第53話「残してほしい」
朝。
好代は目を覚ました。
いつもの朝だった。
布団。
部屋。
廊下から聞こえる足音。
厨房から漂ってくる、まだ少し遠いバーガーのにおい。
好代は起き上がった。
そして。
昨夜のことを思い出した。
黒い包み紙。
その中にあった。
「残してほしい」という感情。
好代はしばらく黙っていた。
棚を開く。
昨日受け取ったものを確認する。
秩序ちゃんの言葉。
世達ちゃんの言葉。
空席に残った記憶。
そして。
黒い包み紙。
「……」
黒い包み紙は。
まだそこにあった。
昨日より。
少しだけ薄い。
好代は触れなかった。
ただ。
においだけを読む。
焦げた甘さ。
古い紙。
時間。
それから。
ほんの少し。
寂しさ。
「……」
好代は包み紙を閉じた。
まだ。
これは自分のものではない。
そう思った。
第一章「朝の注文」
フロアに出る。
渾沌ちゃんが厨房から顔を出した。
「おはよー、すきよちゃん」
「おはようございます」
「昨日のやつ、どうなった?」
「昨日の?」
「ほら、バーガー」
「ああ」
好代は少し考えた。
「食べてもらいました」
「誰に?」
「……わかりません」
「そっか」
渾沌ちゃんはそれ以上聞かなかった。
「今日も忙しくなりそうだよ」
「そうですか?」
「朝から注文多い」
「頑張ります」
「うん」
二人で厨房を見る。
いつもの厨房。
いつもの仕事。
その時。
注文端末が鳴った。
ピッ。
秩序ちゃんが画面を見る。
「……」
「どうしました?」
好代が聞く。
秩序ちゃんは。
しばらく画面を見ていた。
「新しい注文です」
「普通ですか?」
「普通ではありません」
「また?」
「はい」
注文欄。
商品。
ハンバーガー。
数量。
一。
受取席。
一番奥。
好代は。
一番奥の席を見る。
誰もいない。
「注文者は?」
「空欄です」
「受取人は?」
「空欄です」
「備考は?」
秩序ちゃんが画面を確認する。
「ありません」
「昨日とは違いますね」
「はい」
好代は少し安心した。
でも。
秩序ちゃんが続ける。
「一つだけ」
「何ですか?」
「この注文」
秩序ちゃんは画面を見たまま言った。
「昨日の注文と、同じ注文番号です」
好代の表情が変わった。
第二章「同じ注文」
「同じ?」
好代が画面を見る。
注文番号。
昨日と同じ。
それなのに。
時刻だけが今日になっている。
「昨日の注文は消えたんですよね」
「はい」
「なら、どうして同じ番号が?」
「わかりません」
秩序ちゃんが端末を操作する。
「注文履歴には、昨日の記録はありません」
「でも番号は同じ」
「はい」
「変ですね」
「非常に」
世達ちゃんが来た。
「何かありましたか」
秩序ちゃんが説明する。
世達ちゃんは画面を見た。
「……またですか」
「はい」
「昨日のものと同じ?」
「注文番号だけ」
世達ちゃんは少し考えた。
「それなら、昨日の注文が消えたんじゃなくて」
「はい?」
「次の注文に、同じ番号が割り当てられた可能性は?」
秩序ちゃんが確認する。
「通常のシステムではありえません」
「通常ではない」
「はい」
世達ちゃんはため息をついた。
「そうでしょうね」
好代は。
二人の会話を聞いていた。
そして。
ふと。
一番奥の席を見る。
何もない。
でも。
においがする。
昨日までのものとは違う。
焦げた甘さ。
その奥に。
紙。
そして。
何かを待つ気配。
「……」
好代は目を閉じた。
棚を開く。
一つの言葉。
残してほしい。
もう一度。
感じた。
でも。
今回は。
それだけではなかった。
その奥に。
小さな感情がある。
忘れないで。
好代は目を開いた。
第三章「忘れないために」
昼。
好代は秩序ちゃんの記録室にいた。
机の上には。
一番奥の席についての資料が積まれている。
「これだけあるんですね」
「はい」
「全部、残すんですか?」
「可能な限り」
秩序ちゃんが答える。
好代は古い記録を見る。
椅子。
注文。
客。
空席。
名前のない人。
名前のない注文。
名前のない声。
どれも。
完全には繋がっていない。
でも。
一つだけ。
共通している。
「秩序さん」
「はい」
「この人たちは」
「はい」
「忘れられるのが嫌なんでしょうか」
秩序ちゃんは手を止めた。
「……わかりません」
「でも、残してほしいって」
「はい」
「忘れないで、って」
「はい」
秩序ちゃんは。
しばらく画面を見つめた。
「好代さん」
「はい」
「もし、忘れられたくないなら」
「はい」
「記録に残すというのは、一つの方法だと思います」
「でも」
好代は言った。
「記録が残っても」
「はい」
「誰も見なかったら?」
秩序ちゃんが黙った。
「誰も覚えていなかったら?」
さらに。
「それでも、残したことになるんでしょうか」
秩序ちゃんは。
すぐには答えなかった。
やがて。
「……」
小さく息を吐く。
「それでも」
「はい」
「残したことにはなると思います」
「どうして?」
秩序ちゃんは。
紙を一枚。
丁寧に揃えた。
「残すという行為をした人がいたからです」
好代は。
その答えを聞いた。
それは。
少しだけ。
強い言葉だった。
第四章「渾沌ちゃんの好き」
午後。
渾沌ちゃんが厨房でバーガーを作っていた。
「はい、できた」
「ありがとうございます」
好代が受け取る。
客へ運ぶ。
戻る。
また作る。
渾沌ちゃんは。
ずっと楽しそうだった。
「渾沌さん」
「なに?」
「聞きたいことがあります」
「うん」
「好きなものって」
「バーガー」
即答。
「ですよね」
「うん」
「どうして好きなんですか?」
渾沌ちゃんが。
少しだけ考えた。
「おいしいから」
「それだけですか?」
「うん」
少し間。
「……あと」
渾沌ちゃんは焼いている肉を見る。
「おいしいって言うと」
「はい」
「誰かが笑うから」
好代は。
黙った。
「誰かが『わかる』って言ってくれると嬉しい」
「はい」
「『これはこういう味だよね』って」
渾沌ちゃんが笑う。
「そういうの好き」
好代は。
第52話で感じたものを思い出した。
誰かが。
バーガーを食べてもらったことを。
嬉しいと思っていた。
「……渾沌さん」
「なに?」
「もし」
「うん」
「誰かに食べてもらえなかったら」
渾沌ちゃんの手が止まった。
「……嫌だな」
「どうして?」
「だって」
渾沌ちゃんは。
少しだけ困った顔をした。
「作ったのに」
「はい」
「誰にも食べてもらえなかったら」
「はい」
「……寂しいじゃん」
好代は。
その言葉を聞いた。
とても普通のことだった。
だからこそ。
胸に残った。
「ありがとうございます」
「何が?」
「教えてくれて」
「変なの」
渾沌ちゃんは笑った。
そして。
またバーガーを作り始めた。
第五章「一番奥の席へ」
夕方。
注文されたバーガーが完成した。
注文番号は。
昨日と同じ。
好代がトレーを持つ。
一番奥の席へ向かう。
そこには。
誰もいない。
好代はバーガーを置いた。
「お待たせしました」
返事はない。
「ご注文の品です」
静か。
好代は椅子を一つ引いた。
座る。
向かい側。
空席。
「……」
しばらく待つ。
何も起きない。
五分。
十分。
十五分。
バーガーから。
湯気が消えていく。
好代は。
少しだけ悲しくなった。
「……」
誰も来ない。
誰も受け取らない。
でも。
注文だけは。
確かに存在した。
好代は。
バーガーを見る。
「あなたは」
誰に向けるでもなく。
「これを食べてほしかったんですか?」
返事はない。
「それとも」
少し考える。
「誰かに、渡したかった?」
沈黙。
「……」
好代は。
バーガーの包み紙を見た。
その時。
向かい側の椅子が。
ほんの少し。
動いた。
ギッ。
好代は顔を上げた。
「……」
椅子は。
誰も座っていない。
でも。
少しだけ。
後ろへ引かれている。
誰かが座る準備をしたように。
好代は。
バーガーを向かい側へ滑らせた。
「どうぞ」
椅子は。
動かなかった。
「……」
しばらくして。
バーガーの湯気が。
一度だけ。
揺れた。
それから。
ほんの少し。
バーガーの位置が変わった。
数センチ。
誰かが。
受け取ったように。
好代は。
笑った。
「よかった」
その瞬間。
棚が開いた。
黒いにおい。
でも。
今日は。
怖くなかった。
そのにおいの奥に。
昨日までより強い。
喜び。
誰かが。
食べている。
それだけ。
それだけのことが。
とても嬉しい。
そんな感情だった。
第六章「だから、怖い」
夜。
好代は一人で廊下を歩いていた。
黒いにおいは。
まだ残っている。
でも。
今日は。
少し違う。
喜びがある。
食べてほしい。
受け取ってほしい。
届けたい。
そんな気持ち。
それ自体は。
悪いものではない。
むしろ。
渾沌ちゃんと同じ。
世頼ちゃんとも。
少し似ている。
誰かへ届ける。
誰かと共有する。
誰かに受け取ってもらう。
普通の願い。
なのに。
その奥に。
あの黒いにおいがある。
「……」
好代は立ち止まった。
「どうして」
誰もいない廊下へ。
小さく呟く。
「こんなに普通なのに」
返事はない。
その時。
廊下の先から。
理性ちゃんが歩いてきた。
「好代よ」
「理性ちゃん」
「こんなところで何をしておる」
「少し考えていました」
「何をじゃ?」
「歪者のことです」
理性ちゃんは。
少しだけ目を細めた。
「……そうか」
「第39話で会った歪者も」
好代は続ける。
「根っこには、何か普通のものがあったような気がします」
理性ちゃんは。
すぐに答えなかった。
「そうかもしれぬ」
「でも」
「うむ」
「普通のものが、どうしてあんなに怖くなるんでしょう」
理性ちゃんは。
湯呑みを持ち直した。
「願いは」
「はい」
「大きければ大きいほど良い、とは限らぬ」
好代は。
黙って聞く。
「食べてほしい」
「はい」
「好きになってほしい」
「はい」
「忘れないでほしい」
「はい」
理性ちゃんは。
静かに言った。
「どれも、悪い願いではない」
「はい」
「じゃが」
少し間。
「それを叶えるために、相手の気持ちまで決めてしまったら」
好代は。
息を止めた。
「……」
「それはもう、自分の願いだけではなくなる」
「相手の自由まで、巻き込む」
「はい」
理性ちゃんは。
いつものように。
少しだけ年寄りじみた口調で続けた。
「だから怖いのじゃ」
「願いそのものではなく」
「うむ」
「願いが、誰かのものまで飲み込んだ時に」
「……そうじゃな」
好代は。
一番奥の席を思い出した。
「受け取って」
「返して」
「残してほしい」
「忘れないで」
全部。
誰かの願い。
でも。
まだ。
誰のものなのか。
わからない。
第七章「黒い包み紙」
深夜。
好代は自室へ戻った。
ベッドの端に座る。
棚を開く。
黒い包み紙。
昨日と同じ。
ただ。
今日は。
少しだけ違った。
包み紙の表面に。
小さな文字が浮かんでいる。
好代は。
近づいて見る。
一文字。
また一文字。
「すき」
好代の手が止まった。
「……」
次の文字が浮かぶ。
「だった」
好代は。
息を止めた。
「好きだった」
それだけ。
誰が。
何を。
いつ。
好きだったのか。
何もない。
ただ。
その言葉だけ。
好代は包み紙に触れた。
記憶が。
一瞬だけ流れ込む。
笑顔。
バーガー。
誰かと並んで座る二つの椅子。
普通の時間。
普通の幸せ。
そして。
最後に。
一人になる。
好代は目を開いた。
黒いにおい。
でも。
その奥には。
まだ。
普通の人の感情があった。
好きだった。
食べてほしかった。
一緒にいたかった。
それだけだった。
好代は。
包み紙を閉じた。
「……」
その瞬間。
部屋の外から。
カラン。
小さな音がした。
ドアベル。
こんな夜中に。
誰も来ない。
好代は立ち上がる。
廊下へ出る。
ぱんでむは暗い。
誰もいない。
一番奥の席へ向かう。
そこに。
一枚の紙が置かれていた。
好代は拾う。
紙には。
名前が書かれていた。
昨日まで。
誰にも見つけられなかった。
名前。
でも。
その名前を読んだ瞬間。
好代の棚が。
大きく開いた。
「……」
名前の意味。
その人の記憶。
その人が好きだったもの。
その人が待っていた理由。
全部。
一気に。
押し寄せる。
好代は。
紙を握りしめた。
そして。
その名前を。
声に出した。
「……」
その瞬間。
一番奥の席。
誰もいないはずの椅子に。
一瞬だけ。
人が座っている姿が見えた。
普通の人。
普通の服。
普通の顔。
その人は。
好代を見た。
笑った。
そして。
口を動かした。
声は。
聞こえなかった。
でも。
好代には。
意味だけがわかった。
「覚えていて」
人影が消えた。
紙だけが。
好代の手に残った。
そして。
遠く。
ぱんでむの外縁。
黒いにおいが。
初めて。
はっきりと動いた。
こちらへ向かっている。
好代は。
紙を胸に抱いた。
今度は。
逃げなかった。
ただ。
その名前を。
もう一度。
小さく呼んだ。




