
匂いはある。
厨房。
休憩室。
補充箱。
飲み物。
たくさん残っている。
その人物の痕跡は。
消えていない。
抜けたのは。
もっと単純なものだった。
好代が。
それを。
誰かのものだと思う部分。
出来事だけが残っている。
誰と笑ったか。
誰に助けられたか。
誰と並んで働いたか。
そこだけが。
空欄になっている。
五個目。
他者。
好代は。
ようやく意味を理解した。
人そのものを忘れる部品ではない。
人と。
人の間にあるもの。
そこを。
交換する。
「戻さない」
夕方。
好代は。
五個目の箱の前に立った。
使えば。
戻るかもしれない。
二十六番目の人物を。
また。
知っている人として見られるかもしれない。
それでも。
好代は。
箱に触れなかった。
代わりに。
紙を一枚持ってきた。
自分の字で。
書く。
この人は、私が忘れた人。
少し考える。
その下。
でも、知らない人ではない。
保管庫ではなく。
自分のロッカーへ貼った。
記憶の代わりではない。
部品の代わりでもない。
今の自分が。
次の自分へ残すために。
その夜。
五個目の箱には。
新しい表示が出なかった。
残り二十六。
そのまま。
好代は。
少しだけ安心した。
翌朝。
ロッカーを開ける。
紙は。
残っていた。
この人は、私が忘れた人。
その下。
でも、知らない人ではない。
好代は。
読んだ。
覚えている。
昨日。
自分で書いた。
その時。
背後から。
声をかけられた。
好代は振り返る。
二十六番目の人物。
今日は。
昨日ほど怖くない。
好代は。
少し迷ってから。
名前を呼んだ。
正しく呼べた。
相手の表情が。
ほんの少し。
緩んだ。
その瞬間。
保管庫の五個目の箱から。
音がした。
ラベルが。
一文字ずつ消えていく。
交換対象:他者
他者。
他。
そして。
空白。
代わりに。
新しい文字が浮かんだ。
交換失敗
少し遅れて。
六個目の箱が。
ぱんでむの入口に現れた。
交換対象:好代




