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第73話「代わる」


朝。


ぱんでむのフロアには、いつもの音があった。


厨房から、鉄板の音。


カウンターから、端末の音。


誰かの足音。


誰かの笑い声。


そして。


紙をめくる音。


世達ちゃんだった。


一枚。


また一枚。


書類を確認している。


好代は、少し離れたところから見ていた。


昨日までとは違う。


今日は。


世達ちゃんの仕事量が多い。


注文。


在庫。


クルー間の連絡。


外部から届いた文書。


さらに。


「世達ちゃん」


「はい?」


「これ、私がやります」


好代が書類を一枚取ろうとした。


世達ちゃんは。


笑って首を振った。


「大丈夫です」


「でも」


「私の仕事ですから」


「……」


好代は。


棚を開いた。


疲労。


紙。


コーヒー。


焦り。


そして。


それらより強いもの。


「終わらせなきゃ」


好代は。


少し眉を寄せた。


「世達ちゃん」


「はい」


「どうして、そんなに急いでるんですか?」


世達ちゃんは。


手を止めた。


「急いでいるつもりはありません」


「でも」


「はい?」


「『終わらせなきゃ』っていうにおいがします」


世達ちゃんは。


少し黙った。


「……そうですか」


その時。


カウンターの端末が。


一度だけ。


暗くなった。


すぐに戻る。


誰も気にしなかった。


好代以外は。


「……」


ほんの一瞬。


焦げた甘さがした。


けれど。


闇ドナルドのものではない。


もっと鋭い。


もっと乾いている。


好代は。


窓の外を見た。


何もいない。



---


第一章「休憩の記録」


昼。


秩序ちゃんが。


端末を確認していた。


「妙ですね」


「何がですか?」


好代が聞く。


「本日の休憩記録です」


「はい」


「世達ちゃんの休憩が、記録されていません」


好代は。


世達ちゃんを見る。


「休憩しました?」


「……していません」


「どうして?」


「仕事が残っていましたから」


秩序ちゃんが。


端末を見る。


「昨日もです」


「昨日も?」


「はい」


「一昨日は?」


「……」


秩序ちゃんの指が止まった。


「一昨日もありません」


好代は。


少し驚いた。


「そんなに?」


世達ちゃんは。


困ったように笑った。


「大丈夫です」


その言葉。


また。


同じ。


好代は。


棚を開いた。


今度は。


はっきり感じた。


世達ちゃん自身の疲労とは。


別のもの。


黒い。


乾いた。


「……」


理性ちゃんが。


湯呑みを持ってやってきた。


緑と紫の着物の袖を揺らしながら、世達ちゃんの書類を覗く。


「ほう」


「理性ちゃん?」


「これは少々妙じゃのう」


「何がですか?」


理性ちゃんは。


世達ちゃんではなく。


端末を見る。


「休憩を取らぬこと自体は、ただの勤務上の問題じゃ」


「はい」


「じゃが」


理性ちゃんの目が。


細くなる。


「休憩したという事実だけが、妙に消されておる」


秩序ちゃんが。


顔を上げる。


「……確かに」


「わらわは」


理性ちゃんが。


湯呑みを置く。


「誰かが記録を操作しておる可能性を考えるのじゃ」


好代が。


端末を見る。


「誰が?」


「それを調べるのが真意ちゃんの仕事じゃろう」


その瞬間。


背後から。


「呼んだ?」


真意ちゃんが来た。



---


第二章「痕跡」


真意ちゃんは。


端末を受け取った。


記録。


休憩。


勤務。


削除履歴。


復元履歴。


世界線接続。


一つずつ。


確認していく。


「……」


「何かわかりますか?」


好代が聞く。


「記録は消されてない」


「え?」


「最初から」


真意ちゃんは。


画面を見せた。


「存在してない」


「そんなことが?」


「うん」


「じゃあ」


好代は。


世達ちゃんを見る。


「世達ちゃんが休憩した記録は、最初から作られていない?」


「そう」


真意ちゃんは。


さらに画面を切り替えた。


「でも」


一行。


黒い痕跡が残っている。


「ここに別のものがある」


好代が。


棚を開いた。


「……!」


黒い。


焦げた甘さ。


そして。


「もっとやれ」


という感覚。


好代は。


少し後ずさった。


「これは……」


真意ちゃんが。


痕跡を読む。


「歪者」


「どの?」


真意ちゃんは。


淡々と答えた。


「エビルドナルド」


好代は。


その名前を。


一度だけ聞いた。


「闇ドナルドとは違う?」


「別個体」


「カオスドナルドとも?」


「もちろん」


真意ちゃんは。


端末を閉じた。


「ただし」


「はい」


「名前は今は重要じゃない」


好代も。


頷いた。


「はい」


真意ちゃんが。


黒い痕跡を見る。


「こいつは世達ちゃんを狙っているというより」


少し間。


「世達ちゃんの中にあるものに反応している」


「……」


「義務感」


好代は。


世達ちゃんを見る。


「世達ちゃんの?」


「もともと持っている」


真意ちゃんは。


即答した。


「歪者が作ったものじゃない」


「じゃあ」


「増幅されているだけ」



---


第三章「まだ終わっていない」


午後。


世達ちゃんは。


まだ仕事をしていた。


一枚。


二枚。


三枚。


書類を処理する。


「世達ちゃん」


「はい?」


「もう休みませんか?」


「もう少しです」


「いつまでですか?」


「この書類が終わるまで」


「それが終わったら?」


「次があります」


「その次は?」


世達ちゃんは。


答えなかった。


好代には。


わかる。


「終わり」がない。


一つ終われば。


次が出てくる。


次を終えれば。


また次。


それでも。


「まだ終わっていない」。


その言葉だけが。


残る。


突然。


世達ちゃんの端末が。


勝手に起動した。


画面に。


一行。


未処理 1件


世達ちゃんが。


立ち上がる。


「どこですか?」


秩序ちゃんが。


端末を確認する。


「そんな案件は登録されていません」


「でも」


画面には。


確かに。


一件。


未処理。


世達ちゃんが。


歩き出す。


好代は。


その手を取った。


「待ってください」


「好代さん?」


「これは仕事じゃありません」


「でも」


「違います」


好代は。


棚を開いた。


黒いにおい。


強い。


そして。


遠くから。


声。


『まだ』


世達ちゃんが。


振り返る。


「……聞こえましたか?」


「はい」


『まだ終わっていない』


好代は。


声の方向を見る。


フロアの奥。


一番奥の席。


昨日まで。


空席だった場所。


そこに。


人影があった。



---


第四章「エビルドナルド」


黒い。


赤。


黄色。


でも。


以前見た歪者とは。


明らかに違う。


カオスドナルドのような。


予測不能な圧力ではない。


闇ドナルドのような。


静かな孤独でもない。


ただ。


そこにいるだけで。


「足りない」


という感覚が。


広がっていく。


好代は。


棚を開いた。


「……」


未処理。


不足。


欠落。


失敗。


責任。


そして。


「もっとやれ」。


世達ちゃんが。


一歩。


前へ出ようとする。


「世達ちゃん!」


好代が。


止める。


『まだ』


エビルドナルドが。


口を動かす。


『足りない』


世達ちゃんの端末に。


また一件。


表示される。


未処理 2件


さらに。


3件


4件


5件


数字が増えていく。


世達ちゃんが。


息を呑む。


「……」


「世達ちゃん」


「はい」


「見ないでください」


「でも」


「これは」


好代は。


画面を閉じた。


「仕事じゃありません」


エビルドナルドの輪郭が。


揺れた。


『終われない』


その言葉だけが。


店内に残る。



---


第五章「代わる」


理性ちゃんが。


世達ちゃんの前に立った。


緑と紫の着物。


小さな身体。


その手には。


いつもの湯呑み。


「世達ちゃん」


「はい」


「わらわに書類を寄越すのじゃ」


「え?」


「今のおぬしには不要じゃ」


「でも」


「でも、ではない」


理性ちゃんは。


少し笑った。


「仕事をする者には、休む義務もあるのじゃ」


世達ちゃんが。


黙る。


「それは」


理性ちゃんが。


湯呑みを持ち上げる。


「仕事を放棄することとは違う」


「……」


「続けるために止まる」


「……」


「それだけのことじゃ」


世達ちゃんは。


しばらく。


理性ちゃんを見ていた。


「……理性ちゃん」


「なんじゃ?」


「私が休んだら」


「うむ」


「誰かが困りませんか?」


理性ちゃんは。


少し考えた。


そして。


「困るじゃろうな」


世達ちゃんが。


驚く。


「……」


「誰かが困ることと」


理性ちゃんは。


続けた。


「おぬしが倒れることは、同じ問題ではない」


「……」


「ならば」


理性ちゃんは。


書類を受け取る。


「一緒に考えればよい」


世達ちゃんは。


ゆっくり。


椅子に座った。



---


第六章「終わりを作る」


好代は。


エビルドナルドを見る。


『まだ』


「はい」


『足りない』


「そうですね」


『もっと』


「でも」


好代は。


一歩。


前へ出た。


「それは」


エビルドナルドを見る。


「あなたが決めることじゃありません」


黒い影が。


止まった。


「世達ちゃんが」


好代は。


続ける。


「どこまでやるかを決めます」


『……』


「何を終わりにするかも」


『……』


「休むかどうかも」


『……』


好代は。


世達ちゃんを見る。


「自分で決めていいんです」


世達ちゃんは。


少し考えた。


そして。


「……今日は」


一枚の書類を見る。


「ここまでにします」


エビルドナルドが。


揺れた。


『まだ』


世達ちゃんは。


首を横に振った。


「はい」


『足りない』


「そうかもしれません」


『まだ終わっていない』


世達ちゃんは。


静かに答えた。


「でも」


少し。


笑う。


「今日は終わりです」


その瞬間。


エビルドナルドの身体から。


黒いものが。


一気に剥がれた。



---


第七章「残ったもの」


黒い粒が。


床へ落ちる。


好代が。


棚を開く。


今度は。


嫌なにおいがしなかった。


黒いものの奥から。


一つ。


別の感情が出てくる。


「……」


好代は。


それを読む。


誰かを助けたい。


誰かが困らないようにしたい。


任されたものを。


ちゃんと終わらせたい。


そして。


「安心してほしい」


好代は。


世達ちゃんを見る。


「……」


「何ですか?」


「世達ちゃんの」


少し考える。


「好き」


世達ちゃんが。


目を丸くする。


「私の?」


「はい」


「何が?」


「誰かが安心すること」


世達ちゃんは。


黙った。


好代は。


続ける。


「だから」


「はい」


「『全部やらなきゃ』じゃなくて」


「……」


「『誰かが安心できるところまでやりたい』なんだと思います」


世達ちゃんは。


しばらく。


考えていた。


そして。


「……それなら」


「はい?」


「今日は、もう大丈夫です」


好代は。


笑った。


「はい」


その時。


エビルドナルドの姿が。


少しずつ。


崩れていった。


消滅ではない。


遠ざかる。


ただ。


最後まで。


一つだけ。


残った。


『終わりを決めるのは、誰だ』


好代は。


その言葉を聞いた。


そして。


答えた。


「その人です」


黒い影は。


何も言わなかった。


そのまま。


消えた。



---


第八章「休む」


夜。


世達ちゃんは。


休憩室にいた。


湯呑み。


椅子。


静かな照明。


理性ちゃんが。


隣でお茶を飲んでいる。


「……」


世達ちゃんが。


息を吐いた。


「静かですね」


「そうじゃの」


「何もしていないと」


「うむ」


「少し落ち着きません」


理性ちゃんが。


笑った。


「そのうち慣れる」


「そうでしょうか」


「わらわが保証するのじゃ」


世達ちゃんは。


少し笑った。


「ありがとうございます」


「礼はいらぬ」


理性ちゃんは。


湯呑みを置く。


「代わりに」


「はい?」


「明日もちゃんと休むのじゃ」


「……努力します」


「努力ではなく、予定に入れるのじゃ」


「はい」


二人の会話を。


少し離れたところから。


好代が聞いていた。


棚を開く。


疲労。


安心。


信頼。


そして。


小さな。


「任せてもいい」。


好代は。


それを受け取った。


その瞬間。


外から。


小さな音がした。


カラン。


何かが。


落ちた。


好代が。


窓を見る。


外には。


もう。


エビルドナルドはいない。


ただ。


地面に。


黒い粒が一つ。


その横に。


小さな紙が落ちていた。


好代が拾う。


紙には。


一言だけ。


「休め」


好代は。


少し考えた。


「……」


誰の言葉なのか。


まだわからない。


でも。


今回は。


急いで調べる必要はなかった。


好代は。


その紙を。


世達ちゃんの机には置かなかった。


理性ちゃんの机にも。


秩序ちゃんの記録にも。


ただ。


休憩室のテーブルに。


そっと置いた。


そして。


自分も。


椅子に座った。


何もしない。


しばらく。


ただ。


そこにいる。


それだけだった。

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