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第60話「痕跡」

朝。


ぱんでむは。


まだ静かだった。


昨夜の戦闘の跡が。


そこかしこに残っている。


壁。


床。


割れた照明。


倒れた椅子。


散らばった書類。


それでも。


一番奥の席だけは。


何も壊れていなかった。


三つの椅子。


花瓶。


小さな花。


そして。


昨日、置いたバーガーの包み紙。


好代は。


そこに立っていた。


「……」


棚を開く。


黒いにおい。


焦げた甘さ。


雨。


土。


金属。


空腹。


そして。


ほんの少しだけ。


パンのにおい。


昨夜より。


薄くなっている。


「……」


好代は。


窓を見る。


もう。


影はいない。


けれど。


確かに。


何かが来た。


そして。


帰っていった。


「おはよう」


背後から声がした。


好代が振り返る。


真意ちゃんだった。


手には。


いつものルーペ。


その反対の手には。


小さな記録用ケース。


「おはようございます」


「怪我は?」


「ありません」


「そう」


真意ちゃんは。


一番奥の席を見る。


「じゃあ、調べる」


「何をですか?」


「昨夜の客」


好代は。


少しだけ驚いた。


「客なんですか?」


「まだ決めてない」


真意ちゃんは。


しゃがみ込んだ。


「でも」


床を見る。


「痕跡は残ってる」


第一章「残った足跡」


真意ちゃんは。


床へルーペを向けた。


肉眼では。


何もない。


ただの床。


でも。


ルーペを通すと。


表面に。


薄い線が浮かび上がった。


「……」


真意ちゃんが。


少し角度を変える。


「ここ」


好代が覗き込む。


「何ですか?」


「通った跡」


「足跡?」


「それとは少し違う」


ルーペの中。


床の素材そのものが。


わずかに変質している。


何かが。


そこを通った。


その時間を。


床が覚えている。


「昨日の歪者ですか?」


「ええ」


真意ちゃんは。


淡々と答えた。


「間違いない」


「どうしてわかるんですか?」


「痕跡の構造が一致してる」


「第39話の時と?」


「同じ種類のタグ反応」


好代は。


第39話のことを思い出した。


カオスドナルド。


あの時。


真意ちゃんは。


変質した姿の奥から。


最初の命名タグを読んだ。


「じゃあ」


好代が聞く。


「今回も?」


「読む」


真意ちゃんは。


ルーペを近づけた。


タグが。


浮かび上がる。


一層。


二層。


さらに。


その奥。


真意ちゃんは。


一度だけ。


瞬きをした。


「……」


好代が待つ。


真意ちゃんは。


何でもないことのように。


言った。


「闇ドナルド」


「……」


「識別名は、それで確定」


好代は。


少しだけ考えた。


「闇ドナルド」


「うん」


「カオスドナルドではないんですね」


「違う」


真意ちゃんは。


ルーペを下ろした。


「闇ドナルド」


それだけ。


まるで。


商品の名前を確認するような。


淡々とした言い方だった。


第二章「その先」


「それで」


好代が聞いた。


「何かわかりましたか?」


「いろいろ」


真意ちゃんは。


記録用紙を広げた。


「まず」


一行目を書く。


「この個体は」


ペンが動く。


「昨日初めてここへ来たわけじゃない」


好代が。


顔を上げた。


「……え?」


「もっと前から」


真意ちゃんは。


床を見る。


「外縁部を何度か通ってる」


「何度も?」


「少なくとも、確認できる痕跡だけで七回」


「七回……」


「ただし」


真意ちゃんが。


二行目を書く。


「ぱんでむへ侵入したのは昨日が初めて」


好代は。


少し考えた。


「じゃあ」


「うん」


「ずっと外から見ていた?」


「可能性が高い」


「何を?」


真意ちゃんは。


一番奥の席を見る。


「ここ」


好代の胸が。


少しだけ動いた。


第三章「席の記憶」


真意ちゃんは。


一番奥の席へ近づいた。


椅子。


テーブル。


花瓶。


そして。


三つの椅子。


「これ」


「はい」


「三脚目」


「はい」


真意ちゃんは。


三脚目の椅子へ。


ルーペを向けた。


「……」


しばらく。


何も言わない。


やがて。


「面白い」


「何がですか?」


「この椅子」


真意ちゃんが。


指先で背もたれを触る。


「昨日増えたんだよね」


「はい」


「でも」


ルーペを覗く。


「痕跡は、もっと古い」


好代は。


黙った。


「……どういうことですか?」


「椅子がここに来る前から」


真意ちゃんは。


床を見る。


「ここには、三人分の空間があった」


「空間?」


「誰かが座っていたわけじゃない」


「はい」


「でも」


真意ちゃんは。


少しだけ。


考えた。


「誰かが座る余地だけが、ずっと残っていた」


好代は。


その言葉を聞いた。


「……」


それは。


昨日までの空席とは。


少し違う。


空席があるのではない。


誰かが来るための場所が。


最初から。


存在していた。


「じゃあ」


好代が言った。


「闇ドナルドは」


「うん」


「その場所を見つけた?」


真意ちゃんは。


すぐに答えなかった。


「違うかもしれない」


「え?」


「見つけたんじゃなくて」


真意ちゃんは。


三脚目の椅子を見る。


「ここが、呼んだ可能性もある」


好代は。


黙った。


第四章「タグの中身」


「もう一つ」


真意ちゃんが言った。


「闇ドナルドのタグ」


「はい」


「名前だけじゃない」


「何が書いてあったんですか?」


真意ちゃんは。


ルーペを再び覗いた。


「起源」


「起源?」


「どこから、この個体が生じたか」


好代が。


息を止める。


「わかるんですか?」


「完全には」


「でも」


「一部は読める」


真意ちゃんが。


紙へ書いていく。


「ドナルドの概念」


一行。


「変質」


二行。


「共鳴対象」


三行。


そこだけ。


真意ちゃんの手が止まった。


「……」


「何ですか?」


「少し変」


「何が?」


「普通なら」


真意ちゃんは。


ゆっくり言った。


「一つの概念に共鳴する」


「カオスドナルドなら混沌、みたいに?」


「そう」


「じゃあ闇ドナルドは?」


「それが」


真意ちゃんは。


もう一度。


ルーペを覗いた。


「一つじゃない」


好代は。


目を見開いた。


「複数?」


「うん」


「何と?」


「まだ全部は読めない」


「でも」


真意ちゃんは。


タグの一部を指した。


「食欲」


好代は。


黙った。


「孤独」


もう一つ。


「拒絶」


そして。


「それから」


真意ちゃんが。


少しだけ。


眉を寄せた。


「愛着」


好代の胸が。


強く動いた。


第五章「闇ドナルドの痕跡」


「だから」


好代は。


一番奥の席を見る。


「食べてほしい」


「うん」


「一緒にいたい」


「うん」


「帰りたい」


「うん」


「それが全部」


好代は。


少し考える。


「闇ドナルドの感情なんですか?」


「違う」


真意ちゃんは。


即答した。


「え?」


「タグに残っているのは」


真意ちゃんが。


ルーペを閉じる。


「この個体が変質する過程で取り込んだもの」


「……」


「本人の感情とは限らない」


好代は。


その言葉を聞いた。


「じゃあ」


「うん」


「誰かの感情かもしれない?」


「可能性はある」


「誰の?」


「そこまでは読めない」


真意ちゃんは。


少しだけ。


ルーペを振った。


「でも」


「はい」


「昨日、あなたに触れようとした時」


好代は。


あの瞬間を思い出した。


胸の前。


止まった手。


そして。


身体を透過した。


「タグが」


真意ちゃんが言う。


「一瞬だけ、変化した」


「……」


「好代の中にあるものに反応した」


好代は。


自分の胸へ手を当てた。


「千姿の?」


「たぶん」


「何が?」


「まだ不明」


真意ちゃんは。


淡々としていた。


でも。


その目だけは。


少しだけ。


鋭かった。


第六章「食べてほしい」


昼。


渾沌ちゃんが。


厨房にいた。


「真意ちゃん」


「なに?」


「昨日のやつ」


「闇ドナルド」


「それ」


渾沌ちゃんは。


バーガーを作りながら。


聞いた。


「やっぱり、バーガーが好きなのかな」


真意ちゃんは。


少し考えた。


「タグだけなら」


「うん」


「そういう傾向はある」


「そっか」


渾沌ちゃんが。


少し嬉しそうに笑う。


「じゃあ」


「うん」


「嫌いにならなくていい?」


真意ちゃんは。


渾沌ちゃんを見る。


「嫌いになる必要はない」


「……」


「でも」


「うん」


「近づく必要もない」


渾沌ちゃんは。


少し考えた。


「そっか」


いつもの。


「そっか」だった。


でも。


今回は。


少しだけ。


寂しそうだった。


好代は。


そのにおいを読む。


渾沌ちゃんの中にある。


バーガーが好き。


誰かに食べてほしい。


誰かと食べたい。


その気持ち。


そして。


闇ドナルドの中にある。


似ているもの。


でも。


同じではない。


「……」


好代は。


その違いを。


まだ言葉にできなかった。


第七章「記録」


午後。


秩序ちゃんが。


調査結果を整理していた。


「識別名」


「闇ドナルド」


「確認」


「はい」


「初回侵入」


「昨日」


「外縁部での観測回数」


「七回以上」


「目的」


「不明」


「一番奥の席への執着」


「確認」


「好代さんへの接触」


「確認」


「攻撃意図」


「不明」


「バーガーへの関心」


「確認」


「『一緒に』という反応」


「確認」


「『食べて』という反応」


「確認」


秩序ちゃんは。


最後の項目を書いた。


「以上です」


世達ちゃんが。


記録を読む。


「かなり整理できましたね」


「はい」


好代は。


その資料を見る。


一つの名前。


闇ドナルド。


その下に。


大量の未確定事項。


「……名前はわかったのに」


好代が言う。


「何もわかってないみたいです」


真意ちゃんが。


隣で答えた。


「そういうものよ」


「え?」


「名前は」


真意ちゃんは。


ルーペをケースへしまった。


「識別するためのものだから」


「……」


「理解するためのものじゃない」


好代は。


その言葉を聞いた。


確かに。


そうだった。


第八章「最後の痕跡」


夜。


全員が。


少しずつ仕事へ戻っていた。


好代は。


一番奥の席へ向かった。


三つの椅子。


花瓶。


古い花。


そして。


昨日の戦闘で落ちた。


小さな黒い紙片。


好代は。


それを拾った。


「……」


棚を開く。


においが来る。


闇ドナルド。


でも。


その奥に。


別のにおい。


とても古い。


好代は。


息を止めた。


これは。


昨夜のものではない。


もっと前。


ずっと前。


ぱんでむに。


何かが来るより。


ずっと前。


「……」


真意ちゃんが。


背後に立っていた。


「それ」


「はい」


「見せて」


好代は。


紙片を渡す。


真意ちゃんが。


ルーペを向ける。


しばらく。


無言。


そして。


初めて。


表情が変わった。


「……これ」


「何ですか?」


「闇ドナルドのタグじゃない」


好代は。


驚いた。


「え?」


「もっと古い」


「じゃあ」


真意ちゃんは。


紙片を裏返す。


そこに。


小さな文字が。


一つ。


浮かび上がった。


「ドナルド」


好代は。


言葉を失った。


「普通のドナルド様?」


「それも違う」


「じゃあ」


真意ちゃんは。


ルーペを近づける。


「これは」


一文字。


その下に。


もう一文字。


さらに。


もう一文字。


タグが。


ゆっくり。


姿を現す。


真意ちゃんが。


読む。


「……初期個体」


好代の胸が。


大きく鳴った。


「初期?」


「そう」


真意ちゃんは。


紙片を見つめた。


「闇ドナルドより前」


「……」


「カオスドナルドより前」


「……」


「この歪者が生まれるより前に」


真意ちゃんは。


一番奥の席を見る。


「ここには」


少し間。


「別のドナルドが来ていた」


好代は。


三つの椅子を見る。


一つ。


二つ。


三つ。


そのうち。


一つだけ。


誰も座っていない。


でも。


そこから。


ごく微かな。


焼きたてのパンのにおいがした。


好代は。


そのにおいを読んだ。


黒くない。


焦げてもいない。


ただ。


温かい。


そして。


その奥に。


一つだけ。


古い感情があった。


「食べてほしい」


好代は。


静かに。


目を閉じた。

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