第56話「待っているもの」
夜明け前。
好代は。
一番奥の席に座っていた。
目の前には。
昨夜の包み紙。
まだ温かい。
中身は。
普通のハンバーガー。
誰が作ったのか。
わからない。
誰が注文したのか。
わからない。
誰が受け取るのかも。
わからない。
ただ。
ここにある。
好代は。
しばらく眺めていた。
そして。
小さく息を吐いた。
「……待っているんですね」
誰もいない向かい側へ。
そう言った。
返事はない。
けれど。
昨日までと違っていた。
空席のにおいが。
こちらを待っている。
そんな感じがする。
好代は。
棚を開いた。
花。
古い木。
温かい飲み物。
焼きたてのパン。
誰かの帰りを待つ家。
それから。
黒いにおい。
焦げた甘さ。
雨。
土。
金属。
遠い場所。
そして。
一つの感情。
帰りたい。
好代は。
目を閉じた。
「……」
その感情を。
すぐには棚へしまわなかった。
少しだけ。
そのまま受け止めた。
第一章「朝になる前」
「好代さん」
声がした。
振り返る。
世達ちゃんだった。
「まだいたんですか」
「はい」
「眠らないんですか?」
「もうすぐ朝なので」
「それは答えになってません」
好代は少し笑った。
「ここを見ていました」
世達ちゃんが。
一番奥の席を見る。
「……またですか」
「はい」
「何か変わりました?」
「少し」
「どんなふうに?」
好代は。
言葉を選んだ。
「待っている感じがします」
「昨日までと同じでは?」
「違います」
「どこが?」
「昨日までは」
好代は空席を見る。
「誰かを待っていました」
「はい」
「今日は」
少し間。
「何かを待っています」
世達ちゃんは。
黙った。
「人じゃない?」
「わかりません」
「物?」
「わかりません」
「じゃあ」
世達ちゃんは。
少し疲れた顔で笑った。
「結局、わからないんですね」
「はい」
「……安心しました」
「え?」
「全部わかってしまったら」
世達ちゃんは。
椅子を引いた。
「私の仕事が増えそうなので」
好代は。
少し笑った。
世達ちゃんも。
ほんの少しだけ笑った。
その時。
一番奥の席に置かれたバーガーが。
ほんの少し。
揺れた。
第二章「食べる人」
朝。
開店した。
客が入る。
注文が入る。
厨房が動く。
渾沌ちゃんが。
バーガーを作る。
「はい、お待たせしました!」
好代が。
トレーを運ぶ。
いつもの仕事。
普通の仕事。
その中で。
昨夜のバーガーだけが。
まだ。
一番奥の席にある。
「……」
好代は。
何度も見てしまう。
渾沌ちゃんが気づいた。
「気になる?」
「はい」
「食べてほしいのかな」
「たぶん」
「じゃあ」
渾沌ちゃんが。
厨房からバーガーを一つ持ってくる。
「もう一個置いちゃおう」
「どうしてですか?」
「二人分あった方が」
渾沌ちゃんは。
少し考える。
「誰か来た時、寂しくないじゃん」
好代は。
その言葉を聞いた。
「……そうですね」
「うん」
渾沌ちゃんは。
一番奥の席へ。
新しいバーガーを置いた。
二つ。
並んだ。
古いバーガーと。
新しいバーガー。
「これでいいね」
「はい」
「誰か来たら、一緒に食べればいい」
渾沌ちゃんが。
厨房へ戻る。
好代は。
二つのバーガーを見る。
棚を開く。
一つ目。
古い。
待っている。
二つ目。
新しい。
今ここで作られた。
二つのにおいが。
少しずつ。
重なっていく。
そして。
その奥から。
一つ。
知らない感情が来た。
羨ましい。
好代の指が止まった。
「……」
それは。
今まで感じたことのない感情だった。
第三章「羨ましい」
好代は。
その感情を追った。
羨ましい。
何が?
二つのバーガー。
誰かと一緒に食べること。
誰かが。
自分のために作ってくれること。
誰かが。
「おいしい」と言ってくれること。
誰かが。
隣に座っていること。
「……」
好代は。
自分の胸に手を当てた。
その感情は。
黒くない。
焦げてもいない。
普通の感情だった。
誰かと一緒に食べたい。
それだけ。
好代は。
そのことに。
少し驚いた。
自分も。
そう思ったことがある。
バーガーを食べたかった。
誰かと。
同じものを。
同じテーブルで。
でも。
普通のハンバーガーは食べられない。
世界線バーガーなら。
食べられる。
そして。
そこから。
記憶や知識や能力を受け取れる。
けれど。
それでも。
普通に。
誰かと一緒に食べることとは。
少し違う。
好代は。
二つのバーガーを見た。
「……」
食べられない。
でも。
受け取りたい。
誰かが込めたものを。
誰かが渡そうとしたものを。
それだけは。
ずっと。
自分の中にある。
好代は。
その感情を。
棚へしまった。
第四章「理性ちゃんの昼」
昼。
理性ちゃんが。
一番奥の席に座っていた。
好代が近づく。
「理性ちゃん」
「なんじゃ」
「ここに座るんですか?」
「たまにはよいじゃろ」
「そうですか」
理性ちゃんは。
二つのバーガーを見る。
「……これは?」
「わかりません」
「またその答えか」
「はい」
理性ちゃんは。
少し笑った。
「お主も大変じゃのう」
「理性ちゃんは何かわかりますか?」
「わからぬ」
即答だった。
好代は。
少し意外だった。
「本当に?」
「わからぬものは、わからぬ」
「でも」
「うむ」
理性ちゃんは。
二つのバーガーを見る。
「一つだけ」
「はい」
「この二つ」
「はい」
「同じものではないのう」
好代は。
頷いた。
「はい」
「味も?」
「違います」
「においも?」
「はい」
「感情も?」
「はい」
理性ちゃんは。
湯呑みを置いた。
「なら」
「はい」
「同じものとして扱う必要はない」
好代は。
少し考えた。
「……二つともバーガーなのに?」
「バーガーであることと」
理性ちゃんは。
指を一本立てる。
「同じものであることは別じゃ」
「……」
「名前が同じでも」
「はい」
「込められているものまで同じとは限らぬ」
好代は。
二つの包み紙を見る。
「じゃあ」
「うむ」
「この二つは」
「それぞれ別のものじゃ」
「誰かにとっての意味も?」
「そうじゃ」
好代は。
その言葉を。
静かに受け取った。
第五章「空席に座る」
午後。
好代は。
一人で一番奥の席に座った。
向かい側。
空席。
二つのバーガー。
でも。
今度は。
自分が座る。
「……」
少しだけ。
変な感じがした。
今まで。
ここに座るのは。
誰かを待っている人だった。
今日は。
自分が。
誰かを待っている。
「誰を待っているんでしょう」
好代は。
自分で言って。
少し笑った。
「私が聞きたいです」
向かい側の椅子。
何もない。
それでも。
棚を開いた。
帰りたい。
羨ましい。
食べてほしい。
受け取ってほしい。
残してほしい。
好きだった。
たくさんの感情が。
重なっている。
好代は。
その全部を。
一つずつ分けた。
「……」
これは。
誰かの願い。
これは。
誰かの記憶。
これは。
誰かの寂しさ。
そして。
これは。
自分の気持ち。
好代は。
最後の一つを。
じっと見た。
食べたい。
昔から。
ずっと。
変わらない。
世界線バーガーでも。
普通のバーガーでも。
誰かと食べるバーガーでも。
まだ食べたことのないバーガーでも。
食べたい。
その感情だけは。
誰かから受け取ったものではない。
自分のものだった。
好代は。
少しだけ。
安心した。
第六章「誰かの願い」
夕方。
好代が。
厨房へ戻ろうとした時。
一番奥の席から。
音がした。
カサ。
紙が擦れる。
振り返る。
二つのバーガー。
一つ。
消えている。
「……」
誰かが食べた。
でも。
誰もいない。
好代は。
空になった包み紙を手に取る。
においを読む。
喜び。
安心。
それから。
一つ。
強い感情。
「ありがとう」
好代は。
その感情を受け取った。
「……どういたしまして」
誰もいない席へ。
そう言った。
その瞬間。
店の外から。
黒いにおいが来た。
昨日より。
近い。
好代は。
顔を上げる。
窓の外。
何もいない。
でも。
今度は。
感情が一つだけ。
はっきりしていた。
帰りたい。
好代の棚が。
大きく開いた。
「……」
その感情は。
空席から来たものではない。
外から。
来ている。
好代は。
それに気づいた。
第七章「帰りたい」
夜。
閉店後。
好代は。
一番奥の席にいた。
空になった包み紙。
花瓶。
一枚の紙。
そして。
新しいバーガー。
一つだけ。
好代は。
それを見つめていた。
「……」
外から。
黒いにおいがする。
近い。
でも。
入ってこない。
好代は。
窓へ近づいた。
暗闇。
何も見えない。
「帰りたいんですか?」
返事はない。
「ここへ?」
沈黙。
「それとも」
好代は。
少し考える。
「別の場所へ?」
風が吹いた。
窓ガラスが。
少し震える。
「……」
好代は。
怖くなかった。
少なくとも。
今は。
攻撃される気配がない。
ただ。
帰りたい。
その感情だけが。
ある。
「帰りたいなら」
好代は。
窓の外へ言った。
「帰れる場所が必要ですよね」
何もない。
「でも」
好代は。
一番奥の席を見る。
「ここが帰る場所なのかは」
少し間。
「まだ、わかりません」
その瞬間。
外の暗闇で。
何かが。
一歩。
動いた。
好代の棚が。
開く。
今度は。
大量の感情が流れ込んできた。
空腹。
寂しさ。
羨望。
喜び。
怒り。
悲しみ。
そして。
「帰りたい」
その奥に。
もう一つ。
とても小さな感情。
好代は。
それを拾った。
「食べてほしい」
好代は。
息を止めた。
二つの感情が。
一本の線で。
繋がったように感じた。
帰りたい。
食べてほしい。
誰かに。
何かを。
届けたい。
そして。
受け取ってほしい。
「……」
好代は。
その意味を。
まだ理解できなかった。
ただ。
一つだけ。
確かなことがある。
外にいる何かは。
ぱんでむを。
ただ壊しに来ているわけではない。
少なくとも。
今は。
そう感じなかった。
その時。
窓ガラスに。
一瞬だけ。
黒い影が映った。
顔は見えない。
でも。
その影は。
一番奥の席を見ていた。
そして。
その視線が。
ゆっくり。
好代へ移った。
好代は。
動かなかった。
影も。
動かなかった。
数秒。
ただ。
見つめ合う。
そして。
影が消える。
窓には。
何も残らない。
けれど。
一番奥の席の上に。
新しい包み紙が。
一枚。
置かれていた。
好代は。
ゆっくり近づいた。
包み紙を開く。
中には。
バーガーが一つ。
普通のバーガー。
でも。
今回は。
違った。
包み紙の内側に。
文字があった。
一文字ずつ。
ゆっくり浮かび上がる。
「一緒に」
好代は。
その二文字を。
しばらく見つめた。
そして。
向かい側の空席を見る。
誰もいない。
それでも。
好代は。
椅子を一つ。
静かに引いた。
「……はい」
誰に向けた返事なのか。
自分でも。
まだ。
わからなかった。




