第63話「返せないもの」
朝。
一番奥の席には。
昨日と同じように。
三つの椅子があった。
花瓶。
小さな花。
そして。
白い包み。
好代は。
その前で立ち止まった。
「……」
棚を開く。
においは。
まだある。
温かいパン。
焼けた肉。
甘いソース。
少し古い服。
誰かを待つ部屋。
それから。
安心。
昨日より。
はっきりしている。
「おはようございます」
秩序ちゃんが。
後ろから来た。
「おはようございます」
「今日も保管しますか?」
好代は。
包みを見る。
「はい」
「返却先は?」
「……」
好代は。
答えられなかった。
「まだ、わかりません」
「了解しました」
秩序ちゃんは。
端末へ入力する。
「返却先、不明」
「はい」
「返却期限、不明」
「はい」
「保管継続」
「はい」
秩序ちゃんが。
端末を閉じる。
その時。
一番奥の椅子が。
ほんの少し。
後ろへ動いた。
二人が。
同時に見る。
誰もいない。
「……」
好代は。
棚を開いた。
昨日までと。
少し違う。
安心のにおいが。
強くなっている。
「秩序さん」
「はい」
「これ」
「何ですか?」
「誰かが来たんじゃありません」
「……」
「でも」
好代は。
空席を見る。
「誰かが、ここに戻ってきたみたいです」
秩序ちゃんは。
少し考えた。
「人物として?」
「わかりません」
「では?」
好代は。
言葉を探した。
「……関係として」
秩序ちゃんの指が。
止まった。
第一章「古い注文」
午前。
秩序ちゃんが。
過去の注文記録を開いていた。
「確認できる最古の注文です」
好代が。
画面を見る。
一つの名前。
注文。
普通のハンバーガー。
受取席。
一番奥。
「……普通ですね」
「はい」
「何も変わったところがない」
「その通りです」
「いつの注文ですか?」
「記録上では」
秩序ちゃんが。
日付を見る。
「かなり前です」
「何年前?」
「正確な年は」
少し間。
「記録が欠落しています」
「またですか?」
「はい」
好代は。
画面を見る。
名前。
注文。
席。
それだけ。
でも。
その下に。
小さな履歴が残っている。
一回。
二回。
三回。
同じ注文。
同じ席。
同じ時間帯。
「……」
好代は。
その履歴を見つめた。
「この人」
「はい」
「何度も来ています」
「確認できます」
「同じバーガーばかり」
「はい」
「どうしてでしょう」
秩序ちゃんは。
答えなかった。
その代わり。
別の記録を開いた。
「こちらを」
そこには。
短い記録があった。
『一番奥の席、使用』
『普通のハンバーガー、一個』
『食後、花を見る』
『退店』
好代は。
少しだけ。
驚いた。
「……花を見る?」
「はい」
「毎回?」
「記録が残っている範囲では」
「毎回です」
好代は。
花瓶を見る。
小さな花。
今も。
そこにある。
「この人」
好代が。
言った。
「花が好きだったんでしょうか」
「可能性はあります」
「それだけじゃない気がします」
「どういう意味ですか?」
好代は。
花を見る。
「食べたあと」
少し考える。
「ここで、誰かを思い出していたような気がします」
秩序ちゃんが。
黙った。
「でも」
好代は。
首を横に振る。
「その人自身の記憶ではありません」
「では?」
「感情です」
好代は。
目を閉じた。
「誰かに食べてもらった記憶」
「……」
「誰かと一緒に食べた記憶」
「……」
「誰かに、ありがとうって言われた記憶」
好代は。
目を開けた。
「たぶん、そういうものです」
第二章「食べた人」
昼。
渾沌ちゃんが。
カウンターでバーガーを作っていた。
「すきよちゃん」
「はい」
「これ」
一つのバーガーを。
カウンターへ置く。
「昨日の人のやつ?」
「たぶん」
「同じの作ってみた」
好代は。
においを読む。
昨日のものと。
同じ。
普通のハンバーガー。
でも。
少しだけ。
違う。
「……おいしそうです」
渾沌ちゃんが。
嬉しそうに笑う。
「でしょ?」
好代は。
包みを見る。
「でも」
「うん」
「食べられません」
「知ってる」
渾沌ちゃんが。
少し笑った。
「すきよちゃん、普通のバーガー食べられないもんね」
「はい」
「じゃあ、私が食べる」
渾沌ちゃんが。
椅子を一つ引く。
一番奥の席。
そこへ。
座る。
好代は。
少し離れて立っていた。
渾沌ちゃんが。
包みを開く。
「いただきます」
一口。
「……」
二口。
「おいしい」
好代は。
棚を開いた。
においが。
少しだけ変わった。
「……」
渾沌ちゃんが。
三口目を食べる。
その時。
空席の椅子が。
ほんの少し。
前へ動いた。
渾沌ちゃんが。
止まる。
「……今」
「はい」
「椅子、動いたよね」
「はい」
「誰か来た?」
好代は。
棚を開く。
「いいえ」
「いない?」
「はい」
渾沌ちゃんは。
少し考えた。
そして。
残りのバーガーを。
空席側へ少し寄せた。
「じゃあ」
「……」
「一緒に食べようか」
誰もいない。
でも。
好代には。
わかった。
空席に。
安心が生まれた。
それは。
昨日までのものとは。
違っていた。
「……」
好代は。
そのにおいを読んだ。
誰かと食べた記憶。
誰かが食べているのを見る喜び。
そして。
もう一つ。
「まだここにある」
という感情。
好代は。
少し驚いた。
「渾沌さん」
「なに?」
「その人」
「うん」
「食べてません」
「うん」
「でも」
好代は。
空席を見る。
「喜んでいます」
渾沌ちゃんは。
少し黙った。
そして。
笑った。
「そっか」
また。
いつもの。
「そっか」だった。
第三章「戻ったもの」
午後。
郷愁ちゃんが。
一番奥の席へ来た。
花を替える。
「今日は違う花ですね」
好代が言う。
「うん」
「どうして?」
「昨日の花は」
郷愁ちゃんが。
古い花を小さな瓶へ移す。
「もう役目を終えたから」
「役目?」
「ここにいたことを残すこと」
「……」
郷愁ちゃんは。
新しい花を置く。
「花って」
「はい」
「咲いてる間は、今にいるでしょう?」
「はい」
「でも枯れたら」
古い花を見る。
「なくなるわけじゃない」
好代は。
少し考えた。
「残る?」
「うん」
「記憶として?」
「それもある」
郷愁ちゃんが。
一番奥の席を見る。
「ここも同じだと思う」
「この席が?」
「この人」
「はい」
「もう、本人が戻ってくる必要はないのかもしれない」
好代が。
顔を上げた。
「……」
「この人がいたこと」
郷愁ちゃんは。
花瓶を整える。
「誰かと食べたこと」
「はい」
「誰かを待っていたこと」
「はい」
「ここに座っていたこと」
少し笑う。
「それが残ってるなら」
「……」
「その人は、完全には帰っていないけど」
好代は。
その言葉を聞いた。
「完全には、消えてもいない」
「うん」
好代は。
空席を見る。
昨日。
自分は。
「返します」
と言った。
でも。
何を返すのか。
まだ。
わかっていなかった。
人そのものは。
返せない。
時間も。
記憶も。
失われたものも。
元には戻せない。
それでも。
何かは返せる。
好代は。
少しだけ。
わかった気がした。
第四章「返却」
夕方。
好代は。
一番奥の席へ。
包みを持ってきた。
秩序ちゃん。
渾沌ちゃん。
郷愁ちゃん。
そして。
少し離れたところに。
真意ちゃんもいる。
「何をするの?」
渾沌ちゃんが聞く。
「返します」
「誰に?」
「……」
好代は。
空席を見る。
「この人に」
「でも」
真意ちゃんが言う。
「本人はいない」
「はい」
「なら、何を返す?」
好代は。
しばらく。
考えた。
「この人が残したものです」
真意ちゃんが。
少しだけ目を細める。
「具体的には?」
「名前」
「うん」
「注文」
「うん」
「この席」
「うん」
「花」
「うん」
「それから」
好代は。
自分の胸に手を置く。
「私が受け取ったもの」
真意ちゃんは。
黙った。
好代は。
包みを開けた。
普通のバーガー。
食べられない。
でも。
食べる必要はない。
好代は。
それを。
空席の前へ置いた。
「これは」
静かに。
「あなたのものとして置いておきます」
誰もいない。
「私は、持っていきません」
少し間。
「あなたがここにいたことも」
さらに。
「あなたが誰かを待っていたことも」
「……」
「私が勝手に、自分のものにはしません」
その瞬間。
空席の椅子が。
ゆっくり。
引かれた。
誰も座っていない。
けれど。
好代には。
見えた。
人影ではない。
姿でもない。
ただ。
そこにあった関係。
誰かが。
ここでバーガーを食べる。
誰かが。
その人を見る。
誰かが。
花を置く。
誰かが。
帰りを待つ。
その全部が。
ほんの一瞬だけ。
一つの場所へ戻った。
好代は。
息を呑んだ。
「……」
それは。
人ではなかった。
幽霊でもない。
記憶そのものでもない。
その人と。
この場所を結んでいた。
小さな関係。
それだけだった。
第五章「ありがとう」
突然。
声がした。
『ごちそうさまでした』
好代が。
顔を上げる。
渾沌ちゃんも。
振り返った。
秩序ちゃんの端末が。
一度だけ。
点灯する。
郷愁ちゃんが。
目を閉じる。
真意ちゃんは。
何も言わない。
声は。
もう一度。
聞こえた。
『ありがとう』
好代は。
棚を開いた。
においが。
温かい。
寂しくない。
焦げていない。
黒くない。
ただ。
帰る人のにおい。
好代は。
そのにおいを。
静かに受け取った。
そして。
言った。
「……こちらこそ」
誰もいない。
それでも。
言葉は。
確かに。
そこへ届いた。
第六章「なくなった席」
夜。
閉店前。
秩序ちゃんが。
端末を確認していた。
「好代さん」
「はい」
「三脚目の椅子ですが」
「はい」
「記録上」
「……」
「最初から二脚だったことになっています」
好代は。
振り返った。
三つあったはずの椅子。
一つ。
なくなっている。
床にも。
痕跡がない。
渾沌ちゃんが。
「あれ?」
「倉庫に戻したんじゃないですか?」
「戻してないよ」
「では」
秩序ちゃんは。
記録を確認する。
「最初から二脚です」
好代は。
席を見る。
確かに。
二つ。
窓側。
向かい側。
いつもの二人掛け。
三つ目は。
どこにもない。
「……」
好代は。
棚を開いた。
においも。
変わっていた。
普通のパン。
普通の肉。
普通のソース。
そして。
花。
それだけ。
昨日まであった。
黒いにおいも。
焦げた甘さも。
寂しさも。
残っていない。
「終わったんでしょうか」
渾沌ちゃんが聞いた。
好代は。
少し考えた。
「たぶん」
「よかった?」
「……はい」
でも。
完全に嬉しいわけではなかった。
何かが。
なくなった。
でも。
消えたわけではない。
残したものが。
別の場所へ。
移っただけ。
そういう感じだった。
第七章「残ったもの」
閉店後。
好代は。
一番奥の席に一人で座った。
二つの椅子。
一つは自分。
向かい側は。
空席。
でも。
もう。
怖くない。
棚を開く。
何もない。
ただ。
自分のにおい。
自分の感情。
そして。
ほんの少しだけ。
今日の記憶。
「……」
好代は。
今日のことを思い返した。
誰かがいた。
その人は戻らなかった。
でも。
その人との関係が。
一度だけ。
ここへ戻った。
そして。
自分は。
それを受け取った。
けれど。
自分のものにはしなかった。
「……」
それは。
少しだけ。
不思議だった。
今までの好代なら。
受け取ったものは。
自分の中に入っていた。
知識。
技能。
記憶。
感情。
世界線。
全部。
自分の棚へ。
けれど。
今日。
初めて。
受け取ったものを。
外へ残した。
好代は。
自分の手を見る。
「……返すって」
小さく呟く。
「なくすことじゃないんですね」
誰も答えない。
でも。
その言葉を。
自分で聞いた。
そして。
少しだけ。
納得した。
一番奥の席には。
二つの椅子。
小さな花。
誰もいない。
それでも。
ここには。
誰かがいた。
その事実だけは。
もう。
消えなかった。




