第72話「残したいもの」
朝。
ぱんでむの中央カウンターに。
一冊のノートが置かれていた。
黒い表紙。
角が少し擦れている。
誰のものか。
名前はない。
好代は。
少し離れたところから。
そのノートを見ていた。
棚を開く。
「……」
紙。
インク。
古いコーヒー。
疲労。
そして。
何かを残そうとする気持ち。
「……残したい」
好代は。
小さく呟いた。
「何を?」
背後から。
声がした。
理性ちゃんだった。
着物の裾を揺らしながら。
ノートを覗き込む。
「さあのう」
理性ちゃんは。
ノートを持ち上げた。
「まずは中身を確認するのじゃ」
「読んでいいんですか?」
「所有者が不明じゃからのう」
理性ちゃんは。
少し考える。
「勝手に読むのも問題じゃ」
「じゃあ」
「じゃから」
理性ちゃんは。
ノートを閉じた。
「所有者が戻ってくるまで待つのじゃ」
好代は。
少し驚いた。
「理性ちゃんが、待つんですか?」
「わらわを何だと思っておる」
「何でも先に答えを出す人」
「それは偏見じゃ!」
理性ちゃんが。
むっとする。
「わらわは合理的なのじゃ」
「合理的なら」
好代は。
ノートを見る。
「中身を確認した方が早くないですか?」
「……」
理性ちゃんが。
黙った。
「それは」
少し間。
「合理的じゃ」
ノートを開いた。
一ページ目。
何もない。
二ページ目。
何もない。
三ページ目。
何もない。
最後まで。
何もない。
「……」
好代も。
覗き込む。
白紙。
ただし。
最後のページだけ。
小さな文字が一つ。
「残す」
と書いてあった。
理性ちゃんの目が。
細くなる。
「これは」
好代が。
棚を開く。
「……」
昨日までの「好き」と。
少し似ている。
でも。
違う。
「好き」が。
何かを大切に思う気持ちなら。
これは。
「消したくない」。
そういうにおいだった。
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第一章「何を残すのか」
昼。
ノートは。
カウンターの上に置かれていた。
秩序ちゃんが。
記録を取っている。
「発見場所」
「中央カウンターです」
「発見時刻」
「午前八時十二分」
「所有者」
「不明」
「内容」
「ほぼ白紙です」
秩序ちゃんが。
最後のページを見る。
「『残す』」
「はい」
「これだけですか?」
「はい」
理性ちゃんが。
横から口を挟む。
「ただの忘れ物として処理するには、少々妙じゃな」
秩序ちゃんが。
頷く。
「同意します」
「ならば」
理性ちゃんは。
椅子に座った。
「検証するのじゃ」
好代は。
理性ちゃんを見る。
「どうやって?」
「まず仮説を立てる」
理性ちゃんが。
指を一本立てる。
「第一仮説」
ノートは。
何かを書き残すためのもの。
「第二仮説」
書いた内容だけが消えている。
「第三仮説」
最初から、何も書く必要がなかった。
「第四仮説」
ノートそのものが。
『残す』という行為を記録しておる。
好代は。
少し考えた。
「第四が変ですね」
「なぜじゃ?」
「ノートが自分で残すんですか?」
「そこが面白いところじゃ」
理性ちゃんは。
楽しそうに笑った。
「じゃから検証するのじゃ」
好代は。
ノートに手を置いた。
棚を開く。
「……」
何も来ない。
もう一度。
少し強く。
「……」
それでも。
何もない。
「においがありません」
「完全な無臭かのう?」
「違います」
好代は。
首を振る。
「においがある場所まで届かない感じです」
理性ちゃんが。
ノートを見る。
「なるほど」
「どういうことですか?」
「これは『何かを隠しておる』のではなく」
理性ちゃんは。
最後のページを指した。
「『何を残すか決めていない』のかもしれぬ」
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第二章「書かない記録」
午後。
理性ちゃんは。
ノートを持って。
店内を歩いていた。
「何をしているんですか?」
好代が聞く。
「記録しておる」
「何を?」
「何も起きなかったことをじゃ」
理性ちゃんは。
ノートを開く。
一ページ目。
何も書かない。
閉じる。
次の場所へ。
「……」
好代は。
後ろからついていく。
厨房。
何もない。
「記録」
理性ちゃんが。
呟く。
客席。
何もない。
「記録」
窓際。
何もない。
「記録」
好代は。
とうとう聞いた。
「理性ちゃん」
「なんじゃ?」
「何も書いてないですよ」
「そうじゃ」
「それで記録になるんですか?」
「なる」
即答。
「なぜ?」
理性ちゃんは。
ノートを閉じた。
「記録とは、文字を残すことだけではないからじゃ」
「……」
「何が起きたかを確認し」
「はい」
「何も起きておらぬことを確認する」
「はい」
「その確認もまた、記録じゃ」
好代は。
少し考えた。
「じゃあ」
「うむ」
「何もないことを、残している?」
「その通りじゃ」
理性ちゃんは。
満足そうに頷いた。
「何かがあったことだけ残すと」
ノートを見る。
「後から見た者は、世界には異常しかなかったと思うかもしれぬ」
「……」
「じゃが」
一冊の白いページ。
「何もなかった日もある」
「はい」
「普通だった時間もある」
「はい」
「それを残すことにも意味があるのじゃ」
好代は。
静かに。
ノートを見た。
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第三章「理性ちゃんの好き」
夕方。
好代は。
ノートを一枚めくった。
今度は。
文字があった。
小さく。
一行。
「正しい形で残す」
「……」
好代は。
棚を開いた。
理性ちゃんのにおい。
紅茶。
紙。
古い本。
そして。
「違うものを違うものとして扱う」
好代は。
振り返った。
「理性ちゃん」
「なんじゃ?」
「このノート」
「うむ」
「理性ちゃんのにおいがします」
理性ちゃんの眉が。
ぴくりと動いた。
「わらわの?」
「はい」
「……」
理性ちゃんは。
ノートを受け取った。
ページを見る。
「なるほど」
「何かわかりますか?」
「これは」
理性ちゃんが。
最後の文字を見る。
「わらわのものではない」
「でも、においは」
「わらわが使ったものと似ておるだけじゃ」
「どういうことですか?」
理性ちゃんは。
少し考えた。
「誰かが、わらわと同じように」
「はい」
「何かを正しい形で残そうとしておったのじゃろう」
好代は。
目を細めた。
「それは」
「うむ」
「理性ちゃんの『好き』?」
理性ちゃんは。
少しだけ。
黙った。
「……」
そして。
「そうかもしれぬの」
いつもの。
のじゃ口調。
でも。
声は少しだけ。
柔らかかった。
「わらわは」
ノートを見る。
「間違ったものを、正しいことにしたいわけではない」
「はい」
「間違いは間違いとして残す」
「……」
「壊れたものは、壊れたまま記録する」
「はい」
「失敗したものは、失敗したと書く」
理性ちゃんは。
ノートを閉じた。
「そうしておけば」
「はい」
「次に同じことが起きた時」
少し笑う。
「同じ失敗をせずに済むからのう」
好代は。
その言葉を。
棚にしまった。
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第四章「消したいもの」
その夜。
異常が起きた。
カウンターのノートから。
文字が。
一つずつ消えていく。
「……!」
好代が。
気づく。
「理性ちゃん!」
理性ちゃんが。
走ってくる。
ページには。
さっきまであった文字。
「残す」
が。
薄くなっている。
「これはまずいのう」
「消えています」
「見ればわかるのじゃ」
理性ちゃんが。
ノートを押さえる。
すると。
今度は。
店内の記録端末から。
一件。
表示が消えた。
秩序ちゃんが。
顔を上げる。
「……記録が一つ消失しました」
「何の記録ですか?」
「今日の昼食です」
好代が。
固まった。
「え?」
「今日、私たちが何を食べたか」
秩序ちゃんが。
端末を見る。
「記録がありません」
渾沌ちゃんが。
厨房から顔を出す。
「え、食べたよね?」
「食べました」
好代も。
覚えている。
「でも」
秩序ちゃんが。
端末を確認する。
「記録だけがありません」
理性ちゃんが。
ノートを見る。
「なるほど」
「何かわかりましたか?」
「これは」
理性ちゃんが。
静かに言った。
「『残したいもの』を食べておる」
「……」
「記憶でも、物でもない」
ノートの文字が。
また一つ消える。
「記録そのものじゃ」
好代は。
棚を開いた。
「……!」
強い。
消えていく。
忘れる。
失う。
でも。
ただ消えるだけではない。
「誰かが」
好代は。
息を止める。
「残したものを、消したがっています」
理性ちゃんが。
頷く。
「ならば」
目が。
鋭くなる。
「残すのじゃ」
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第五章「書く」
理性ちゃんが。
ペンを取った。
ノートに。
一文字。
「ここにいる」
と書く。
文字は。
消えない。
好代が。
驚く。
「どうして?」
「これは」
理性ちゃんが。
ペンを置く。
「今この瞬間の事実だからじゃ」
「……」
「過去の記録を消せても」
理性ちゃんは。
ノートを見る。
「現在まで消せるとは限らぬ」
好代が。
ペンを取る。
そして。
一行。
「私は、ここにいる」
書いた。
消えない。
秩序ちゃんも。
書く。
「記録を確認した」
消えない。
渾沌ちゃんが。
書く。
少し迷って。
「今日もバーガーを作った」
消えない。
世頼ちゃんが。
書く。
「預かったものを返していない」
消えない。
そして。
最後に。
理性ちゃんが。
一行。
「間違いを、間違いのまま残す」
書いた。
ノートは。
静かになった。
消えかけていた文字が。
止まった。
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第六章「誰かの記憶」
しばらく。
何も起きなかった。
好代は。
ノートを開く。
すると。
一番最後。
今までなかったページが。
一枚。
現れていた。
そこには。
名前が書かれていた。
好代は。
その名前を読む。
「……」
知っている名前ではない。
でも。
棚を開くと。
においがした。
普通の人。
仕事。
家。
疲れ。
食事。
ぱんでむ。
そして。
強い。
「残したい」
好代は。
その記憶を追った。
その人は。
昔。
ぱんでむに来た。
何度も。
何度も。
同じ席に座った。
一人で。
バーガーを食べて。
ノートを書いていた。
毎回。
最後に。
一行だけ。
その日のことを書いた。
楽しかった日。
嫌だった日。
失敗した日。
嬉しかった日。
普通の日。
何でもない日。
でも。
ある日。
ノートを忘れた。
取りに戻れなかった。
その後。
その人は。
二度と来なかった。
好代は。
目を開けた。
「……」
「どうしたのじゃ?」
理性ちゃんが聞く。
「この人」
好代は。
ノートを見る。
「記録したかったんです」
「何を?」
「自分が生きたことを」
理性ちゃんは。
何も言わない。
好代は。
続ける。
「大きなことじゃなくて」
「うむ」
「今日食べたもの」
「うむ」
「誰かと話したこと」
「うむ」
「失敗したこと」
「うむ」
「普通だったこと」
好代は。
ノートを閉じた。
「全部」
「……」
「残したかったんです」
理性ちゃんが。
小さく頷いた。
「なるほどのう」
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第七章「残る」
深夜。
ノートは。
一番奥の席に置かれていた。
もう。
異常はない。
文字も。
消えない。
好代は。
最後のページを見る。
そこには。
見覚えのない文章があった。
「残してくれて、ありがとう」
「……」
誰が書いたのか。
わからない。
でも。
今度は。
棚を開く必要がなかった。
好代には。
意味がわかった。
この人は。
戻ってきたわけではない。
幽霊でもない。
自分自身を再構成したわけでもない。
ただ。
残したかったものが。
ちゃんと残った。
それだけだった。
理性ちゃんが。
隣に座る。
「終わったのう」
「はい」
「何を残すかは」
理性ちゃんが。
ノートを見る。
「結局、自分で決めるしかない」
好代は。
頷いた。
「はい」
「他人が勝手に決めれば」
「はい」
「それはもう、自分の記録ではないからのう」
好代は。
少し笑った。
「理性ちゃんらしいです」
「そうかの?」
「はい」
理性ちゃんは。
少し考える。
そして。
「……ならば」
ノートを指で軽く叩いた。
「これも残しておくのじゃ」
「何を?」
「今日、わらわが褒められたことじゃ」
「え?」
「重要な記録じゃろう」
「そんなに?」
「当然じゃ!」
理性ちゃんが。
胸を張る。
「わらわの長期記憶に保存すべき案件じゃ!」
好代は。
思わず笑った。
「じゃあ、書きます」
ペンを取る。
一行。
『理性ちゃんは、今日も理性ちゃんだった。』
「ちょっと待つのじゃ!」
「何ですか?」
「それでは内容が抽象的すぎる!」
「でも事実です」
「もっと具体性を持たせるのじゃ!」
「じゃあ……」
好代は。
少し考える。
『理性ちゃんは、今日も「のじゃ」と言っていた。』
「そこではないのじゃ!」
ぱんでむの夜に。
理性ちゃんの声が響いた。
その声も。
今日という一日の一部だった。
だから。
それも。
残る。
---
その頃。
ぱんでむの外縁。
灰色の道の先で。
一枚の白紙が。
風もないのに。
ひらりと舞った。
紙には。
まだ何も書かれていない。
しかし。
その裏側には。
薄く。
黒い文字が浮かんでいた。
「残したものは、取り込める」
文字は。
すぐに消えた。
そして。
遠くから。
誰かの気配が。
こちらへ近づいていた。




