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第55話「帰ってきたもの」

朝。


好代は一番奥の席にいた。


昨日置いた花は。


まだそこにある。


花瓶の水も。


まだ新しい。


誰も片付けていない。


誰も触っていない。


それなのに。


昨日までとは。


少しだけ違っていた。


椅子が。


二つとも。


きれいにテーブルへ向いている。


好代は。


しばらく眺めた。


「……」


棚を開く。


花。


木。


古い家。


温かい飲み物。


焼きたてのパン。


それから。


あの人のにおい。


まだある。


でも。


昨日より遠い。


「……帰ったんでしょうか」


誰もいない席へ。


そう言った。


返事はなかった。


ただ。


花が。


ほんの少し揺れた。


好代は。


それを見て。


小さく笑った。


「おはようございます」


それから。


厨房へ向かった。


第一章「普通の朝」


「おはよー!」


渾沌ちゃんの声が響く。


「おはようございます」


「今日さ、朝からパン焼きすぎちゃった」


「パンを?」


「うん」


「どうしてですか?」


「いっぱい焼いたら、いっぱい食べられるかなって」


「なるほど」


「でも焼きすぎた」


渾沌ちゃんが。


山になったパンを見る。


「どうしよう」


「お客様に出せばいいんじゃないですか?」


「それだ!」


渾沌ちゃんが笑った。


「すきよちゃん頭いい!」


好代も少し笑った。


いつもの朝。


いつもの会話。


秩序ちゃんが。


「渾沌さん」


「なに?」


「在庫計算をしてから焼いてください」


「はい」


「返事だけは早いですね」


「はい!」


「実行してください」


「はい!」


渾沌ちゃんが。


パンを抱えて走っていく。


好代は。


その背中を見た。


普通。


本当に普通だった。


昨日まで。


一番奥の席に。


誰かが帰ってきた。


外には。


何かがいる。


それでも。


ぱんでむでは。


朝になれば。


パンを焼く。


注文を受ける。


掃除をする。


書類を書く。


訓練する。


歌う。


笑う。


好代は。


その普通さが。


好きだった。


第二章「名前が戻った」


昼前。


秩序ちゃんが。


端末を見ていた。


「……」


好代が近づく。


「どうしましたか?」


「確認してください」


画面を見せられる。


昨日まで。


名前が空欄だった客。


その欄に。


文字が戻っていた。


「あ……」


好代は。


その名前を見た。


昨日。


紙に書かれていた名前。


一番奥の席に。


帰ってきた人。


「戻ったんですか?」


「はい」


「どうして?」


「わかりません」


「誰かが入力した?」


「操作履歴はありません」


「自動的に?」


「違います」


「じゃあ」


好代は。


名前を見た。


「最初から消えていなかった?」


秩序ちゃんは。


少し考えた。


「可能性はあります」


「どういうことですか?」


「名前が消えたのではなく」


秩序ちゃんが。


画面を操作する。


「見えなくなっていただけ」


「……」


「そして」


もう一つ。


画面が切り替わる。


昨日の注文記録。


消えていたはずのもの。


それも。


戻っている。


「……」


好代は。


言葉が出なかった。


注文。


一個。


受取席。


一番奥。


注文者。


あの人の名前。


そして。


受取時刻。


空欄。


「受け取った記録だけ」


秩序ちゃんが言う。


「ありません」


「……」


好代は。


その記録を見つめた。


「帰ってきたけど」


「はい」


「受け取ってはいない」


「はい」


「どうして?」


「わかりません」


好代は。


しばらく黙った。


そして。


一つだけ。


気づいた。


「……もしかしたら」


「何ですか?」


「帰ってきたのは」


好代は。


一番奥の席を見る。


「本人じゃないのかもしれません」


秩序ちゃんの指が止まった。


第三章「残ったもの」


午後。


郷愁ちゃんが。


一番奥の席で花を替えていた。


「昨日の花」


好代が言う。


「うん」


「まだ元気でした」


「そうね」


「どうして替えるんですか?」


「新しい方がいいから」


「でも」


好代は花瓶を見る。


「まだ咲いています」


「咲いてるね」


「だったら」


「この花は」


郷愁ちゃんが。


古い花を一輪だけ取り出した。


「残しておくの」


「枯れてしまいますよ」


「うん」


「それでも?」


「それでも」


郷愁ちゃんは。


小さく笑った。


「帰ってきた時に」


「はい」


「前にあったものが、少しでも残っていたら」


「……」


「ここにいたって、わかるでしょう?」


好代は。


古い花を見る。


少し乾いている。


でも。


まだ。


あの人のにおいがする。


「……郷愁さん」


「なに?」


「帰る場所って」


「うん」


「その人が帰る場所じゃなくて」


「うん」


「その人がいたことを、誰かが覚えている場所でもあるんでしょうか」


郷愁ちゃんは。


少しだけ目を細めた。


「そうかもしれないね」


好代は。


古い花を受け取った。


「じゃあ」


「うん」


「これは捨てなくていいですね」


「もちろん」


郷愁ちゃんは笑った。


「それは、ここにいた証拠だから」


第四章「違うにおい」


夕方。


好代は。


一番奥の席を掃除していた。


テーブル。


椅子。


床。


花瓶。


何度も。


同じ場所を拭く。


すると。


ふと。


違うにおいがした。


「……」


好代の手が止まる。


昨日まで。


この席には。


古い人のにおいがあった。


今は。


もうほとんどない。


代わりに。


別のものがある。


焦げた甘さ。


黒いにおい。


そして。


土。


金属。


雨。


遠い場所。


「……」


好代は。


棚を開いた。


知らない。


今まで。


感じたことのないにおい。


でも。


完全に初めてではない。


第39話で。


あの歪者と対峙した時。


その奥にあった。


あの根。


「……同じ」


好代は呟いた。


けれど。


違う。


第39話の時より。


ずっと薄い。


そして。


今は。


一番奥の席にだけ。


残っている。


「……どうして」


好代が。


席の下を覗く。


何もない。


椅子の裏。


テーブルの脚。


床。


壁。


何もない。


でも。


においだけが。


確かにある。


その時。


背後から。


「好代さん」


世達ちゃんの声。


「はい」


「何をしていますか?」


「少し、においを」


「また何か?」


「はい」


好代は。


正直に言った。


「歪者と同じ根のにおいがします」


世達ちゃんの表情が変わった。


「……ここに?」


「はい」


「近い?」


「わかりません」


好代は。


目を閉じた。


「遠いような」


少し間。


「すごく近いような」


世達ちゃんは。


しばらく黙った。


「秩序ちゃんには?」


「まだ言ってません」


「伝えましょう」


「はい」


世達ちゃんは。


歩き出した。


でも。


数歩進んで。


止まった。


「好代さん」


「はい」


「そのにおい」


「はい」


「昨日までにもありましたか?」


好代は。


少し考えた。


「ありました」


「いつから?」


「……わかりません」


「そうですか」


世達ちゃんは。


一番奥の席を見た。


「なら」


「はい」


「昨日から来たわけじゃないのかもしれませんね」


好代は。


その言葉を聞いた。


「……ずっと、ここにいた?」


「可能性はあります」


二人は。


空席を見た。


花瓶。


二つの椅子。


誰もいない。


なのに。


そこには。


確かに。


何かが残っていた。


第五章「見えない客」


夜。


閉店前。


一人の客が。


一番奥の席へ座った。


若い男性だった。


仕事帰りらしい。


「ハンバーガー一つ」


「かしこまりました」


好代が注文を受ける。


渾沌ちゃんが。


厨房で作る。


普通のバーガー。


普通の注文。


普通の客。


好代は。


少し離れた場所から。


その客を見ていた。


客は。


スマートフォンを見ている。


時々。


窓を見る。


そして。


一口。


バーガーを食べる。


「……」


何も起きない。


二口。


三口。


「うまいな」


渾沌ちゃんが。


厨房から顔を出す。


「でしょ!」


客が笑う。


「はい」


渾沌ちゃんも笑う。


いつもの。


ぱんでむ。


好代も。


少し安心した。


その時。


客が。


向かい側の空席を見る。


「……」


何かに気づいたような顔。


「どうしましたか?」


好代が聞く。


「いや」


客は。


少し笑った。


「なんか、そこに誰かいる気がして」


好代の心臓が。


一度だけ。


強く鳴った。


「誰か?」


「はい」


客は。


向かい側の椅子を見る。


「知り合いだったような」


「……」


「でも」


客は首を傾げる。


「顔が思い出せない」


好代は。


その客のにおいを読んだ。


普通。


仕事。


疲労。


バーガー。


それから。


ほんの少し。


古い記憶。


あの人。


「……」


好代は。


何も言わなかった。


客は。


もう一口食べた。


「おいしい」


その瞬間。


空席の椅子が。


ほんの少し。


動いた。


客は。


笑った。


「やっぱり」


「はい?」


「なんでもないです」


そして。


普通に。


食べ続けた。


第六章「覚えている人」


閉店後。


好代は。


一番奥の席を見ていた。


今日の客は帰った。


何も知らない。


自分が誰かの記憶を少し受け取ったことも。


誰かが向かい側にいたことも。


何も知らない。


でも。


確かに。


笑った。


「おいしい」と言った。


好代は。


そのにおいを棚へしまった。


そして。


気づく。


あの人の記憶が。


少しだけ。


濃くなっている。


「……」


消えるどころか。


逆に。


残っている。


誰かが。


あの人のことを。


ほんの少し。


思い出したから。


好代は。


そのことに。


少し驚いた。


「覚えている人が増えると」


小さく呟く。


「残るんですね」


背後から。


声がした。


「そうかもしれない」


郷愁ちゃんだった。


「……聞いていましたか?」


「うん」


郷愁ちゃんは。


空席を見る。


「記憶って」


「はい」


「一人だけのものじゃないのかもしれないね」


好代は。


黙って聞く。


「誰かが覚えていると」


郷愁ちゃんが。


花瓶を見た。


「その人の時間も、少しだけ続く」


「……」


「帰ってこなくても」


「はい」


「ここにいなくても」


「はい」


「誰かが覚えていたら」


郷愁ちゃんは。


静かに笑った。


「帰る場所は、完全にはなくならないと思う」


好代は。


その言葉を。


棚へしまった。


第七章「外」


その夜。


好代は。


一人で窓の外を見ていた。


ぱんでむの外縁。


暗い。


何もない。


でも。


においはある。


焦げた甘さ。


土。


金属。


雨。


そして。


少しだけ。


人間のにおい。


好代は。


窓へ近づいた。


「……」


黒い影は。


見えない。


ただ。


遠く。


何かがいる。


好代は。


棚を開いた。


すると。


昨日までとは違うものが。


入ってきた。


待っている。


誰かが。


何かを待っている。


それだけ。


攻撃する気配ではない。


近づく気配でもない。


ただ。


待っている。


「……何を?」


好代が呟く。


返事はない。


その時。


窓ガラスに。


一瞬だけ。


何かが映った。


人の形。


黒い。


赤と黄色が。


ほんの少し。


混ざっている。


好代は。


動かなかった。


でも。


その姿は。


第39話で見たものとは。


少し違った。


輪郭が。


曖昧だった。


まるで。


誰かの記憶を。


無理に人の形へしているような。


そんな姿。


一瞬。


影の顔が。


こちらを向いた。


好代の棚が。


勝手に開いた。


流れ込んできた。


焦げた甘さ。


空腹。


寂しさ。


「……」


そして。


一つだけ。


異様なほど。


普通の感情。


「帰りたい」


好代は。


息を止めた。


影が。


消えた。


窓には。


何も残っていない。


ただ。


一番奥の席。


花瓶の花が。


一輪だけ。


こちらを向いていた。


好代は。


その花を見つめた。


「……帰りたい」


その言葉を。


小さく繰り返す。


それが。


誰の感情なのか。


まだ。


わからない。


けれど。


今まで感じていたものとは。


何かが違う。


敵意ではない。


少なくとも。


今は。


好代には。


そう感じられなかった。


その夜。


一番奥の席には。


二つの椅子。


小さな花。


そして。


誰かを待つように。


一つだけ。


新しいバーガーの包み紙が。


置かれていた。


まだ。


温かかった。

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