第69話「好きだった場所」
朝。
ぱんでむの窓から。
柔らかい光が入っていた。
好代は。
昨日持ち帰った紙片を見ていた。
黄色い紙。
そこに。
一言だけ。
「好き」
書かれている。
それだけ。
誰が書いたのか。
何を好きなのか。
誰に向けたのか。
何もわからない。
好代は。
紙片を裏返した。
何もない。
棚を開く。
紙から漂うにおいを読む。
インク。
古い紙。
人の手。
バーガー。
それから。
ほんの少し。
花。
「……花?」
好代は。
顔を上げた。
一番奥の席を見る。
二脚の椅子。
花瓶。
昨日置いた写真。
そこに。
郷愁ちゃんが立っていた。
「どうしたの?」
「この紙から」
好代は。
黄色い紙を見せる。
「花のにおいがします」
郷愁ちゃんが。
紙を見る。
「花?」
「はい」
郷愁ちゃんは。
紙を受け取らなかった。
ただ。
じっと見る。
「……この色」
「知っていますか?」
「色じゃなくて」
郷愁ちゃんは。
少し考える。
「この感じ」
「感じ?」
「昔、こういう紙を見た気がする」
好代は。
一番奥の席を見る。
「ここで?」
「たぶん」
郷愁ちゃんは。
椅子を一脚引いた。
「座ってもいい?」
「はい」
郷愁ちゃんが。
座る。
しばらく。
何も言わない。
そして。
「……この席」
「はい」
「前から、好きだった」
好代は。
少し驚いた。
「郷愁ちゃんも?」
「うん」
「どうしてですか?」
郷愁ちゃんは。
窓を見る。
「誰かが帰ってくる感じがするから」
「帰ってくる?」
「うん」
「誰が?」
「わからない」
少し笑う。
「でも、待ってると」
郷愁ちゃんは。
空いた向かい側の椅子を見る。
「帰ってきそうな気がするの」
好代は。
黄色い紙を見た。
「好き」
その意味が。
ほんの少しだけ。
変わった気がした。
---
第一章「花を置く理由」
昼。
郷愁ちゃんは。
花瓶の花を替えていた。
好代も。
隣にいる。
「いつから、この席に花を置いているんですか?」
「覚えてない」
「ずっと?」
「たぶん」
「誰かに頼まれたんですか?」
「ううん」
「じゃあ、どうして?」
郷愁ちゃんは。
新しい花を一本。
花瓶に入れた。
「枯れてると」
少し。
花を見る。
「帰ってきた人が寂しいかなって」
好代は。
黙った。
「誰も帰ってこなくても?」
「うん」
「それでも?」
「うん」
「……変ですね」
郷愁ちゃんが。
笑う。
「そう?」
「はい」
「でも」
郷愁ちゃんは。
花瓶を置いた。
「帰ってこないからって、帰る場所までなくしていいとは限らないよ」
好代は。
その言葉を聞いた。
胸の奥に。
何かが残った。
「帰る場所……」
「うん」
「場所って」
好代は。
考える。
「誰かがいるから、場所になるんでしょうか」
郷愁ちゃんは。
首を横に振った。
「逆かもしれない」
「逆?」
「場所が残ってるから」
一番奥の席を見る。
「帰ってきたいと思えることもある」
好代は。
黄色い紙を。
そっと持ち上げた。
「じゃあ」
「うん?」
「この『好き』も」
「うん」
「誰かが、この場所を好きだったという意味かもしれませんね」
郷愁ちゃんは。
紙を見る。
「そうかもね」
そして。
少しだけ笑った。
「だったら」
花瓶の横を指す。
「そこに置いてあげれば?」
好代は。
頷いた。
黄色い紙を。
写真の隣へ置いた。
---
第二章「写真の裏」
午後。
秩序ちゃんが。
記録室から出てきた。
「好代さん」
「はい」
「昨日の写真についてです」
「何かわかりましたか?」
「撮影日時が確認できました」
「いつですか?」
秩序ちゃんは。
端末を見せた。
かなり古い日付。
一番奥の席が。
まだ今とは違う内装だった頃。
「この写真」
好代は。
写真を見る。
そこには。
一人の客。
バーガー。
向かい側の空席。
そして。
花瓶。
「花がありますね」
「はい」
「この時から?」
「記録上は」
秩序ちゃんは。
次の資料を開いた。
「この花瓶は、写真以前の記録にも存在します」
「そんなに古いんですか?」
「はい」
「誰が置いたんでしょう」
「記録がありません」
好代は。
写真を覗き込んだ。
何か。
引っかかる。
「……」
「どうしました?」
「写真の人」
「はい」
「この人」
好代は。
写真の端を指した。
「花を見ています」
秩序ちゃんが。
拡大する。
本当に。
客の視線は。
バーガーではなく。
花瓶へ向いていた。
「……」
好代は。
棚を開いた。
写真。
花。
人。
そして。
小さな感情。
「好き」
黄色い紙と。
同じにおい。
好代は。
静かに言った。
「この人」
「はい」
「この花が好きだったんだと思います」
秩序ちゃんは。
記録を確認する。
「根拠は?」
「においです」
「……」
秩序ちゃんは。
少し考えた。
「記録しておきます」
「はい」
「『写真上の人物は、花に対して好意を示していた可能性あり』」
好代が。
少し笑った。
「秩序ちゃん」
「はい?」
「ちゃんと、可能性って書くんですね」
「確認できていないことですから」
「なるほど」
「断定すると、後で記録が嘘になります」
好代は。
黄色い紙を見る。
「……好きだったことも」
「はい」
「残せるんですね」
「はい」
秩序ちゃんは。
端末を閉じた。
「ただし」
「?」
「『好きだった』と『今も好き』は分けて記録します」
好代は。
その違いを。
少し考えた。
「……大事ですね」
「はい」
---
第三章「今も好き」
夕方。
郷愁ちゃんが。
写真を見ていた。
「この人」
「はい」
「花を見てるね」
「はい」
「じゃあ」
郷愁ちゃんが。
笑った。
「私と同じ」
好代も。
笑った。
「そうですね」
その時。
黄色い紙が。
ほんの少し。
動いた。
二人が見る。
紙が。
写真のほうへ。
数センチ。
滑っていく。
「……」
郷愁ちゃんが。
手を伸ばす。
触れる前に。
紙が止まった。
「何でしょう」
好代が。
棚を開く。
「……」
今度は。
花のにおいが強い。
でも。
それだけではない。
懐かしさ。
帰りたい気持ち。
そして。
誰かに見つけてほしい気持ち。
好代は。
目を閉じた。
「……」
「どうしたの?」
「この紙」
好代は。
ゆっくり言った。
「『好き』と言っているだけじゃありません」
「じゃあ?」
「『好きだったことを、忘れないで』」
郷愁ちゃんの。
表情が変わった。
「……」
好代は。
紙を見る。
「そんな感じがします」
郷愁ちゃんは。
しばらく黙った。
そして。
写真の人を見る。
「忘れないよ」
小さく。
そう言った。
好代が。
郷愁ちゃんを見る。
「郷愁ちゃん?」
「この人のこと」
郷愁ちゃんは。
写真を見つめる。
「知らない人だけど」
少し笑う。
「ここが好きだったなら」
花瓶に。
新しい花を一輪。
「忘れなくていいと思う」
黄色い紙が。
ふわりと浮いた。
花瓶の横へ。
静かに落ちる。
---
第四章「それは誰のもの」
夜。
真意ちゃんが。
黄色い紙を調べていた。
好代。
郷愁ちゃん。
秩序ちゃんも。
一緒にいる。
真意ちゃんが。
ルーペを紙へ向ける。
「……」
「何かわかりましたか?」
好代が聞く。
「タグはある」
「闇ドナルドのもの?」
「違う」
即答だった。
「じゃあ」
「人間側のもの」
「この席にいた人?」
「可能性は高い」
真意ちゃんは。
さらに読む。
「ただし」
「はい」
「一人のタグじゃない」
好代の表情が。
変わった。
「また複数?」
「うん」
真意ちゃんは。
淡々と答える。
「この席に残った感情が重なっている」
「どんな感情ですか?」
「好意」
「……」
「懐かしさ」
「はい」
「帰属」
「帰属?」
「ここが自分の場所だと思う感覚」
好代は。
一番奥の席を見る。
「……」
「それから」
真意ちゃんが。
少しだけ。
ルーペを下げた。
「待つこと」
「待つ?」
「誰かを待つ」
好代は。
空席を見る。
「……」
「ただし」
真意ちゃんは。
紙を置いた。
「これは闇ドナルドが作ったものではない」
「はい」
「闇ドナルドが触れた痕跡も薄い」
「じゃあ」
「この紙自体は」
真意ちゃんは。
紙を見る。
「もっと前からあった」
好代は。
少しだけ。
息を吐いた。
「……そうだったんですね」
「うん」
真意ちゃんは。
立ち上がる。
「闇ドナルドが残したものを調べることも必要」
少し間。
「でも」
黄色い紙を見る。
「闇ドナルドが来る前から、ここには残っていたものがある」
好代は。
その言葉を聞いた。
そして。
わかった。
闇ドナルドは。
この場所を作ったわけではない。
ただ。
ここにあったものへ。
触れた。
取り込んだ。
歪めた。
だから。
元を辿れば。
もっと普通の。
もっと小さな。
人間の感情がある。
「……」
好代は。
紙を見た。
「それなら」
「うん?」
「返す場所を」
好代は。
一番奥の席を見る。
「間違えなくて済みますね」
真意ちゃんは。
少しだけ。
目を細めた。
「どういう意味?」
「この紙は」
好代は。
答える。
「闇ドナルドへ返すものじゃない」
「……」
「ここに置いておくものです」
真意ちゃんは。
何も言わなかった。
ただ。
「そうね」
とだけ答えた。
---
第五章「好きだった」
閉店後。
好代は。
一番奥の席に座っていた。
向かいには。
誰もいない。
花。
写真。
黄色い紙。
そして。
白い封筒。
全部。
そこにある。
好代は。
一つずつ。
においを読む。
写真。
この場所を見た人。
花。
この場所を好きだった人。
手紙。
誰かに届けたかった人。
黄色い紙。
誰かの「好き」。
黒い痕跡。
それらを取り込んだ存在。
全部。
違う。
でも。
全部。
ここに残っている。
好代は。
ふと。
自分の胸に手を置いた。
「私も」
小さく言う。
「好きです」
何が。
とは言わない。
ぱんでむ。
バーガー。
この席。
ここにいる人たち。
そして。
食べること。
「……」
棚が。
静かに開く。
今度は。
誰かの感情が入ってこない。
自分自身のにおい。
好代自身の。
「好き」。
好代は。
それを。
そのまま棚に入れた。
分けなくていい。
これは。
自分のものだから。
その時。
一番奥の席の向かい側。
誰も座っていない椅子が。
ほんの少し。
後ろへ引かれた。
ギィ。
好代は。
振り返る。
誰もいない。
でも。
椅子の上に。
小さな花びらが一枚。
落ちていた。
「……」
好代は。
それを拾わなかった。
そのまま。
そこに置いておいた。
誰かが置いたのなら。
誰かが取りに来るかもしれない。
来なくても。
そこに置いたということは。
残る。
好代は。
静かに立ち上がった。
「おやすみなさい」
空席へ。
そう言って。
フロアを出た。
誰もいない席。
誰もいない椅子。
でも。
そこには。
確かに。
「好きだった」という気持ちが。
残っていた。
そして。
外縁のもっと遠く。
黒い影が。
ぱんでむを見ていた。
闇ドナルド。
その視線の先に。
一番奥の席。
そこにある。
黄色い紙。
「好き」。
影は。
手を伸ばさなかった。
奪わなかった。
取り込まなかった。
ただ。
遠くから。
見ていた。
やがて。
その影の胸元から。
黒いものが。
一粒だけ。
地面へ落ちた。
その黒い粒の中に。
今まで存在しなかった。
小さな白い点があった。
闇ドナルドは。
それを見ていた。
しばらく。
動かなかった。
そして。
小さく。
呟いた。
『……好き』
その言葉が。
自分自身のものなのか。
誰かから取り込んだものなのか。
闇ドナルド自身にも。
まだ。
わからなかった。




