第62話「名前をつける」
昼。
ぱんでむのフロアには、いつもの音が戻っていた。
食器。
厨房。
誰かの話し声。
廊下を歩く足音。
笑い声。
昨日までと変わらない。
けれど。
カウンターの端には、一つだけ。
白い包みが置かれていた。
昨日のバーガー。
「……まだありますね」
好代が言った。
秩序ちゃんが端末を見る。
「保管状態は正常です」
「味は?」
「確認していません」
「においは?」
「好代さんなら確認できます」
好代は少しだけ包みを見る。
手を伸ばす。
けれど。
触れる直前で止めた。
「……まだ、いいです」
「理由を聞いても?」
「まだ誰のものかわからないので」
秩序ちゃんは頷いた。
「了解しました」
そこへ。
「お主ら、何をしておるのじゃ?」
理性ちゃんがやってきた。
「昨日のバーガーです」
好代が答える。
「まだ食べておらぬのか」
「はい」
「ほう」
理性ちゃんは包みを見る。
「ずいぶん律儀じゃの」
「誰かのものかもしれませんから」
「ならば、なおさら勝手に食べるわけにはいかぬな」
「はい」
理性ちゃんが満足そうに頷いた。
「よい判断じゃ」
そのとき。
入口から真意ちゃんが入ってきた。
「好代」
「はい」
「少し時間ある?」
「あります」
「昨日のもの、調べたい」
好代は包みを見る。
「これですか?」
「それと」
真意ちゃんは一番奥の席を見た。
「そっち」
二人は席へ向かった。
真意ちゃんは椅子に触れない。
ただ。
テーブルの上に指を置いた。
「昨日、何があった?」
好代は説明した。
注文票。
空欄。
「受け取って」と書かれた文字。
バーガー。
そして。
自分が保留にしたこと。
真意ちゃんは最後まで聞いた。
「それで、何か感じた?」
「はい」
「何?」
「普通の人のにおいです」
「普通?」
「温かいパンと、お肉と、少し甘いソース。それから……」
好代は考えた。
「安心です」
真意ちゃんが少しだけ目を細める。
「安心?」
「はい」
「恐怖や敵意は?」
「ありません」
「焦げた甘さは?」
好代は黙った。
棚を開く。
「……少しだけ」
「どこに?」
「この人のものとは違います」
「別のもの?」
「はい」
真意ちゃんは頷いた。
「じゃあ、分けて考えよう」
「はい」
好代は目を閉じた。
一番奥の席。
昨日の包み。
その奥にある人間の感情。
さらに奥。
焦げた甘さ。
黒いもの。
遠い場所。
そして。
かつて戦った存在の痕跡。
「……」
真意ちゃんが聞く。
「わかった?」
「まだです」
「じゃあ、もう一回」
好代は棚を開き直した。
一つずつ。
分ける。
人間の記憶。
人間の感情。
バーガーの味。
空席の記憶。
焦げた甘さ。
黒いにおい。
そして。
「……ありました」
「何が?」
「繋がっています」
「どれとどれ?」
好代は指を伸ばした。
「この人の感情と」
少し離れたところにある黒いにおい。
「これです」
真意ちゃんは黙った。
「でも、同じではありません」
「うん」
「誰かの感情に、別のものが触れています」
「その別のものは?」
好代はしばらく考えた。
「……知っています」
真意ちゃんが見る。
「名前は?」
好代は答えた。
「闇ドナルドです」
真意ちゃんは驚かなかった。
「そう」
それだけだった。
「確定?」
「はい」
「どうして?」
「においです」
好代は続ける。
「前に会ったときのものと同じです」
「なるほど」
真意ちゃんは一番奥の席を見た。
「じゃあ、昨日ここにいたのは闇ドナルド?」
「違います」
即答だった。
真意ちゃんが好代を見る。
「違う?」
「はい」
好代は首を横に振る。
「闇ドナルド本人ではありません」
「じゃあ?」
「残っているだけです」
「何が?」
「触れた跡です」
真意ちゃんは黙った。
好代は続けた。
「人間の感情に、闇ドナルドの痕跡が触れている」
「なぜ?」
「わかりません」
「でも、悪意だけじゃない」
「はい」
「そこが問題ね」
好代は包みを見る。
「この人は、誰かに帰ってきてほしかった」
真意ちゃんが少しだけ顔を上げた。
「どうしてそう思うの?」
「においです」
「記憶?」
「違います」
好代は首を振る。
「記憶にはありません」
「じゃあ?」
「感情だけ残っています」
真意ちゃんは少し考えた。
「つまり、その人自身も知らない感情が残っている?」
「たぶん」
「誰かを待っていた」
「はい」
「でも、待っていた相手は?」
「わかりません」
「闇ドナルド?」
「違います」
「……」
好代は空席を見る。
「たぶん、もっと普通の人です」
真意ちゃんは黙った。
やがて。
「それなら」
「はい」
「どうして闇ドナルドが触れたのか」
好代は答えなかった。
その代わり。
一番奥の席に座った。
昨日と同じ席。
向かい側には誰もいない。
「……真意さん」
「何?」
「闇ドナルドは」
少し考える。
「人の気持ちを食べるんでしょうか」
真意ちゃんはすぐに答えなかった。
「少なくとも、昨日の痕跡を見る限り」
「はい」
「単純に食べた、とは言えない」
「……?」
「触れている」
「食べるのとは違う?」
「うん」
真意ちゃんは椅子を引いた。
好代の向かいに座る。
「むしろ」
「はい」
「人が誰かを求める気持ちに、自分の何かを重ねている」
好代は黙った。
「だから、似てしまう」
「何がですか?」
「待っている人と」
真意ちゃんが空席を見る。
「待っているものが」
好代は少しだけ息を止めた。
「……待っているもの」
「そう」
「同じじゃないんですか?」
「違う」
真意ちゃんは静かに言った。
「人は誰かを待つ」
「はい」
「闇ドナルドは、何かを求める」
「はい」
「似ているけど、同じじゃない」
好代は考えた。
そして。
「じゃあ」
「うん」
「闇ドナルドも、何かを受け取れなかったんでしょうか」
真意ちゃんの表情が変わった。
ほんの少し。
「……それは、まだわからない」
「はい」
「でも」
真意ちゃんはテーブルを指で軽く叩いた。
「その可能性は捨てない方がいい」
好代は頷いた。
そのとき。
厨房から声がした。
「好代ちゃーん!」
渾沌ちゃんだった。
「はい?」
「ちょっと来てー!」
二人は席を立った。
厨房へ行く。
そこには秩序ちゃんと理性ちゃん。
そして。
一つの紙。
昨日の注文票だった。
ただし。
昨日とは違っている。
「何か変わりました?」
好代が聞いた。
秩序ちゃんが端末を見せる。
「商品欄に記録が追加されました」
「何が?」
「ハンバーガー」
「それだけですか?」
「はい」
「受取人は?」
「空欄です」
「注文者は?」
「昨日と同じです」
好代は紙を見る。
「じゃあ、昨日と同じですね」
「いいえ」
秩序ちゃんが言った。
「一つ違います」
紙の下。
備考欄。
そこに。
新しい文字があった。
『返却待ち』
好代の目が止まった。
「……返す?」
真意ちゃんが紙を見る。
「受け取ったものを?」
「たぶん」
好代は考えた。
昨日。
自分は言った。
誰かのものなら。
その人が戻ってきたときに渡せるようにしておく。
だから。
これは。
誰かが「返してほしい」と言っているのではない。
自分が。
返す側になったということなのかもしれない。
好代は包みを見る。
「……」
渾沌ちゃんが聞いた。
「すきよちゃん?」
「はい」
「どうするの?」
好代はしばらく考えた。
それから。
包みを持ち上げた。
「返します」
「誰に?」
「わかりません」
「どこに?」
「それも、まだ」
真意ちゃんが言った。
「でも、返す場所なら一つある」
好代が見る。
真意ちゃんは。
一番奥の席を指した。
「ここ」
好代は。
ゆっくり頷いた。
「……はい」
包みを持って。
一番奥の席へ戻る。
テーブルの中央。
包みを置く。
そして。
向かいの空席を見る。
「これは」
好代は静かに言った。
「私のものではありません」
誰もいない。
「だから」
少しだけ笑う。
「返しに来てください」
風が吹いた。
花瓶の花が揺れる。
椅子は動かなかった。
それでも。
棚の中で。
何かが一つだけ。
静かに収まった。
好代は目を閉じた。
人間の感情。
誰かを待つ気持ち。
闇ドナルドの痕跡。
そして。
自分の「食べたい」。
全部が。
同じ場所には入らない。
けれど。
捨てる必要もない。
分けて。
覚えて。
必要なら返す。
好代は。
それを初めて、自分の意思で選んだ。
「……受け取ったら」
小さく呟く。
「返すこともできるんですね」
誰も答えなかった。
ただ。
注文票の『返却待ち』という文字が。
ゆっくり消えた。
代わりに。
一番奥の席の受取欄に。
初めて。
一文字だけ。
記録された。
『好代』
そしてその下に。
新しい文字が浮かんだ。
『保管中』
好代は。
それを見つめた。
まだ。
何も終わっていない。
けれど。
昨日とは違う。
昨日は。
ただ受け取った。
今日は。
自分で選んで。
残した。
そして。
いつか返すために。
覚えている。
ぱんでむの昼は。
静かに過ぎていった。




