第59話「届かない」
朝。
好代は、一番奥の席を見ていた。
三つの椅子。
花瓶。
昨日置いたバーガーの包み紙。
もう、中身はない。
誰かが食べた。
それだけはわかる。
でも。
誰が食べたのかは。
まだ、わからない。
好代は棚を開いた。
昨日までのにおい。
花。
パン。
温かい飲み物。
空腹。
寂しさ。
それから。
黒いにおい。
「……」
昨日より。
濃い。
好代は窓を見る。
外は静かだった。
何もない。
なのに。
確かに。
近づいている。
「おはよー」
渾沌ちゃんが厨房から顔を出した。
「おはようございます」
「今日、変な感じするね」
「はい」
「すきよちゃんも?」
「はい」
渾沌ちゃんは。
少しだけ笑った。
「じゃあ、今日なんかあるね」
その時。
店内の照明が。
一度だけ。
消えた。
第一章「異常反応」
明かりが戻る。
数秒後。
秩序ちゃんの端末が鳴った。
「……」
画面を見る。
「外縁部に異常反応」
世達ちゃんが。
すぐに振り返った。
「場所は?」
「昨日までの地点と一致しません」
「移動してる?」
「はい」
「速度は?」
秩序ちゃんが。
画面を確認する。
「測定不能です」
「測定不能?」
「こちらの観測範囲に入るたび、位置情報そのものが変化しています」
好代は。
窓へ近づいた。
棚を開く。
黒い。
焦げた甘さ。
雨。
金属。
土。
空腹。
そして。
今までより強い。
「……います」
渾沌ちゃんが。
窓を見る。
「どこ?」
「外です」
「見えないよ」
「はい」
好代は。
窓を見つめる。
「でも、います」
その時。
外縁の向こう。
一瞬だけ。
黒いものが見えた。
人の形。
でも。
人ではない。
輪郭が。
一定しない。
黒い塊の中に。
赤と黄色が混ざっている。
それだけ。
顔はない。
少なくとも。
好代には。
顔として認識できなかった。
「……」
影が。
止まった。
そして。
こちらを向いた。
第二章「来る」
警報が鳴った。
店内の空気が変わる。
クルーが集まってくる。
一人。
また一人。
普段なら別々の場所にいる者たちが。
同じ場所へ。
好代は。
その気配を感じていた。
影は。
動かない。
でも。
近づいている。
空間そのものが。
少しずつ。
押されている。
「結界展開」
秩序ちゃんの声。
「外縁封鎖」
世達ちゃんが。
端末を確認する。
「逃走経路は?」
「三方向」
「四方向にしてください」
「了解」
摩天ちゃんが。
前へ出る。
「私が先に行く」
好代は。
その横に立った。
「私も行きます」
「危ないよ」
「はい」
「それでも?」
「はい」
摩天ちゃんは。
少しだけ。
好代を見た。
「……わかった」
その時。
影が。
一歩。
進んだ。
空間が。
歪んだ。
壁が。
軋んだ。
それでも。
ぱんでむは壊れない。
秩序ちゃんの結界が。
受け止めている。
「来ます」
好代が言った。
「全員、構えてください」
秩序ちゃんが。
指示を出した。
そして。
影が。
ぱんでむの外縁へ。
入った。
第三章「歪者」
近い。
第39話で見た歪者とは。
違う。
同じ根を感じる。
でも。
姿が違う。
好代は。
棚を開いた。
においを読む。
何かを。
知ろうとする。
名前。
起源。
感情。
目的。
けれど。
何も読めない。
「……」
好代の顔から。
血の気が引いた。
「読めません」
世達ちゃんが。
「何が?」
「においが」
「?」
「この人のにおいが」
好代は。
歪者を見る。
「全部、途切れています」
歪者が。
一歩進む。
摩天ちゃんが。
飛び出した。
「先に行く!」
一瞬。
距離が消えた。
摩天ちゃんの攻撃が。
歪者へ届く。
そう思った。
しかし。
届かなかった。
正確には。
攻撃が。
歪者の手前で。
止まった。
何もない空間に。
押し付けられたように。
「……え?」
摩天ちゃんが。
力を込める。
動かない。
歪者は。
摩天ちゃんを見た。
それだけ。
次の瞬間。
摩天ちゃんの身体が。
後方へ飛んだ。
壁へ叩きつけられる。
「摩天!」
何人かが。
一斉に動いた。
攻撃。
能力。
結界。
拘束。
ありとあらゆる力が。
歪者へ向かう。
しかし。
全部。
止まった。
消えた。
逸れた。
最初から。
存在しなかったように。
何も届かない。
好代は。
必死に。
においを探す。
どこかに。
隙がある。
何か。
弱点が。
あるはず。
でも。
ない。
「……」
歪者が。
好代を見る。
好代は。
動けなかった。
第四章「認識されない」
好代は。
自分の中にあるものを。
一つずつ探した。
世界線バーガーから受け取った知識。
技能。
能力。
記憶。
感覚。
今まで積み重ねてきたもの。
全部。
使える。
そう思った。
好代は。
一歩前へ出た。
「……」
歪者を見る。
棚を。
全部開く。
世界が。
何重にも重なる。
視覚。
嗅覚。
記憶。
時間。
空間。
あらゆる感覚を。
一点へ。
集める。
「見え――」
その瞬間。
全部。
消えた。
何も。
わからない。
目の前にいるはずなのに。
存在しているはずなのに。
好代の感知から。
完全に外れている。
「……どうして」
歪者が。
歩いてくる。
好代の横を。
通り過ぎる。
攻撃すらしない。
好代は。
振り返った。
歪者は。
もう。
別のクルーのところへ。
向かっている。
「待って」
好代が。
言った。
歪者は。
止まらない。
「待ってください!」
止まらない。
その時。
好代は。
気づいた。
自分たちは。
戦っている。
でも。
向こうは。
戦っていない。
「……」
歪者にとって。
自分たちは。
敵ですらない。
第五章「全部」
クルーが。
次々に倒れていく。
攻撃しても。
届かない。
防いでも。
意味がない。
避けても。
その先へ。
歪者は進む。
壊そうとしているわけではない。
怒っているわけでもない。
ただ。
歩いている。
ぱんでむの奥へ。
何かを探すように。
「止まれ!」
声が響く。
それでも。
止まらない。
好代は。
そのにおいを探した。
黒い。
甘い。
焦げた。
空腹。
そして。
その奥に。
一つだけ。
小さな感情。
「……」
好代は。
聞き取った。
言葉ではない。
でも。
感情として。
伝わってくる。
ほしい。
好代の胸が。
締め付けられた。
「……何が」
誰にも聞こえない声。
「何が、ほしいんですか」
歪者が。
初めて。
止まった。
全員が。
息を呑む。
歪者が。
ゆっくり。
好代を見る。
そして。
好代の背後。
一番奥の席を見る。
三つの椅子。
花瓶。
空になった包み紙。
歪者は。
そこへ向かって。
一歩。
進んだ。
第六章「空席」
好代は。
歪者の前へ。
立った。
怖い。
でも。
退かなかった。
「そこに」
好代は。
一番奥の席を見る。
「何かあるんですか」
歪者は。
答えない。
「帰りたいんですか」
沈黙。
「食べたいんですか」
歪者の輪郭が。
一瞬だけ。
揺れた。
好代は。
さらに。
棚を開く。
黒い。
黒い。
黒い。
その奥に。
ほんの少し。
普通のにおい。
パン。
肉。
野菜。
ソース。
それから。
誰かが。
「おいしい」と言った時の。
喜び。
好代は。
息を止めた。
「……」
この歪者の中に。
何かがある。
完全に。
消えてはいない。
何かが。
まだ。
残っている。
「あなたは」
好代が。
静かに言った。
「バーガーが好きなんですか」
その瞬間。
歪者が。
好代の目の前まで来た。
速さが。
わからなかった。
好代は。
動けない。
歪者の手が。
好代の胸元へ。
伸びる。
「……!」
誰かが叫んだ。
でも。
歪者の手は。
好代に触れなかった。
胸の少し手前で。
止まった。
そして。
そのまま。
好代の身体を。
透過する。
「……え」
何も起きない。
歪者は。
好代の中を。
見ているようだった。
その瞬間。
好代の棚に。
大量の感情が。
流れ込んだ。
食べたい。
欲しい。
好き。
もっと。
届けたい。
食べてほしい。
一緒に。
永遠に。
そして。
最後に。
一つだけ。
とても小さな。
普通の感情。
「おいしいって言ってほしい」
好代の目が。
大きく開いた。
第七章「去る」
次の瞬間。
歪者は。
好代から離れた。
そして。
全員を見渡す。
誰も。
動けなかった。
それは。
威圧ではない。
殺気でもない。
ただ。
確認しているようだった。
一人。
一人。
そして。
最後に。
好代を見る。
ほんの一瞬。
好代は。
歪者の中に。
何かを見た。
普通の人。
普通の手。
普通のバーガー。
誰かと一緒に。
笑っている。
それだけの光景。
でも。
次の瞬間。
全部が。
黒く塗り潰された。
好代は。
息を呑んだ。
歪者が。
背を向ける。
「待って!」
好代が。
叫ぶ。
歪者は。
止まらない。
「話してください!」
止まらない。
「あなたは――」
歪者の姿が。
外縁へ。
戻っていく。
誰も。
追えない。
追おうとする力すら。
残っていない。
最後に。
歪者が。
振り返った。
そして。
一番奥の席を。
もう一度だけ見る。
それから。
消えた。
静かだった。
あまりにも。
静かだった。
第八章「敗北」
誰も。
しばらく。
動かなかった。
床には。
倒れたクルー。
壊れた設備。
切れた照明。
散らばった書類。
それでも。
ぱんでむそのものは。
残っている。
秩序ちゃんが。
ゆっくり。
起き上がった。
「……」
端末を見る。
画面が。
割れている。
それでも。
動く。
「被害確認を開始します」
声が。
震えていた。
世達ちゃんが。
壁に手をついて。
立ち上がる。
「……全員」
一度。
息を整える。
「生存確認を」
返事が。
少しずつ。
返ってくる。
好代は。
立っていた。
無傷。
でも。
それが。
一番怖かった。
「……」
歪者は。
自分を。
攻撃しなかった。
誰も。
殺されなかった。
でも。
勝ったわけではない。
守ったわけでもない。
追い払ったわけでもない。
ただ。
通り過ぎられた。
好代は。
一番奥の席を見る。
三つの椅子。
花瓶。
空の包み紙。
そこだけ。
何も壊れていない。
「……」
好代は。
棚を開いた。
さっき感じたものが。
まだ残っている。
「おいしいって言ってほしい」
その言葉だけが。
異様に。
普通だった。
好代は。
それを。
そっとしまった。
第九章「誰も知らない」
夜。
全員が。
少しずつ。
元の場所へ戻っていた。
誰も。
いつものようには。
話さない。
渾沌ちゃんが。
一番奥の席に座った。
何も言わない。
ただ。
花を見る。
「……」
好代が。
隣へ座る。
渾沌ちゃんは。
しばらく黙っていた。
やがて。
小さく言った。
「ねえ、すきよちゃん」
「はい」
「あれ」
「はい」
「バーガー、好きなのかな」
好代は。
少し考えた。
「……たぶん」
「そっか」
渾沌ちゃんが。
花を見る。
「じゃあ」
少し間。
「いつか、一緒に食べられるかな」
好代は。
答えなかった。
まだ。
わからない。
ただ。
あの歪者の中に。
確かに。
普通の感情があった。
それだけは。
わかった。
「……いつか」
好代は。
小さく言った。
「食べられるといいですね」
渾沌ちゃんが。
笑った。
「うん」
その夜。
一番奥の席には。
三つの椅子があった。
そのうち。
一つは。
誰も座っていない。
でも。
もう。
誰も。
それを空席とは呼ばなかった。
そして。
ぱんでむの外縁。
誰もいない場所で。
黒い影が。
一人。
立っていた。
その手には。
何もない。
ただ。
ほんの少し。
焼きたてのパンのにおいがした。




