第54話「帰る場所」
好代は。
一番奥の席に立っていた。
手の中には。
一枚の紙。
そこに書かれた名前を。
もう一度だけ見た。
知らない名前だった。
でも。
名前だけではなかった。
その人が。
そこにいた。
そんな感覚が。
確かにあった。
「……」
好代は目を閉じる。
棚を開いた。
昨日までの記憶が。
一つずつ。
浮かんでくる。
バーガー。
二つの椅子。
誰かを待つ時間。
食べてほしかった気持ち。
返してほしかったもの。
残してほしかったもの。
そして。
最後に。
帰ることができなかった人。
好代は。
ゆっくり目を開けた。
「……あなたは」
空席へ向かって。
小さく言う。
「帰りたかったんでしょうか」
返事はない。
ただ。
窓から。
朝の光が入ってきた。
第一章「名前を呼ぶ」
◆午前八時
ぱんでむは。
まだ開店前だった。
厨房では。
渾沌ちゃんが仕込みをしている。
秩序ちゃんは。
今日の予定を確認している。
世達ちゃんは。
すでに大量の書類を処理していた。
理性ちゃんは。
いつもの場所でお茶を飲んでいる。
好代は。
一番奥の席に座っていた。
昨日の紙を。
テーブルへ置く。
「……」
名前を見る。
その人の名前。
ただそれだけ。
なのに。
口にすると。
少しだけ。
空気が変わる。
好代は。
もう一度。
その名前を呼んだ。
すると。
椅子が。
小さく動いた。
ギッ。
好代は驚かなかった。
「聞こえましたか?」
誰もいない。
それでも。
もう一度。
名前を呼ぶ。
今度は。
何も起きない。
「……」
好代は。
その名前を指でなぞった。
その瞬間。
記憶が来た。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
知らない家。
玄関。
靴を脱ぐ。
「ただいま」
声。
返事。
「おかえり」
好代は目を開いた。
「……」
そこには。
普通の生活があった。
特別ではない。
世界を救うような人生でもない。
ただ。
帰って。
食事をして。
眠って。
また朝になる。
そんな毎日。
そして。
その人は。
その毎日を。
大切にしていた。
好代は。
胸の奥が少し苦しくなった。
「……普通だったんですね」
その言葉だけが。
静かな店内に残った。
第二章「郷愁ちゃん」
「何してるの?」
振り返る。
郷愁ちゃんだった。
「少し、この席を調べています」
「昨日から?」
「はい」
郷愁ちゃんは。
空席を見る。
そして。
何も言わず。
その椅子を引いた。
座る。
「……」
好代は。
郷愁ちゃんのにおいを読む。
花。
古い木。
夕方。
帰り道。
それから。
少しだけ。
懐かしいにおい。
「郷愁さん」
「なに?」
「この席」
「うん」
「帰る場所みたいに感じませんか?」
郷愁ちゃんは。
少し考えた。
「……感じる」
「やっぱり」
「でも」
郷愁ちゃんは。
空席を見る。
「帰る場所って」
「はい」
「誰かが待ってる場所だけじゃないと思う」
「……?」
「自分が帰ってきた時に」
郷愁ちゃんは。
テーブルへ手を置いた。
「変わらず残っている場所」
「……」
「それも帰る場所じゃないかな」
好代は。
その言葉を聞いた。
「変わらず残っている」
「うん」
「誰もいなくても?」
「誰もいなくても」
「誰も覚えていなくても?」
郷愁ちゃんは。
少しだけ黙った。
「それは」
「はい」
「寂しいわね」
好代は。
空席を見る。
「じゃあ」
「うん」
「残してあげたいですか?」
郷愁ちゃんは。
すぐには答えなかった。
やがて。
「……そうね」
小さく。
そう答えた。
第三章「帰ってこなかった人」
昼。
好代は。
郷愁ちゃんと一緒に。
空席を掃除していた。
テーブルを拭く。
椅子を整える。
床を掃く。
いつもの作業。
「郷愁さん」
「なに?」
「この人」
好代は。
紙を見る。
「帰ってこなかったんでしょうか」
「どうしてそう思うの?」
「記憶の最後に」
好代は少し考えた。
「帰る場所があったんです」
「うん」
「でも」
「うん」
「その場所へ帰った記憶だけがありません」
郷愁ちゃんは。
掃除の手を止めた。
「……それは」
「はい」
「帰れなかったのかもしれない」
「はい」
「でも」
郷愁ちゃんは。
首を横に振った。
「帰らなかったのかもしれない」
好代は。
顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「人って」
郷愁ちゃんは。
ゆっくり話した。
「帰れる場所があっても」
「はい」
「帰らないことがあるでしょう」
「……ありますね」
「帰るのが怖い時もある」
「はい」
「帰ったら」
郷愁ちゃんは。
少しだけ目を伏せた。
「何かが変わってしまう時もある」
好代は。
その言葉を聞いた。
その人の記憶を。
もう一度。
棚から取り出す。
家。
玄関。
「ただいま」
「おかえり」
でも。
最後の日。
その声がない。
家は。
ある。
場所もある。
でも。
そこへ帰る人だけが。
いない。
好代は。
それ以上。
読まなかった。
「……」
郷愁ちゃんが。
静かに言った。
「全部見なくてもいいんじゃない?」
「はい」
「その人が帰れなかった理由まで」
「はい」
「知らなくても」
「……そうですね」
好代は。
棚を閉じた。
第四章「残す」
午後。
郷愁ちゃんが。
花瓶を持ってきた。
一番奥の席。
テーブルの中央へ。
小さな花を置く。
「これ」
好代が聞く。
「何ですか?」
「花」
「それは見ればわかります」
郷愁ちゃんが笑った。
「じゃあ、何のため?」
「ここに置いておくの」
「誰のためですか?」
郷愁ちゃんは。
空席を見る。
「帰ってくる人のため」
好代は。
その言葉を聞いた。
「でも」
「うん」
「帰ってこないかもしれません」
「そうね」
「それでも?」
「それでも」
郷愁ちゃんは。
花瓶を少しだけ整えた。
「帰ってきた時に、花がある方がいいでしょう」
好代は。
何も言えなかった。
その瞬間。
空席から。
小さなにおいがした。
花。
古い家。
温かい食事。
そして。
「おかえり」
好代は。
息を止めた。
郷愁ちゃんも。
何かを感じたように。
顔を上げる。
「……今」
「はい」
「誰かいた?」
「……はい」
二人は。
空席を見る。
何もない。
ただ。
椅子の背もたれに。
一瞬だけ。
手の跡が残っていた。
人間の手。
普通の手。
それが。
ゆっくり消えていく。
好代は。
そのにおいを受け取った。
悲しみではない。
怖さでもない。
少しだけ。
安心している。
そんなにおいだった。
第五章「名前のない帰還」
夕方。
秩序ちゃんが。
記録室から出てきた。
「好代さん」
「はい」
「一番奥の席について」
「はい」
「新しい記録があります」
「何ですか?」
秩序ちゃんは。
端末を見せた。
来店記録。
なし。
注文記録。
なし。
支払い。
なし。
なのに。
受取記録だけが。
一件。
表示されている。
「……受け取った?」
好代が聞く。
「はい」
「誰が?」
「空欄です」
「何を?」
「ハンバーガー」
好代は。
少しだけ。
息を止めた。
「いつ?」
「今朝です」
「でも」
「はい」
秩序ちゃんは。
画面を見た。
「今朝、そこには誰も座っていません」
「……」
「ですが、記録上は」
一行。
受取済み。
それだけ。
好代は。
一番奥の席を見る。
花瓶。
小さな花。
二つの椅子。
そして。
空席。
「……」
「好代さん」
「はい」
「何か感じますか?」
好代は。
棚を開いた。
におい。
昨日の人。
古い時間。
そして。
新しいにおい。
誰かが。
帰ってきた。
「……」
好代は。
小さく笑った。
「はい」
「何が?」
「受け取ったみたいです」
秩序ちゃんは。
少しだけ。
画面を見る。
「誰が?」
「わかりません」
「何を?」
好代は。
空席を見る。
「たぶん」
少し考えて。
「自分が残したものを」
秩序ちゃんは。
それ以上。
聞かなかった。
第六章「好きだったもの」
夜。
閉店前。
好代は。
一番奥の席に座っていた。
目の前には。
普通のバーガー。
注文したものではない。
ただ。
そこに置いてある。
好代は。
食べられない。
だから。
誰かに食べてもらうために。
置いている。
渾沌ちゃんが来た。
「これ、食べていい?」
「はい」
渾沌ちゃんが座る。
包み紙を開く。
一口。
「……おいしい」
二口。
「やっぱりおいしい」
好代は。
そのにおいを読む。
普通のバーガー。
渾沌ちゃんの喜び。
それから。
空席の奥。
古い人の記憶。
その人が好きだったもの。
バーガー。
温かい飲み物。
小さな花。
夕方の帰り道。
そして。
家。
「……」
好代は。
その全部を。
棚へしまう。
渾沌ちゃんが聞く。
「どうしたの?」
「その人」
「うん」
「バーガーが好きだったみたいです」
渾沌ちゃんは。
笑った。
「じゃあ、いい人だね」
「どうしてですか?」
「バーガー好きなんだから」
「……」
好代は。
少し笑った。
「そうですね」
渾沌ちゃんが。
また一口食べる。
「おいしい」
その言葉に。
空席から。
小さな気配が返ってきた。
好代には。
それが。
笑ったように感じられた。
第七章「帰ってきた」
閉店後。
好代は。
最後に一番奥の席を確認した。
花瓶。
花。
テーブル。
椅子。
何もない。
でも。
今までと違う。
空席のにおいが。
少しだけ。
温かい。
好代は。
紙を取り出した。
そこには。
あの人の名前。
好代は。
その名前を。
ゆっくり呼んだ。
すると。
窓の外から。
風が入った。
花が揺れる。
一枚の花びらが。
テーブルの上へ落ちる。
そして。
誰もいない椅子が。
ゆっくり。
元の位置へ戻った。
好代は。
それを見ていた。
「……」
何も起きない。
それでも。
わかった。
この人は。
ここに残ったのではない。
ここへ。
帰ってきた。
ほんの一瞬。
それだけでも。
十分だった。
好代は。
小さく言った。
「おかえりなさい」
返事はない。
でも。
空席から。
一つだけ。
においが返ってきた。
花。
温かい飲み物。
焼きたてのパン。
そして。
誰かと一緒に食べた。
普通のバーガー。
好代は。
目を閉じた。
「……」
その奥に。
黒いにおいが。
ほんの少しだけ。
混ざっている。
まだ。
消えてはいない。
むしろ。
遠くから。
何かが。
この場所を見つめている。
好代は。
その気配を感じた。
でも。
今日は。
振り返らなかった。
空席に残ったものを。
守るように。
ただ。
その名前を。
もう一度だけ。
心の中で呼んだ。
そして。
ぱんでむの外。
暗闇の向こう。
黒い影が。
初めて。
一歩だけ。
前へ進んだ。




