第67話「届け先」
朝。
雨は上がっていた。
ぱんでむの外縁には、まだ水滴が残っている。
好代は窓から外を見ていた。
昨日まで黒い粒が落ちていた場所。
何もない。
ただ、濡れた地面だけ。
「……」
好代は棚を開いた。
土。
水。
石。
植物。
微かな鉄。
それから。
ほんの少しだけ。
焦げた甘さ。
「まだいます」
「どこに?」
隣にいた世頼ちゃんが聞いた。
好代は外を指差す。
「遠くです」
「遠く?」
「はい」
好代は目を細めた。
「でも、昨日より近いです」
世頼ちゃんは窓の外を見る。
「何か、届けるものでもあるんでしょうか」
「わかりません」
好代は答えた。
「でも……」
少し考える。
「誰かを探している感じがします」
その時。
カウンターの上で。
コトン。
小さな音がした。
二人が振り返る。
そこには。
一枚の紙が置かれていた。
白い。
昨日の注文票とは違う。
宛名もない。
差出人もない。
ただ。
中央に一文字だけ。
「返」
と書かれていた。
世頼ちゃんが紙を見る。
「……これは」
好代は触れなかった。
棚を開く。
紙から漂うにおい。
インク。
古い封筒。
雨。
人の手。
そして。
黒いもの。
「闇ドナルドの痕跡があります」
世頼ちゃんの表情が少し変わった。
「また?」
「はい」
「でも」
好代は紙を見つめる。
「これだけじゃありません」
「何があります?」
「……誰かの気持ちがあります」
「どんな?」
「返したい」
少し間。
「でも、返す相手がわからない」
世頼ちゃんは黙った。
「だから」
好代は紙を見る。
「『返』だけなんだと思います」
そこへ。
秩序ちゃんが来た。
「何かありましたか?」
好代が説明すると。
秩序ちゃんは紙を受け取った。
「記録します」
端末を開く。
「発見時刻」
「はい」
「発見場所」
「カウンターです」
「発見者」
「好代さん、世頼ちゃん」
「はい」
秩序ちゃんは入力していく。
そして。
「差出人、不明」
「はい」
「宛先、不明」
「はい」
「内容、一文字」
「はい」
「意味、不明」
好代が少し笑った。
「全部不明ですね」
「はい」
秩序ちゃんは平然としている。
「だからこそ、記録します」
その時。
世頼ちゃんが紙を見た。
「……」
「どうしました?」
「この紙」
世頼ちゃんが裏返す。
裏には。
薄く。
もう一つ文字があった。
表からは見えなかった。
「食」
好代の指が止まった。
「……」
棚を開く。
今度は。
はっきりと。
バーガーのにおいがした。
普通のバーガー。
けれど。
その奥に。
強い空腹。
そして。
「……食べてほしい」
好代が呟いた。
世頼ちゃんが紙を見る。
「『返』と『食』」
「はい」
「返したいのか」
「はい」
「食べてほしいのか」
「はい」
好代は。
二つの文字を見つめた。
そして。
「たぶん」
ゆっくり言った。
「返すものが、バーガーなんです」
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第一章「注文されていないバーガー」
厨房。
渾沌ちゃんが。
包み紙を一つ持っていた。
「これかな?」
「はい」
好代は包みを見る。
においは一致している。
普通のバーガー。
それなのに。
誰も注文していない。
渾沌ちゃんが首を傾げる。
「誰が作ったの?」
「記録上、該当者なしです」
秩序ちゃんが答える。
「じゃあ、勝手に出てきた?」
「そのようです」
渾沌ちゃんは包みを持ち上げる。
「食べる?」
「食べません」
好代が即答した。
「だよね」
渾沌ちゃんは笑った。
「じゃあ、届ける?」
好代は頷いた。
「はい」
世頼ちゃんも。
「一緒に行きます」
「どこへ?」
渾沌ちゃんが聞く。
好代は。
答えられなかった。
「……」
届け先がない。
宛名もない。
住所もない。
ただ。
「返」
「食」
この二文字だけ。
「まず」
好代は包みを持った。
「このにおいを辿ります」
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第二章「外へ」
ぱんでむの外。
好代。
世頼ちゃん。
そして渾沌ちゃん。
三人が歩いていた。
少し離れたところを。
秩序ちゃんが端末を持ってついてくる。
「においは?」
世頼ちゃんが聞く。
「こっちです」
好代が指を向ける。
道は。
ぱんでむから離れるほど。
細くなっていく。
建物。
森。
石。
そして。
世界線の境目。
「……」
好代は立ち止まった。
「ここからです」
目の前には。
何もない。
ただの空間。
けれど。
好代には。
においがある。
バーガー。
焦げた甘さ。
そして。
誰かが長い間。
待っていたにおい。
「います」
渾沌ちゃんが。
周囲を見る。
「どこ?」
「向こう」
好代は。
空間の裂け目を指した。
そこには。
黒い影があった。
人の形。
けれど。
はっきりした姿ではない。
輪郭が崩れている。
好代は。
棚を開いた。
「……」
強い。
空腹。
孤独。
拒絶。
そして。
バーガー。
「歪者です」
世頼ちゃんが。
身構えた。
「戦いますか?」
好代は。
首を横に振った。
「まだです」
「でも」
「待ってください」
黒い影は。
こちらを見ている。
攻撃してこない。
ただ。
包みを見ている。
渾沌ちゃんが。
小さく言った。
「……食べたいのかな」
好代は。
答えなかった。
においを読む。
空腹。
でも。
ただの空腹ではない。
「……違います」
「何が?」
「食べたいだけじゃない」
好代は。
包みを抱え直した。
「このバーガーを」
一歩。
近づく。
「返してほしいんです」
黒い影が。
少し動いた。
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第三章「返す」
好代は。
影の前まで歩いた。
渾沌ちゃんが。
後ろから見ている。
世頼ちゃんも。
止まっている。
「これ」
好代は。
包みを差し出した。
「あなたのですか?」
影は。
答えない。
「わかりません」
好代は続けた。
「誰のものなのか」
「……」
「私にもわかりません」
それでも。
包みを差し出す。
「でも」
好代は。
影を見る。
「あなたが探しているものと同じにおいがします」
影の輪郭が。
わずかに揺れた。
黒いものが。
包みへ伸びる。
けれど。
触れない。
好代は。
その手を見る。
「……怖いんですか?」
返事はない。
「受け取るのが?」
黒い手が。
止まった。
好代には。
わかった。
この存在は。
欲しがっている。
でも。
受け取れない。
受け取ったら。
また。
誰かのものを自分の中へ入れてしまう。
そんな感じだった。
好代は。
包みを少し下げた。
「じゃあ」
一度。
息を吸う。
「私が持っています」
影が動く。
「あなたのものだと決まるまで」
「……」
「私のものにはしません」
「……」
「でも」
好代は。
包みを見た。
「捨てもしません」
影の輪郭が。
ほんの少しだけ。
戻った。
黒一色だった形の中に。
赤と黄色が。
一瞬だけ見える。
好代は。
その色を見た。
「……」
名前を呼ばない。
ただ。
「あなたが何なのか」
静かに言う。
「それも、急いで決めません」
影は。
動かなかった。
そして。
初めて。
声がした。
『……返せ』
好代の目が。
少し大きくなる。
「何を?」
『……』
答えがない。
『……わからない』
好代は。
静かに頷いた。
「はい」
それだけだった。
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第四章「世頼ちゃんの仕事」
世頼ちゃんが。
一歩前へ出た。
「では」
好代を見る。
「預かります」
「世頼さん?」
「届け先がわからなくても」
世頼ちゃんは。
影を見る。
「届けるために預かることはできます」
好代は。
少し考えた。
「でも」
「はい」
「誰に届けるんでしょう」
世頼ちゃんは。
笑った。
「それを探すのも、届ける仕事です」
渾沌ちゃんが。
「世頼ちゃん、珍しく格好いい」
「珍しくは余計です」
渾沌ちゃんが笑う。
好代も。
少し笑った。
影は。
その様子を。
じっと見ている。
そして。
黒いものが。
ほんの少し。
包みから離れた。
空中へ浮かぶ。
それは。
小さな黒い粒だった。
好代は。
においを読む。
「……」
「何ですか?」
世頼ちゃんが聞く。
「これは」
好代は。
慎重に言った。
「あなたのものじゃない」
影が。
動きを止めた。
「でも」
好代は。
黒い粒を見る。
「あなたの中にあったものです」
影が。
少し揺れる。
「誰かの」
好代は。
一つずつ。
言葉にする。
「寂しさ」
「……」
「誰かを待つ気持ち」
「……」
「食べてほしい気持ち」
黒い粒が。
少し震える。
「そして」
好代は。
最後の一つを。
感じ取った。
「ありがとうって言いたかった気持ち」
影の動きが。
止まった。
黒い粒が。
地面へ落ちる。
カラン。
小さな音。
好代は。
それを拾わなかった。
「これは」
静かに言う。
「まだ、あなたに返しません」
「……」
「誰のものかわかっていないから」
影は。
しばらく。
黒い粒を見ていた。
そして。
ゆっくり。
後ろへ下がった。
消えない。
逃げない。
ただ。
その場から離れていく。
好代は。
追わなかった。
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第五章「届け先」
ぱんでむへ戻る。
夕方。
世頼ちゃんは。
受け取った包みを。
カウンターへ置いた。
「預かりました」
秩序ちゃんが。
記録する。
「預かり人、世頼ちゃん」
「はい」
「返却条件は?」
世頼ちゃんは。
少し考えた。
「届け先がわかったら」
「はい」
「届けます」
秩序ちゃんは。
入力した。
「期限は?」
「ありません」
「無期限?」
「はい」
秩序ちゃんが。
一瞬だけ。
世頼ちゃんを見る。
「了解しました」
好代は。
そのやり取りを見ていた。
「世頼さん」
「はい?」
「届け先が見つからなかったら?」
世頼ちゃんは。
少し考える。
「その時は」
包みを見る。
「見つかるまで持っています」
「ずっと?」
「必要なら」
好代は。
少し黙った。
それから。
「……私も」
「はい?」
「一緒に探します」
世頼ちゃんが。
笑った。
「はい」
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第六章「一枚の記録」
夜。
秩序ちゃんが。
新しい記録を作っていた。
『未返却物』
その下。
品目。
普通のハンバーガー。
所有者。
不明。
推定所有者。
不明。
発見者。
好代。
預かり人。
世頼ちゃん。
届け先。
不明。
状態。
正常。
そして。
最後の欄。
『備考』
秩序ちゃんは。
しばらく入力しなかった。
好代が。
隣から見る。
「何を書けばいいんですか?」
「わかりません」
「じゃあ」
好代は。
少し笑った。
「空欄でいいんじゃないですか?」
秩序ちゃんが。
好代を見る。
「……はい」
記録は。
そこで終わった。
空欄。
わからない。
まだ。
決まっていない。
でも。
それでよかった。
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第七章「ひとつ戻る」
深夜。
外縁。
あの歪者は。
まだそこにいた。
少し離れた場所から。
ぱんでむを見ている。
その手には。
何もない。
けれど。
胸のあたりに。
小さな光があった。
黒い。
その中に。
ほんの少し。
赤。
黄色。
そして。
白。
歪者は。
それを見つめる。
自分のものなのか。
誰かのものなのか。
わからない。
でも。
以前とは違った。
少なくとも。
捨てなくていい。
奪わなくていい。
すぐに食べなくてもいい。
ぱんでむの中では。
誰かが。
まだ持っている。
誰かが。
届けようとしている。
だから。
待っていてもいい。
歪者は。
初めて。
その場から動かなかった。
そして。
ぱんでむの厨房では。
世頼ちゃんが。
包みを確認していた。
好代が。
その隣に立つ。
「まだ温かいですね」
「はい」
「ずっと置いてあるのに」
「不思議ですね」
好代は。
包みに手を触れた。
温かい。
普通のバーガー。
でも。
その中には。
まだ。
誰かの「返して」がある。
好代は。
目を閉じる。
「……」
そして。
小さく言った。
「いつか」
誰に向けた言葉なのか。
わからない。
「ちゃんと、届けます」
包みの中から。
ほんの一瞬だけ。
小さな音がした。
カサ。
まるで。
誰かが。
「わかった」
と答えたようだった。
好代は。
微笑んだ。
まだ。
届け先はない。
でも。
届けるものは。
もう。
ここにある。




