第61話「受け取ったもの」
朝。
ぱんでむは、まだ少しだけ静かだった。
昨夜の戦闘で壊れた照明。
床に残った傷。
倒れた椅子。
散らばった書類。
いつもなら、開店前には片付いているはずのものが、まだそこに残っている。
好代は、床に落ちた紙を一枚拾った。
「……これ、秩序さんの記録ですね」
「はい」
後ろから声がした。
秩序ちゃんだった。
手には新しい記録端末。
「昨日の損傷について、記録しています」
「修理は?」
「渾沌ちゃんたちが進めています」
「そうですか」
好代は紙を渡した。
秩序ちゃんは受け取る。
「ありがとうございます」
それだけ言って、端末に何かを書き込んだ。
好代は少しだけ笑った。
「秩序さん」
「何ですか?」
「昨日のことも、全部記録するんですか?」
「はい」
「戦ったことも?」
「はい」
「怖かったことも?」
秩序ちゃんの指が止まった。
「……必要なら」
「必要ですか?」
「私は、必要だと思っています」
好代は黙った。
そして、一番奥の席を見る。
そこだけは。
昨夜の戦闘でも壊れていなかった。
三つの椅子。
小さな花。
空いた席。
「……不思議ですね」
「何がですか?」
「ここだけ、何も壊れてないです」
秩序ちゃんも席を見る。
「そうですね」
「偶然でしょうか」
「わかりません」
少し考えてから。
「でも、記録には残します」
好代は頷いた。
「はい」
その返事をした瞬間。
一番奥の席から。
カタン。
小さな音がした。
二人が振り返る。
誰もいない。
ただ。
テーブルの上に、一枚の紙が置かれていた。
昨日までなかった紙だった。
好代が近づく。
「……注文票?」
秩序ちゃんが隣に立つ。
「そのようです」
紙には、いくつかの欄がある。
注文者。
商品。
受取席。
受取時刻。
そのうち。
注文者の欄だけが埋まっていた。
昨日、戻ってきた名前。
一番奥の席にいた、名前のない客。
「……またですか」
好代が呟く。
秩序ちゃんは注文票を確認する。
「商品欄は空欄です」
「受取時刻も?」
「空欄です」
「じゃあ、注文だけ?」
「はい」
好代は紙を見つめた。
「……この人、まだ何かを待ってるんでしょうか」
秩序ちゃんは答えなかった。
代わりに端末を操作する。
「過去記録と照合します」
しばらくして。
「一致しました」
「何がですか?」
「昨日まで消えていた注文記録です」
好代の目が少し大きくなる。
「でも、それは戻ったんですよね?」
「はい」
「じゃあ、この注文票は?」
秩序ちゃんは首を横に振った。
「別です」
「別?」
「注文番号が違います」
好代は紙を見る。
同じ名前。
同じ席。
でも。
違う注文。
「……二回、注文したんですか?」
「その可能性があります」
「何を?」
「それが問題です」
秩序ちゃんが、商品欄を指した。
そこには何も書かれていない。
けれど。
好代には、においがあった。
「……」
棚を開く。
一瞬。
ぱんでむ中のにおいが遠ざかった。
代わりに。
温かいパン。
焼けた肉。
少し甘いソース。
そして。
誰かが待っているときのにおい。
「……普通のバーガーです」
秩序ちゃんが顔を上げた。
「普通?」
「はい」
「異常反応は?」
「今のところありません」
「世界線由来の変質も?」
「ありません」
好代は注文票を見た。
「じゃあ、どうして商品欄が空欄なんでしょう」
そのとき。
厨房から声がした。
「好代ちゃんー!」
渾沌ちゃんだった。
「はい?」
「ちょっと来てー!」
好代と秩序ちゃんは顔を見合わせた。
厨房へ向かう。
そこには。
渾沌ちゃんと、数人のクルーがいた。
カウンターの上。
そこに、一つの包みが置かれている。
白い包み紙。
見慣れた形。
けれど。
誰も作った覚えがない。
「これ、さっき出てきたんだよ」
渾沌ちゃんが言った。
「どこから?」
「厨房の奥」
「冷蔵庫?」
「違う」
渾沌ちゃんが指差す。
「注文口」
好代が近づく。
包みから、においがする。
さっき感じたものと同じ。
温かいパン。
肉。
ソース。
それから。
ほんの少し。
寂しいにおい。
好代は手を伸ばした。
「待ってください」
秩序ちゃんが止めた。
「まだ調査が済んでいません」
「はい」
好代は手を戻した。
渾沌ちゃんが包みを見つめる。
「これ、誰の?」
「わかりません」
「じゃあ食べちゃう?」
「渾沌さん」
「冗談だよ」
渾沌ちゃんは笑った。
でも。
その笑顔は、すぐに消えた。
「……なんかさ」
「はい」
「これ、食べちゃいけない気がする」
好代も頷いた。
「私もです」
そのとき。
背後から声がした。
「食べる必要はないのじゃ」
理性ちゃんだった。
湯呑みを持ったまま、厨房へ入ってくる。
「理性さん」
「そのバーガーは、まだ誰のものでもない」
好代が聞く。
「誰のものでもない?」
「うむ」
理性ちゃんは包みを見る。
「注文されたものと、受け取られたものは別じゃ」
「でも、注文者はいます」
「そうじゃな」
理性ちゃんは少し考える。
「しかし、受け取る者がいない」
好代は。
その言葉を聞いて。
一番奥の席を思い出した。
帰りたかった。
食べてほしかった。
残してほしかった。
一緒にいたかった。
受け取ってほしかった。
いくつもの感情。
誰のものなのかわからないもの。
そして。
第60話で自分が分けたもの。
誰かの願い。
誰かの記憶。
誰かの寂しさ。
自分の気持ち。
「……」
好代は、包みを見た。
「理性さん」
「なんじゃ?」
「もし」
少し考える。
「誰のものかわからないものが、私のところに来たら」
「うむ」
「受け取ってもいいんでしょうか」
理性ちゃんは、すぐには答えなかった。
湯呑みを一口飲む。
「それは、お主が決めることじゃ」
「私が?」
「そうじゃ」
「でも、知らない人のものかもしれません」
「だからこそじゃ」
理性ちゃんは好代を見る。
「受け取ることと、自分のものにすることは同じではない」
好代は黙った。
「……」
理性ちゃんが続ける。
「受け取ったうえで」
「はい」
「誰のものだったのかを考えることもできる」
好代は包みを見た。
「……なるほど」
そのとき。
注文票が。
カウンターの上で、ひとりでに動いた。
紙が裏返る。
誰も触っていない。
裏面には。
新しい文字が浮かんでいた。
注文者。
あの名前。
商品。
空欄。
受取人。
空欄。
そして最後に。
一つだけ。
文字が現れた。
「受け取って」
好代は息を止めた。
渾沌ちゃんが小さく言う。
「……誰に?」
誰も答えない。
好代は。
しばらく注文票を見つめた。
それから。
包みに手を伸ばした。
秩序ちゃんが何か言おうとした。
けれど。
好代は止まらなかった。
包みを持ち上げる。
温かい。
「……受け取ります」
誰もいない厨房で。
その言葉だけが響いた。
その瞬間。
一番奥の席から。
カタン。
椅子が一つ。
ほんの少しだけ。
引かれた。
好代は振り返った。
誰もいない。
でも。
棚を開かなくてもわかった。
そこに残っていたのは。
闇のにおいではなかった。
焦げた甘さでも。
空腹でも。
拒絶でもない。
もっと普通の。
温かい人間のにおい。
そして。
ほんの少しだけ。
安心したようなにおい。
好代は包みを胸の前で抱えた。
「……食べていいんでしょうか」
返事はなかった。
だから。
好代は少し考えた。
そして。
「……まだ、食べません」
包みを見つめる。
「誰かのものなら」
一番奥の席を見る。
「その人が戻ってきたときに渡せるようにしておきます」
秩序ちゃんが静かに端末へ記録した。
「受領者、好代」
好代が振り返る。
「はい」
「保管理由は?」
好代は少し考えた。
そして。
「……帰ってくるかもしれないからです」
秩序ちゃんの指が止まった。
やがて。
記録に文字が刻まれる。
『受領した。
ただし、所有したとはみなさない。』
その一文を書き終えたところで。
注文票から。
文字が一つ消えた。
「受け取って」
その言葉だけが。
消えた。
代わりに。
商品欄に。
初めて文字が現れた。
「――保留」
好代は。
その文字を見つめた。
少しだけ笑った。
「……保留なんですね」
理性ちゃんが湯呑みを置く。
「そうじゃ」
「食べるのも?」
「保留じゃ」
「持っているのも?」
「保留じゃ」
「誰のものかも?」
「それもじゃ」
好代は頷いた。
「じゃあ」
包みを大事に置く。
「もう少しだけ、待ちましょう」
一番奥の席。
空いた椅子。
小さな花。
そして。
まだ誰にも食べられていないバーガー。
ぱんでむの朝は。
いつも通り始まった。
ただ。
昨日までと一つだけ違っていた。
空席に残されたものを。
誰かが消えないように記録しているだけではない。
誰かが。
受け取った。
そして。
返すために。
残している。
――厨房の時計が。
一度だけ。
誰も触れていないのに。
動いた。
止まっていた時刻は。
昨夜、誰かが帰った時刻だった。




