第79話「知らない人」
「おはようございます」
好代が厨房へ入ると。
輪廻ちゃんが。
冷蔵庫の前にしゃがみ込んでいた。
扉を開けている。
「何してるんですか?」
「なくなった」
「何が?」
「わたしのプリン」
「……昨日、名前書いてませんでした?」
「書いた」
輪廻ちゃんは冷蔵庫の奥まで覗く。
「だから、おかしい」
好代は少し笑った。
昨日までなら。
こういう朝だった。
プリンがなくなる。
誰かが疑われる。
秩序ちゃんに怒られる。
ぱんでむでは。
それだけで午前中が終わることもある。
「一緒に探します?」
輪廻ちゃんが振り返った。
好代を見る。
止まった。
「……誰?」
好代の笑顔が。
そのまま固まった。
「名前」
「輪廻ちゃん?」
「うん」
「私です」
「……うん?」
輪廻ちゃんは。
困った顔をした。
敵を見る顔ではない。
警戒しているわけでもない。
本当に。
わからない顔だった。
「好代です」
好代は。
自分で言った。
「好代ちゃん」
輪廻ちゃんが繰り返す。
それから。
「ああ」
と。
小さく頷いた。
好代の肩から力が抜ける。
「びっくりしました」
「ごめん」
「忘れたんですか?」
輪廻ちゃんは首を傾げた。
「忘れた感じじゃない」
「じゃあ?」
「今、入った」
好代は黙った。
輪廻ちゃんは。
好代の顔を見ながら。
「名前を聞いて」
自分の頭を指す。
「好代ちゃんが、ここに入った」
「その前は?」
「いなかった」
冷蔵庫の終了音が鳴った。
開けっぱなしだった。
輪廻ちゃんが閉める。
「プリンより先に、秩序ちゃん呼ぶ」
「プリンも探してください」
「それは探す」
いつもの輪廻ちゃんだった。
だから。
余計に。
好代は寒くなった。
「一人だけ」
秩序ちゃんは。
昨夜からの記録を片端から照合した。
好代の勤務記録。
ある。
端末の認証。
通る。
給与。
在籍。
更衣室。
ロッカー。
全部ある。
「削除は確認できません」
「じゃあ」
好代は輪廻ちゃんを見る。
「輪廻ちゃんだけ?」
「現時点では」
秩序ちゃんはそう答えた。
好代は。
少し安心した。
一人だけ。
なら。
まだ。
そう思った時。
厨房から声が飛んだ。
「すみません」
客だった。
受取カウンターの前。
好代が反射的に向かう。
「お待たせしました」
「あの」
客は。
好代の名札を見る。
「好代さん、ですよね?」
「はい」
よかった。
覚えている。
「昨日もいました?」
「はい」
「やっぱり」
客は笑う。
「見たことある気がして」
好代は。
返事が。
少し遅れた。
見たことがある。
ではない。
この客とは。
昨日。
話している。
注文を取った。
席まで運んだ。
最後に。
忘れ物まで渡した。
客は。
そこまで覚えていない。
好代だけが。
覚えている。
「残っているもの」
昼前。
好代は自分の棚を開いた。
匂い。
昨日より薄い。
いや。
違う。
薄いのは。
好代自身の匂いだった。
輪廻ちゃん。
秩序ちゃん。
客たち。
世界線。
バーガー。
全部ある。
その間にあったはずの。
「私が見た」
という痕跡だけが。
少しずつ削れている。
棚の奥。
空白。
そこへ。
新しいものが入っていた。
声。
選択。
記憶。
昨日届いた箱と同じ匂い。
好代は。
すぐに棚を閉じた。
「……交換してないのに」
箱には触れていない。
使ってもいない。
それなのに。
交換は。
進んでいる。
「プリン」
午後。
輪廻ちゃんが。
好代のところへ来た。
手に。
プリンを持っている。
「見つかったんですか?」
「うん」
「どこに?」
「好代ちゃんのロッカー」
「え?」
輪廻ちゃんが。
プリンの蓋を見せる。
油性ペン。
そこには。
輪廻。
と書かれている。
その下。
別の筆跡。
あとで一緒に食べる。
好代の字だった。
「……」
思い出した。
昨日。
輪廻ちゃんが。
新しい味だから半分あげる。
と言った。
好代は。
普通の食べ物としてのそれを食べられない。
だから笑って断った。
輪廻ちゃんが。
じゃあ置いとく。
と言った。
それで。
好代が。
冗談で書いた。
あとで一緒に食べる。
食べるのは輪廻ちゃんだけ。
好代は隣にいる。
ただ。
それだけの約束。
「覚えてます?」
好代が聞いた。
輪廻ちゃんは。
プリンを見た。
「書いてあるから」
「そうじゃなくて」
好代の声が。
少し強くなった。
輪廻ちゃんが顔を上げる。
好代は。
続けられなかった。
輪廻ちゃんは悪くない。
「……ごめんなさい」
「好代ちゃん」
「はい」
輪廻ちゃんが。
プリンを冷蔵庫へ戻した。
「食べない」
「え?」
「思い出すまで」
「でも腐りますよ」
「じゃあ交換する」
「何を?」
「プリンを」
輪廻ちゃんは真顔だった。
「これは残す」
好代は。
少しだけ笑った。
泣きそうになるより先に。
笑ってしまった。
「四個目」
夕方。
隔離保管庫。
四個目の箱。
交換対象:記憶
秩序ちゃんが。
ラベルを確認している。
昨夜。
残り二十七。
だった表示。
今は。
第一工程終了まで残り:26
「また減ってます」
好代が言う。
「はい」
「何もしてないのに」
「はい」
「じゃあ、箱は交換部品じゃない」
秩序ちゃんの視線が動く。
好代は。
四つの箱を見る。
「交換したから、届くんです」
誰も答えない。
昨日までは。
箱が先だと思っていた。
交換品が届く。
いつか使われる。
そうではない。
何かが。
一つ失われる。
その後。
失われた場所に合う部品が届く。
好代は。
四個目を見る。
記憶。
だから。
誰かが。
自分を忘れた。
「これ」
好代は言った。
「補うためのものなんですね」
輪廻ちゃんが。
箱を見る。
「たぶん」
「じゃあ」
好代は。
扉から離れた。
「絶対に使いません」
秩序ちゃんが好代を見る。
「理由を聞いても?」
「これを使ったら」
好代は。
少しだけ考えた。
「忘れられたことまで、なかったことになりそうだから」
それだけ言って。
保管庫を出た。
「五個目」
閉店。
輪廻ちゃんのプリンは。
まだ冷蔵庫にあった。
好代は。
その蓋を見た。
あとで一緒に食べる。
文字は。
残っている。
「……明日もありますように」
誰に言ったわけでもない。
照明を落とす。
一つ。
二つ。
最後の一つ。
その直前。
更衣室の方から。
ロッカーの扉が閉まる音がした。
好代は振り返る。
誰もいない。
自分のロッカーを開ける。
制服。
私物。
名札の予備。
全部ある。
ただ。
内側に貼ってあった。
勤務表。
三十一人分の名前。
一行だけ。
白くなっている。
好代。
ではない。
好代は。
上から順に指で追った。
知っている名前ばかり。
なのに。
二十六番目で。
指が止まった。
文字は。
ちゃんと書いてある。
見えている。
読める。
それなのに。
好代には。
その名前の相手が。
誰なのか。
わからなかった。
保管庫で。
五個目の箱が。
開封される前から。
ラベルを浮かべた。
交換対象:他者




