第66話「届けるもの」
朝。
ぱんでむの開店前。
好代は厨房にいた。
昨日と同じように。
普通のバーガーを一つ。
白い包み紙。
誰の注文でもない。
一番奥の席へ持っていくためのもの。
「……」
包みを持ち上げる。
温かい。
昨日まで残っていた、あの人のにおいはもうない。
それでも。
好代は一度だけ棚を開いた。
「……」
何もない。
「終わったんですね」
そう呟いた。
「何が終わったの?」
背後から声。
渾沌ちゃんだった。
「一番奥の席です」
「ああ」
渾沌ちゃんが見る。
「もう何もないね」
「はい」
「じゃあ、そのバーガーは?」
「置いてきます」
「誰も食べないよ?」
「はい」
「もったいなくない?」
好代は少し考えた。
「……でも」
包みを見る。
「食べる人がいないことと、置いてはいけないことは別だと思います」
渾沌ちゃんは。
少しだけ笑った。
「すきよちゃん、最近そういうこと言うようになったね」
「そうですか?」
「うん」
「変ですか?」
「ううん」
渾沌ちゃんは首を振る。
「なんか、いいと思う」
好代は。
少し笑った。
その時だった。
入口の扉が開いた。
「おはようございます」
世頼ちゃんだった。
両手に。
何かを抱えている。
「世頼さん」
「おはようございます、好代ちゃん」
世頼ちゃんは。
少し困った顔をしていた。
「これ、どこへ届ければいいのかわからないんです」
「何ですか?」
「手紙です」
一通の封筒。
白い。
宛名がある。
住所もある。
でも。
宛名の最後だけが。
おかしかった。
好代は。
覗き込む。
そこには。
こう書かれていた。
一番奥の席
「……」
好代の手が止まった。
「ここですか?」
世頼ちゃんが。
席を見る。
「たぶん」
「誰宛てですか?」
「それが」
世頼ちゃんは封筒を裏返した。
名前が書かれている。
昨日まで。
何度も記録に出ていた名前。
「あの人……」
好代が呟いた。
世頼ちゃんが頷く。
「そうみたいです」
渾沌ちゃんが。
封筒を見る。
「でも」
「はい」
「もういないんじゃない?」
「そのようです」
世頼ちゃんは。
困ったように笑った。
「だから困ってるんです」
好代は。
封筒に近づいた。
においを読む。
古い紙。
インク。
雨。
駅。
誰かの家。
そして。
ほんの少し。
バーガー。
「……この人が書いたんですか?」
「わかりません」
世頼ちゃんは答える。
「差出人も」
「空欄です」
「じゃあ、誰が送ったんでしょう」
「それも」
「空欄です」
好代は。
封筒を見つめた。
「……」
棚を開く。
一瞬だけ。
黒いにおいが混ざった。
けれど。
昨日までとは違う。
黒いにおいの中に。
人間のにおいがある。
「真意さんに見てもらった方がいいです」
「そうですね」
世頼ちゃんが頷いた。
その時。
封筒の中から。
小さな音がした。
カサ。
「……?」
世頼ちゃんが。
封筒を持ち上げる。
「何か入ってます」
「開けますか?」
「勝手には」
秩序ちゃんの声がした。
いつの間にか。
後ろに立っていた。
「まず記録します」
「はい」
秩序ちゃんは。
封筒を見る。
「差出人、不明」
「はい」
「宛先、一番奥の席」
「はい」
「到着経路は?」
世頼ちゃんが。
答える。
「私の配達箱です」
「いつから?」
「今朝です」
「配達依頼は?」
「ありません」
秩序ちゃんの眉が。
ほんの少し動いた。
「……依頼なし?」
「はい」
「では、どうして世頼ちゃんのところに?」
世頼ちゃんは。
封筒を見る。
「わかりません」
好代は。
静かに言った。
「届けるためじゃないでしょうか」
三人が。
好代を見る。
「……?」
「世頼さんのところに来たのは」
好代は。
封筒のにおいを読む。
「届けるためのものだからだと思います」
世頼ちゃんが。
少し考える。
「でも」
「はい」
「届ける相手がいません」
「……」
好代は。
一番奥の席を見る。
「います」
世頼ちゃんが。
そちらを見る。
誰もいない。
「誰が?」
「わかりません」
好代は答える。
「でも」
空席を見る。
「この席には、残っているものがあります」
秩序ちゃんが。
静かに頷いた。
「記録上も確認できます」
世頼ちゃんは。
封筒を見た。
「……では」
少しだけ。
笑った。
「届けてみましょうか」
好代も。
頷いた。
「はい」
三人で。
一番奥の席へ向かった。
第一章「配達完了」
世頼ちゃんが。
椅子の前に立つ。
封筒を。
テーブルへ置く。
「お届け物です」
誰もいない。
返事もない。
世頼ちゃんは。
しばらく待った。
「……」
好代は。
棚を開いている。
古い紙。
誰かの手。
そして。
安心。
「……」
世頼ちゃんが。
少し困った顔をした。
「受け取ってもらえませんね」
「はい」
「どうしましょう」
秩序ちゃんが。
端末を確認する。
「配達未完了です」
世頼ちゃんは。
少し考えた。
「では」
封筒を持ち帰ろうとする。
その瞬間。
好代が言った。
「待ってください」
「はい?」
「もう一度」
「届けますか?」
「はい」
好代は。
一番奥の席を見る。
「今度は」
少し考える。
「言葉をつけてください」
世頼ちゃんが。
封筒を持ったまま。
首を傾げる。
「何と?」
好代は。
答えられなかった。
「……」
自分でも。
わからない。
その時。
後ろから。
「ありがとう、でいいんじゃない?」
渾沌ちゃんだった。
好代が振り返る。
「ありがとう?」
「うん」
渾沌ちゃんは。
空席を見る。
「届いたかどうかはわからないけど」
少し笑う。
「届けようとしたことは、伝えられるでしょ」
世頼ちゃんは。
静かに頷いた。
そして。
封筒をテーブルへ置く。
「お届け物です」
一拍。
「……ありがとう」
言った。
誰もいない。
けれど。
好代の棚が。
一瞬だけ。
開いた。
「……」
安心。
ほんの少し。
そして。
紙が擦れる音。
カサ。
封筒が。
誰にも触られていないのに。
数センチだけ。
空席側へ動いた。
世頼ちゃんが。
目を見開く。
「……届いた?」
好代は。
すぐには答えなかった。
棚を開く。
「はい」
「誰が?」
「わかりません」
「でも?」
「受け取った感じがします」
秩序ちゃんが。
端末を見る。
「……」
「どうしました?」
世頼ちゃんが聞く。
秩序ちゃんは。
画面を見せた。
配達状態。
さっきまで。
未完了
だったものが。
今。
完了
に変わっている。
「……」
世頼ちゃんは。
何も言わなかった。
ただ。
少しだけ。
嬉しそうに笑った。
「よかった」
好代は。
その顔を見ていた。
そして。
思った。
受け取る人が。
そこにいるとは限らない。
でも。
届けたことまで。
なくなるわけではない。
第二章「中身」
「開けてみますか?」
世頼ちゃんが。
封筒を見る。
秩序ちゃんが。
少し考える。
「配達完了後なら」
「はい」
好代も。
頷いた。
世頼ちゃんが。
封筒を開ける。
中には。
一枚の紙。
写真。
それから。
小さな紙片。
世頼ちゃんが。
写真を取り出す。
そこには。
一番奥の席。
まだ三脚だった頃の写真が写っていた。
「……」
好代は。
息を止めた。
そこに。
人がいる。
一人。
普通の服。
バーガーを食べている。
顔は。
見えない。
写真の端が。
少し切れている。
でも。
その人が。
この席にいたことだけは。
はっきりわかる。
「古い写真ですね」
秩序ちゃんが。
言った。
「はい」
世頼ちゃんが。
裏を見る。
そこには。
短い文章。
『好きだった場所を、残しておいてください。』
好代の胸が。
少しだけ動いた。
「……」
渾沌ちゃんが。
小さく言う。
「残しておいて、だって」
好代は。
一番奥の席を見る。
「はい」
その言葉を。
棚へ入れる。
そして。
もう一枚。
小さな紙片。
そこには。
一言。
『ありがとう』
それだけ。
世頼ちゃんは。
しばらく。
その紙を見ていた。
「……これ」
「はい」
「誰に向けた言葉でしょう」
好代は。
写真を見る。
席。
バーガー。
花。
そして。
空いた向かい側の椅子。
「たぶん」
少し考える。
「誰かに」
「誰か?」
「はい」
「誰かって?」
「……」
好代は。
答えなかった。
でも。
なぜか。
その「誰か」が。
一人ではないような気がした。
ここで食べた人。
ここへ花を置いた人。
この席を覚えていた人。
そして。
今。
この写真を見ている人。
全部へ向けられた。
「ありがとう」。
そんな気がした。
第三章「黒いもの」
その夜。
真意ちゃんが。
写真と封筒を調べていた。
好代も。
隣にいる。
「どう?」
真意ちゃんが聞く。
「普通の写真です」
「そうね」
「変なところは?」
「一つ」
真意ちゃんが。
写真の端を指す。
「ここ」
そこには。
ほんの小さな。
黒い染み。
好代は。
棚を開く。
「……」
焦げた甘さ。
黒いにおい。
昨日のものと同じ。
「闇ドナルドの痕跡?」
「うん」
「写真にも?」
「触れてる」
好代は。
写真を見る。
「でも」
真意ちゃんが。
続ける。
「写真そのものを壊してはいない」
「はい」
「むしろ」
黒い染みを拡大する。
「残そうとしてる」
好代は。
黙った。
「……闇ドナルドが?」
「本人の意思かどうかはわからない」
「取り込まれたものかもしれない?」
「そう」
真意ちゃんは。
淡々と答える。
「この黒い痕跡の中には」
少し間。
「他者の感情が混ざってる」
好代は。
その言葉を聞いて。
写真を見る。
「じゃあ」
「うん」
「この『残しておいて』も」
「誰かのものかもしれない」
「……」
「闇ドナルドが自分で言ったとは限らない」
好代は。
頷いた。
「わかりました」
真意ちゃんが。
少しだけ好代を見る。
「何か思う?」
「はい」
「何?」
好代は。
写真を大切に持つ。
「受け取ったものを」
少し考える。
「そのまま自分の言葉にしちゃいけないんですね」
真意ちゃんが。
頷いた。
「そう」
「これは誰かの願い」
「うん」
「これは誰かの記憶」
「うん」
「これは闇ドナルドの痕跡」
「うん」
好代は。
最後に。
自分の胸へ手を置いた。
「これは」
少し笑う。
「私が、今思ったこと」
真意ちゃんは。
何も言わなかった。
ただ。
「それでいいと思う」
とだけ言った。
第四章「残す」
閉店後。
秩序ちゃんが。
写真を一番奥の席へ持っていった。
「ここへ置きます」
好代が聞く。
「ずっと?」
「はい」
「盗まれたりしませんか?」
「その場合は記録を残します」
「……」
好代は。
少し笑った。
「秩序さんらしいですね」
「そうでしょうか」
「はい」
写真が。
花瓶の横へ置かれる。
一番奥の席。
二脚の椅子。
小さな花。
写真。
そして。
白い封筒。
何もない。
でも。
もう。
ただの空席ではなかった。
「……」
好代は。
その席を見る。
誰かがいた。
誰かが好きだった。
誰かが残した。
誰かが届けた。
誰かが受け取った。
それらが。
一つずつ。
ここへ重なっている。
けれど。
誰一人。
その人そのものにはならない。
好代は。
それが少しだけ。
わかった気がした。
第五章「まだ残っている」
深夜。
ぱんでむの外縁。
誰もいない。
昨日。
黒い粒が落ちた場所。
そこに。
一つだけ。
小さな紙片が落ちていた。
雨に濡れている。
文字は。
ほとんど消えている。
それでも。
一部分だけ。
残っていた。
「返」
その下は。
読めない。
黒い影が。
遠くから。
それを見ている。
闇ドナルド。
影は。
紙片へ近づく。
手を伸ばす。
触れない。
一度。
止まる。
そして。
紙片の横を通り過ぎる。
拾わない。
持っていかない。
ただ。
その場に残した。
まるで。
自分にも。
それが何なのか。
わからないかのように。
その頃。
ぱんでむの中では。
好代が。
一番奥の席に座っていた。
写真を見る。
『好きだった場所を、残しておいてください。』
「……」
好代は。
その言葉を。
ゆっくり読む。
「はい」
誰に向けた返事なのか。
自分でも。
わからない。
でも。
言っておきたかった。
「残します」
写真。
花。
席。
記録。
そして。
今日のこと。
全部。
ここに。
残す。
棚を開く。
においが。
一つ。
増えた。
黒いにおいではない。
人のにおい。
写真を持つ人の手。
封筒を届けた人の手。
花を置いた人の手。
バーガーを食べた人の手。
それらが。
ほんの一瞬。
同じ場所に重なった。
好代は。
目を閉じる。
そして。
小さく言った。
「……届けるって」
少し考える。
「相手に渡すことだけじゃないのかもしれませんね」
返事はない。
でも。
写真の端にあった黒い染みが。
ほんの少しだけ。
薄くなった。
消えたわけではない。
ただ。
そこにあったものが。
少しだけ。
別の場所へ動いた。
好代は。
それを見ていた。
「……」
まだ。
終わっていない。
でも。
もう。
ただ待っているだけでもない。
受け取る人。
残す人。
届ける人。
そして。
それを覚えている人。
それぞれの行為が。
一つの場所で。
少しずつ。
繋がり始めていた。




