第64話「残った記録」
朝。
ぱんでむは。
昨日より静かだった。
一番奥の席から。
三脚目の椅子が消えている。
二脚だけ。
いつもの二人掛け。
花瓶には。
新しい花。
そして。
何も置かれていないテーブル。
好代は。
そこへ近づいた。
棚を開く。
「……」
何もない。
昨日まであった。
人のにおい。
待っているにおい。
帰りたいにおい。
ありがとうのにおい。
全部。
消えていた。
「終わったんですね」
好代が呟く。
「何が?」
渾沌ちゃんが。
後ろから来た。
「この席です」
「ああ」
渾沌ちゃんは。
二脚になった椅子を見る。
「なくなったね」
「はい」
「寂しい?」
好代は。
少し考えた。
「……少し」
「そっか」
渾沌ちゃんは。
それ以上聞かなかった。
ただ。
花瓶の花を見た。
「でも」
「はい」
「花は残ってる」
好代も。
花を見る。
「はい」
「じゃあ」
渾沌ちゃんは。
笑った。
「全部なくなったわけじゃないね」
「……」
好代は。
その言葉を。
棚に入れた。
第一章「47件」
記録室。
秩序ちゃんが。
一つの端末を開いていた。
「好代さん」
「はい」
「少し確認してほしいものがあります」
画面には。
大量の記録。
一番奥の席。
椅子の移動。
注文のない注文。
誰もいない席の受取記録。
存在しない客の痕跡。
花の変化。
包み紙。
聞こえた声。
そして。
最後に。
昨日の記録。
好代は。
画面を見つめた。
「……これ」
「以前のものです」
「何件ありますか?」
「四十七件」
好代は。
少し驚いた。
「そんなに?」
「はい」
「全部、この席ですか?」
「正確には」
秩序ちゃんが。
画面を切り替える。
「この席を中心とした周辺現象です」
「……」
好代は。
一つずつ見る。
最初の記録。
椅子が数センチ動いた。
次。
注文票が出た。
次。
誰もいないのに。
受取済みになった。
次。
花が一輪増えた。
次。
空の包み紙。
次。
聞こえないはずの声。
次。
誰かが座った痕跡。
「……」
好代は。
記録を眺め続けた。
「秩序さん」
「はい」
「これ」
「はい」
「全部、別の異常ですか?」
秩序ちゃんが。
少し考えた。
「以前は、そのように記録していました」
「以前は?」
「今は」
秩序ちゃんは。
画面を一つにまとめた。
「一つの現象として再分類できる可能性があります」
好代は。
画面を見る。
「何という現象ですか?」
秩序ちゃんは。
答えなかった。
代わりに。
一つの欄を開いた。
そこには。
四十七件すべてに共通する。
一つの項目。
「誰かから誰かへ向けられたもの」
好代は。
黙った。
第二章「異常ではなく」
「最初の記録を見せてもらえますか?」
「はい」
秩序ちゃんが。
一番古い記録を開く。
『椅子が約三センチ移動』
それだけ。
「これ」
好代は。
考えた。
「誰かが座ろうとした?」
「可能性はあります」
次。
『注文票出現』
「誰かが注文した?」
「記録上、注文者なし」
次。
『花、一輪増加』
「誰かが置いた?」
「確認できません」
次。
『受取済み記録』
「誰かが受け取った?」
「受取者なし」
好代は。
しばらく。
画面を見ていた。
「……全部」
「はい」
「何かが、ここへ来ようとしたんじゃなくて」
好代は。
一つずつ。
記録を見る。
「何かを、ここへ残そうとしていた?」
秩序ちゃんの指が。
止まった。
「……その可能性があります」
好代は。
画面を見つめる。
「でも」
「はい」
「残した人は」
「不明です」
「受け取った人も」
「不明です」
「じゃあ」
好代は。
少しだけ。
考えた。
「残すことだけが、記録されていたんですね」
秩序ちゃんは。
静かに頷いた。
「はい」
その時。
好代は。
第60話のことを思い出した。
誰かの願い。
誰かの記憶。
誰かの寂しさ。
そして。
自分の気持ち。
全部。
混ざっていた。
「……」
好代は。
小さく言った。
「受け取る人がいなくても」
秩序ちゃんを見る。
「残すことはできるんですね」
「はい」
「じゃあ」
好代は。
一番古い記録を見る。
「ここにいた人は」
少し間。
「ずっと、何かを残していたのかもしれません」
第三章「真意の線」
午後。
真意ちゃんが。
記録室へ来た。
「見つかった?」
秩序ちゃんが。
画面を見せる。
真意ちゃんは。
四十七件の記録を見る。
一つ。
二つ。
三つ。
最後まで。
淡々と。
目を通していく。
「……なるほど」
「何かわかりましたか?」
好代が聞く。
「少し」
真意ちゃんは。
一番奥の席を見る。
「この現象」
「はい」
「最初から闇ドナルドが起こしていたわけじゃない」
好代が。
顔を上げた。
「……はい」
「先にあった」
真意ちゃんは。
記録を指す。
「人間側の残留」
「残留?」
「誰かが残したもの」
「記憶ですか?」
「記憶だけじゃない」
真意ちゃんが。
一つずつ。
指を動かす。
「注文」
「花」
「席」
「声」
「食べた記録」
「待った時間」
「帰った時間」
「全部」
少し間。
「関係の痕跡」
好代は。
一番奥の席を見る。
「じゃあ」
「うん」
「闇ドナルドは」
「その後」
「……」
「そこへ触れた」
真意ちゃんは。
淡々と言った。
「その結果、残っていたものが少しだけ変質した」
「だから」
好代は。
昨夜までの黒いにおいを思い出す。
「焦げた甘さが混ざった」
「そう」
「でも」
好代は。
少し考える。
「どうして?」
真意ちゃんは。
答えなかった。
代わりに。
好代の胸元を見る。
「あなたも同じことをしてるから」
「……私が?」
「受け取っている」
真意ちゃんは。
言った。
「世界線」
「はい」
「記憶」
「はい」
「知識」
「はい」
「感情」
「……はい」
「千姿」
好代の手が。
止まった。
「ドナルド様の精神コア」
好代は。
黙った。
真意ちゃんは。
続ける。
「あなたは大量のものを受け取っている」
「はい」
「でも」
「……」
「まだ、自分と他人を分けられている」
好代は。
一番奥の席を見る。
「闇ドナルドは」
「たぶん」
「分けられなくなった?」
「その可能性がある」
好代は。
しばらく。
何も言わなかった。
第四章「同じではない」
夕方。
理性ちゃんが。
湯呑みを持って。
席に座っていた。
「ふむ」
「理性さん」
「なんじゃ?」
「私と闇ドナルドは」
「うむ」
「似ているんでしょうか」
理性ちゃんは。
少し考える。
「似ている部分はある」
「でも」
好代が聞く。
「同じではない?」
「当然じゃ」
理性ちゃんは。
湯呑みを置く。
「お主は、受け取ったものを分けておる」
「はい」
「これは記憶」
「はい」
「これは知識」
「はい」
「これは他人の感情」
「はい」
「そして、これは自分の感情」
好代は。
頷く。
「闇ドナルドは?」
「わからぬ」
理性ちゃんは。
静かに言った。
「じゃが」
「はい」
「もし、他者のものと自分のものの区別がつかなくなっておるのなら」
「……」
「それは」
理性ちゃんが。
空席を見る。
「多くを持っておるのとは違う」
「違う?」
「持っているものに、自分で名前をつけられなくなることじゃ」
好代は。
その言葉を。
しばらく考えた。
「名前をつける?」
「うむ」
「私は」
好代は。
自分の胸に手を当てる。
「これは誰かの記憶」
少し間。
「これは誰かの感情」
さらに。
「これは私の気持ち」
「そうじゃ」
「それができれば」
「うむ」
「たくさん持っていても」
理性ちゃんは。
小さく頷いた。
「お主は、お主じゃ」
好代は。
静かに。
息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「礼などいらぬ」
理性ちゃんは。
湯呑みを持ち上げる。
「わしが言っただけじゃ」
第五章「返す」
夜。
閉店前。
好代は。
一番奥の席へ。
一枚の紙を置いた。
そこには。
四十七件の記録が。
簡単にまとめられている。
誰かが座った。
誰かが注文した。
誰かが待った。
誰かが食べた。
誰かが帰った。
誰かが残した。
好代は。
紙を見る。
「……」
そして。
その下へ。
一行だけ書いた。
「ここにいたことを、残します」
紙を。
花瓶の横へ置く。
誰かに渡すわけではない。
誰かから受け取るわけでもない。
ただ。
残す。
好代は。
それでいいと思った。
その時。
一番奥の席から。
小さな音がした。
カラン。
何かが。
落ちた。
好代が拾う。
小さな黒い紙片。
「……」
棚を開く。
黒い。
焦げた甘さ。
昨日より。
はっきりしている。
でも。
怖くない。
そこに混ざっているものが。
少しだけ。
わかったから。
食欲。
孤独。
拒絶。
愛着。
そして。
誰かを待った記憶。
好代は。
その全部を。
一つずつ分けた。
「これは」
食欲。
「あなたのもの」
次。
「これは」
孤独。
「誰かのもの」
次。
「これは」
愛着。
「誰かが誰かに向けたもの」
そして。
最後。
黒いにおい。
「これは」
好代は。
少し考えた。
「闇ドナルドのもの」
その瞬間。
黒い紙片が。
わずかに温かくなった。
好代は。
驚いた。
「……」
紙片に。
文字が浮かんだ。
一つだけ。
「それは、誰のもの?」
好代は。
黙った。
今までなら。
すぐに答えを探していた。
でも。
今日は。
そうしなかった。
紙片を。
見つめる。
「……わかりません」
正直に。
そう言った。
「だから」
紙片を。
花瓶の横へ置く。
「まだ、返しません」
少し間。
「まだ、受け取りません」
さらに。
「わからないものとして、残します」
紙片は。
それ以上。
変化しなかった。
第六章「外縁」
深夜。
ぱんでむの外。
誰もいない場所。
黒い影が。
立っていた。
闇ドナルド。
その姿は。
昨夜より。
少し遠い。
でも。
消えてはいない。
影は。
ぱんでむを見る。
一番奥の席。
そこに。
二つの椅子。
花。
そして。
小さな紙。
影は。
動かなかった。
やがて。
手を伸ばす。
届かない。
それでも。
指先から。
黒いものが。
少しだけ。
離れた。
ぱんでむへ。
飛んでいく。
けれど。
途中で。
止まった。
落ちる。
地面へ。
黒い粒。
闇ドナルドは。
それを見ていた。
自分から離れたもの。
でも。
それが。
自分のものなのか。
誰かのものなのか。
わからない。
だから。
拾えない。
影は。
しばらく。
立っていた。
そして。
ぱんでむの中。
好代が。
突然。
目を開けた。
「……」
棚を開く。
黒い。
でも。
その中に。
昨日までなかったものがある。
「……泣いてる?」
好代は。
そう感じた。
でも。
涙のにおいではない。
もっと。
古い。
何かを返したいのに。
返す相手がわからない。
そんな感情。
好代は。
しばらく。
動かなかった。
そして。
小さく言った。
「……わからないなら」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも。
わからない。
「一緒に、探せばいいんじゃないですか」
外の影は。
動かなかった。
ただ。
ほんの一瞬。
黒い輪郭の中に。
赤と黄色ではない。
普通の服を着た。
誰かの手が。
見えた気がした。
好代は。
目を細める。
でも。
もう一度見た時には。
何もなかった。
「……」
好代は。
棚を閉じた。
まだ。
返せない。
まだ。
受け取れない。
でも。
「わからない」という状態を。
無理に埋めなくてもいい。
それだけは。
少し。
わかった。
一番奥の席には。
二つの椅子がある。
誰もいない。
それでも。
そこに残されたものは。
消えなかった。
そして。
外縁に落ちた黒い粒だけが。
朝まで。
誰にも拾われずに。
残っていた。




