第65話「残すこと」
朝。
雨が降っていた。
ぱんでむの窓に。
細い雨粒が流れている。
好代は。
一番奥の席を見た。
二つの椅子。
小さな花。
昨日と変わらない。
棚を開く。
「……」
何もない。
あの人のにおいは。
もう。
ほとんど残っていなかった。
けれど。
黒いにおいだけは。
まだ。
ほんの少し。
遠くにある。
好代は。
窓の外を見る。
「……」
外縁。
昨日。
黒い粒が落ちていた場所。
今は。
雨で濡れている。
「好代さん」
後ろから。
秩序ちゃんの声がした。
「はい」
「外縁部の記録を確認していただけますか」
「何かありました?」
「はい」
秩序ちゃんは。
端末を見せた。
「昨日の夜から」
一枚。
二枚。
三枚。
記録が並んでいる。
「記録が増えています」
好代は。
画面を見る。
「何の記録ですか?」
「存在しないものの記録です」
「……」
「正確には」
秩序ちゃんが。
画面を切り替える。
「昨日、外縁に黒い粒が落ちました」
「はい」
「その粒は今朝、消えています」
「雨で流れたんでしょうか」
「その可能性があります」
「でも?」
秩序ちゃんは。
次の画面を開いた。
「消えた場所に、記録だけ残っています」
好代は。
画面を見る。
そこには。
何もない場所の写真。
ただ。
記録欄だけが。
異常なほど細かく埋まっていた。
『確認時刻』
『天候』
『地面の状態』
『粒子の位置』
『周辺温度』
『臭気』
『消失時刻』
そして。
最後に。
『消失後の状態』
その欄だけ。
空白だった。
「……」
好代が言う。
「どうして空欄なんですか?」
「わかりません」
「見てない?」
「確認しました」
「じゃあ」
好代は。
画面を指差した。
「どうして書けないんですか?」
秩序ちゃんは。
少し黙った。
「書くべき情報がないからです」
「何もない?」
「はい」
「でも」
好代は。
写真を見る。
「消えたことは、記録できています」
「はい」
「じゃあ」
少し考える。
「何が消えたかも記録できますよね」
「……」
秩序ちゃんは。
答えなかった。
その代わり。
端末を閉じた。
「現場へ行きます」
「私も行きます」
「はい」
◆外縁部
雨は。
まだ降っていた。
地面には。
昨日の黒い粒の跡がない。
好代は。
しゃがんだ。
棚を開く。
「……」
土。
雨。
濡れた石。
金属。
そして。
ほんの少し。
黒いにおい。
「まだあります」
「どこですか?」
好代は。
地面を指した。
「ここ」
秩序ちゃんが。
周囲を見る。
「何もありません」
「はい」
「でも、においは?」
「あります」
「どんなものですか?」
好代は。
少し考えた。
「……何かを返したいにおい」
秩序ちゃんが。
止まった。
「返したい?」
「はい」
「何を?」
「わかりません」
好代は。
目を閉じた。
「でも」
黒いにおいを。
一つずつ分ける。
空腹。
孤独。
焦げた甘さ。
拒絶。
そして。
「……」
一番奥。
そこに。
昨日とは違うものがあった。
「これは」
「何ですか?」
「寂しいんじゃありません」
「では?」
「困っています」
秩序ちゃんが。
好代を見る。
「困っている?」
「はい」
「誰が?」
「わかりません」
好代は。
地面に手を置いた。
「でも」
「はい」
「何を返せばいいのか、わからないみたいです」
雨が。
二人の間を流れた。
◆記録室
昼。
秩序ちゃんは。
昨日からの記録を整理していた。
好代は。
隣で見ている。
「これ」
好代が言った。
「はい」
「どうして、全部残すんですか?」
秩序ちゃんは。
端末を操作する手を止めた。
「必要だからです」
「誰かが見るため?」
「それもあります」
「じゃあ」
好代は。
記録の山を見る。
「誰も見なかったら?」
「……」
秩序ちゃんは。
少し考えた。
「それでも残します」
「どうして?」
「なくなるからです」
「記録しないと?」
「はい」
「でも」
好代は。
昨日の空席を思い出した。
「記録しても、本人が戻ってくるわけじゃないですよね」
「戻りません」
「なくなったものが戻るわけでもない」
「はい」
「じゃあ」
好代は。
不思議そうに聞いた。
「何のために残すんですか?」
秩序ちゃんは。
しばらく答えなかった。
やがて。
端末を閉じる。
「なくなったものを戻すためではありません」
「……」
「なくなったものを、最初からなかったことにしないためです」
好代は。
黙った。
秩序ちゃんは。
続けた。
「誰も覚えていなくても」
「はい」
「誰も取りに来なくても」
「はい」
「そこにあったことだけは」
少しだけ。
端末へ目を落とす。
「残しておけます」
好代は。
その言葉を。
静かに聞いた。
「……それって」
「はい?」
「返すこととは違うんですね」
「違います」
「でも」
好代は。
考える。
「似ています」
秩序ちゃんは。
少しだけ笑った。
「そうかもしれません」
◆午後
記録室に。
真意ちゃんが来た。
「見せて」
秩序ちゃんが。
端末を渡す。
真意ちゃんは。
黒い粒の記録を見る。
「消えた?」
「はい」
「痕跡は?」
「残っています」
「本人のもの?」
「不明です」
真意ちゃんが。
画面を拡大する。
「……」
好代が聞く。
「何かわかりますか?」
「一つ」
「はい」
「昨日より薄くなってる」
「黒いにおいが?」
「うん」
真意ちゃんは。
画面を閉じる。
「でも」
「はい」
「薄くなったから消えたとは限らない」
好代は。
首を傾げる。
「どういうことですか?」
「外に出た可能性がある」
「どこへ?」
真意ちゃんは。
窓の外を見る。
「わからない」
「……」
「でも」
真意ちゃんは。
好代を見る。
「一つだけ変」
「何がですか?」
「昨日の粒には」
少し間。
「闇ドナルドの痕跡がある」
好代は。
頷く。
「はい」
「でも」
「……」
「闇ドナルドそのものの痕跡ではない」
好代は。
黙った。
「どういうことですか?」
真意ちゃんは。
淡々と答えた。
「何かを取り込んだ後に残ったもの」
「……」
「それだけ」
好代は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
「じゃあ」
「うん」
「誰かから取ったものが」
「可能性はある」
「残っている?」
「そう」
好代は。
第64話で分けたものを思い出した。
食欲。
孤独。
愛着。
待つ気持ち。
帰りたい気持ち。
誰かに受け取ってほしい気持ち。
「……」
好代は。
小さく呟いた。
「闇ドナルドのものじゃないものが」
真意ちゃんを見る。
「闇ドナルドの中に、残っているんですね」
「そういう可能性が高い」
「じゃあ」
好代は。
少し考えた。
「それを返せば」
「誰に?」
「……」
答えられない。
「わかりません」
真意ちゃんは。
頷いた。
「だから今は」
「はい」
「触らない」
「はい」
「勝手に返さない」
「はい」
「勝手に受け取らない」
好代は。
頷いた。
「はい」
◆夕方
フロア。
秩序ちゃんが。
一番奥の席の前に。
新しい紙を置いた。
『記録』
その下。
空欄。
好代が。
それを見る。
「何を書くんですか?」
「まだ決まっていません」
「空欄のまま?」
「はい」
「珍しいですね」
「そうですか?」
「秩序さんなら、全部埋めるのかと思っていました」
秩序ちゃんは。
紙を見る。
「わからないものを、わかったことにして埋めるのは」
少しだけ。
首を横に振る。
「記録ではありません」
好代は。
その言葉を聞いて。
少し笑った。
「なるほど」
「何か?」
「私も」
好代は。
一番奥の席を見る。
「わからないものを、無理に自分のものにしないようにします」
秩序ちゃんが。
好代を見る。
「はい」
二人は。
そのまま。
空欄を残した。
◆夜
閉店後。
誰もいないフロア。
好代は。
一番奥の席に座っていた。
向かい側。
空席。
棚を開く。
「……」
昨日までと。
違う。
何かが。
一つ。
増えている。
黒い。
でも。
黒いだけではない。
その奥に。
ほんの少し。
普通のバーガーのにおい。
好代は。
目を閉じた。
「……」
誰かが。
食べた。
誰かが。
待った。
誰かが。
帰った。
誰かが。
残した。
誰かが。
受け取れなかった。
それから。
誰かが。
それを持っている。
誰のものかわからないまま。
「……」
好代は。
自分の胸に手を置いた。
「これは」
言葉にする。
「私のものではありません」
棚の中。
黒いものが。
少し揺れた。
「でも」
好代は。
続ける。
「誰のものかわからないからって」
少し考える。
「消していいものでもありません」
静かに。
言う。
「だから」
空席を見る。
「記録しておきます」
その瞬間。
フロアの照明が。
一つだけ。
点いた。
誰もいない席。
そのテーブルに。
一枚の紙があった。
好代が。
近づく。
紙には。
一行だけ。
書かれている。
「まだ、ここにいる」
好代は。
息を止めた。
怖くはなかった。
ただ。
その言葉を。
棚に入れる。
「……はい」
小さく。
答える。
「わかりました」
そして。
紙を折らず。
破らず。
そのまま。
一番奥の席に置いた。
誰かが戻るためではない。
誰かを呼ぶためでもない。
ただ。
そこにあるものを。
そこにあるまま。
残すために。
雨の夜。
ぱんでむの一番奥には。
二つの椅子。
一輪の花。
一枚の記録。
そして。
まだ名前のついていない何かが。
静かに残っていた。




