第52話「残すもの」
朝。
好代がフロアへ出ると。
一番奥の席に、秩序ちゃんが座っていた。
珍しい。
普段なら、秩序ちゃんはカウンターかバックヤードにいる。
そこに座って。
一枚の紙を読んでいる。
「……秩序さん」
「おはようございます」
「おはようございます」
好代は向かい側の椅子を見た。
空席。
秩序ちゃんはそこを見なかった。
「何をしているんですか?」
「記録しています」
「何を?」
「この席です」
好代は少し驚いた。
「席を?」
「はい」
秩序ちゃんは紙をめくった。
「この席で確認された異常現象を、すべて時系列に並べています」
「そんなにありましたか?」
「昨日までの記録だけで、四十七件」
「……四十七」
「同一現象として扱うには多すぎます」
「どんなものが?」
秩序ちゃんが読み上げる。
「椅子の移動」
「はい」
「注文履歴の発生」
「はい」
「注文履歴の消失」
「はい」
「包み紙の出現」
「はい」
「音声記録に残らない発声」
「はい」
「存在しない人物の記憶」
「はい」
「そして」
秩序ちゃんが紙を見る。
「バーガーを食べた人物の記憶に、本人が経験していない記憶が混入した件」
好代は黙った。
「……多いですね」
「はい」
秩序ちゃんは紙を揃えた。
「ですから」
少しだけ。
声が強くなる。
「記録しておきます」
好代は。
秩序ちゃんを見た。
「何のために?」
秩序ちゃんは答えなかった。
しばらくして。
「消えないようにするためです」
そう言った。
第一章「記録できない」
午前。
秩序ちゃんは記録作業を続けていた。
好代も隣にいる。
端末には。
一番奥の席。
そこに関するデータが並んでいる。
「この記録は残っています」
秩序ちゃんが言う。
「はい」
「これは残っていません」
「どうしてですか?」
「わかりません」
「昨日まであったのに?」
「はい」
画面を切り替える。
一つの注文記録。
存在している。
その下。
同じ時刻の注文記録。
空白。
「何かが」
秩序ちゃんが言った。
「記録を選んでいます」
好代が画面を見る。
「選んで?」
「全部消すわけではありません」
「はい」
「残すものと、消すものがある」
「……誰かが選んでいるんですか?」
「それもわかりません」
好代は棚を開いた。
においを読む。
紙。
電子。
時間。
それから。
昨日まで残っていた記憶。
でも。
今日は。
その記憶の一部が。
薄くなっている。
「……」
「何かわかりましたか?」
「記録が消えるのと」
好代は少し考えた。
「記憶が消えるのは、同じじゃないです」
「はい」
「記録は消えているのに」
好代は自分の胸へ手を当てた。
「私の中には残っています」
秩序ちゃんが止まった。
「……そうですか」
「はい」
「なら」
秩序ちゃんは端末へ何かを書き込んだ。
「ここに記録します」
「何を?」
「好代さんが覚えていることを」
好代は少し笑った。
「それなら、消えませんね」
「はい」
秩序ちゃんは即答した。
「少なくとも、私が残せる限りは」
第二章「消えた名前」
昼。
世達ちゃんが走ってきた。
「秩序さん」
「はい」
「昨日の客についてですが」
「昨日の女性ですか?」
「はい」
世達ちゃんが端末を見せる。
「名前が消えました」
好代の顔が変わる。
「……え?」
「来店記録そのものはあります」
「はい」
「注文も残っています」
「はい」
「支払いもあります」
「はい」
「でも」
世達ちゃんが画面を指差した。
「名前だけが空欄になっています」
好代は画面を見る。
確かに。
名前だけ。
そこだけが。
最初から存在しなかったように空白になっている。
「昨日は?」
「ありました」
「覚えていますか?」
「はい」
世達ちゃんは答えた。
「私も覚えています」
好代も頷く。
「私も」
「なら」
秩序ちゃんが言った。
「名前は消えても、本人の存在までは消えていない」
「でも」
世達ちゃんが画面を見る。
「名前がないと、追跡できません」
好代は。
昨日の女性の顔を思い出す。
普通の人。
一人で来店して。
ハンバーガーを食べて。
帰った。
ただそれだけ。
なのに。
その人の名前だけが。
なくなっている。
「……名前って」
好代が言った。
「その人そのものじゃないんですか?」
秩序ちゃんが答える。
「違います」
「じゃあ何ですか?」
「その人を、他のものと区別するためのものです」
「区別する」
「はい」
「名前がなくても、その人はその人?」
「そうです」
好代は。
少しだけ安心した。
「じゃあ、覚えていれば」
「はい」
「その人は、まだいる」
秩序ちゃんは。
少しだけ目を伏せた。
「……そう思います」
第三章「記録する人」
午後。
秩序ちゃんは。
一番奥の席に座っていた。
今度は好代も向かい側に座る。
「どうして、そこまで記録するんですか?」
好代が聞いた。
「必要だからです」
「それだけ?」
秩序ちゃんが黙る。
「……好代さん」
「はい」
「記録というものは」
秩序ちゃんは机の上の紙を見る。
「何かがあったことを証明するためにあります」
「はい」
「でも」
少し間。
「私は、それだけではないと思っています」
「何が違うんですか?」
「記録が残っていれば」
秩序ちゃんは空席を見る。
「そこにあったものを、なかったことにされにくい」
好代は黙った。
「誰かが忘れても」
秩序ちゃんが続ける。
「誰かが否定しても」
「はい」
「記録が残っていれば」
「はい」
「少なくとも、一度は存在したと言える」
好代は。
その言葉を聞いた。
「秩序さんは」
「はい」
「消えるのが嫌なんですか?」
秩序ちゃんの指が。
紙の端をなぞった。
「……」
長い沈黙。
「嫌いです」
初めて。
そんな答えを聞いた気がした。
「消えることが?」
「はい」
「どうして?」
「残したいからです」
「何を?」
秩序ちゃんは。
答えなかった。
ただ。
一番奥の席を見た。
「……そこにあったものを」
第四章「空席の記録」
夕方。
好代は秩序ちゃんの記録作業を手伝っていた。
紙。
写真。
注文履歴。
監視映像。
音声。
世界線接続履歴。
全部。
一番奥の席について記録していく。
「これは?」
好代が聞く。
「椅子が三センチ動いた記録です」
「これは?」
「注文履歴が発生した記録」
「これは?」
「音声記録には残らなかった声を、私たち三人が聞いたという証言」
「これは?」
「昨日の女性の記憶」
好代は少し黙った。
「……その人の名前は?」
「ありません」
「名前を調べられないんですか?」
「できません」
「じゃあ」
好代は考えた。
「名前の代わりに」
紙へ。
何かを書く。
秩序ちゃんが見る。
そこには。
「昨日、一番奥の席でハンバーガーを食べた人」
と書いてあった。
秩序ちゃんは。
しばらくそれを見ていた。
「……これなら」
「はい」
「残せますね」
「はい」
「名前がなくても」
「はい」
秩序ちゃんが。
その紙をファイルへ入れた。
「記録します」
好代は笑った。
その時。
端末が鳴った。
ピッ。
新しい記録。
二人が見る。
一番奥の席。
来店記録。
注文。
ハンバーガー。
一個。
注文者。
空欄。
受取人。
空欄。
そして。
備考欄。
「まだ返していない」
好代の笑顔が消えた。
秩序ちゃんも。
画面を見つめる。
「……誰が入力したんでしょう」
「わかりません」
「自動生成?」
「違います」
「なら」
秩序ちゃんが記録を確認する。
「入力元がありません」
好代は。
黒いにおいを感じた。
昨日より近い。
でも。
今度は。
その奥に。
別のにおいがある。
紙。
古い記録。
そして。
誰かが必死に。
何かを残そうとしているにおい。
「……」
好代は。
一つのことに気づいた。
「これ」
「はい」
「返してほしい人と」
好代は画面を見る。
「残したい人は」
少し間。
「同じじゃないのかもしれません」
秩序ちゃんが顔を上げた。
第五章「残す理由」
夜。
秩序ちゃんは。
まだ仕事をしていた。
好代が隣に座る。
「帰らないんですか?」
「もう少しだけ」
「記録?」
「はい」
「何を?」
秩序ちゃんは画面を見た。
「昨日の女性の記憶」
「まだ?」
「はい」
「もう十分残ってると思います」
「……」
秩序ちゃんは。
少しだけ迷った。
「好代さん」
「はい」
「もし」
「はい」
「記録を残しても」
「はい」
「その人が二度と戻ってこなかったら」
好代は考えた。
「それでも」
「はい」
「残したいです」
秩序ちゃんの表情が。
ほんの少し変わった。
「どうして?」
好代は。
空席を見る。
「その人がいたからです」
「……」
「戻ってくるかどうかとは、別だと思います」
秩序ちゃんは。
何も言わなかった。
好代は続ける。
「帰ってこないなら」
「はい」
「帰ってこなかった人として、残せばいい」
「……」
「消す必要はないです」
秩序ちゃんが。
ゆっくり頷いた。
「そうですね」
その声は。
いつもの事務的な声より。
少しだけ柔らかかった。
第六章「記録されなかったもの」
閉店後。
二人は一番奥の席へ向かった。
机の上。
何もない。
好代は椅子に触れる。
棚を開く。
「……」
何もない。
昨日まであった。
古い客。
二つのバーガー。
待っていた人。
返して。
受け取って。
全部。
少しずつ。
薄くなっている。
「消えていきます」
好代が言った。
秩序ちゃんは答えなかった。
「このままだと」
「はい」
「全部なくなる」
「はい」
秩序ちゃんは。
一枚の紙を取り出した。
そこには。
今日までの記録がある。
「なら」
秩序ちゃんは言った。
「残します」
「はい」
「覚えている人がいる限り」
「はい」
「記録できる限り」
「はい」
「なかったことにはしません」
その瞬間。
店内の時計が。
カチ。
一秒だけ。
止まった。
好代が顔を上げる。
秩序ちゃんも。
動かない。
そして。
空席の向かい側。
誰も座っていない椅子が。
ゆっくり。
引かれた。
ギッ。
好代は。
においを読んだ。
昨日の女性ではない。
古い客でもない。
黒いにおいでもない。
もっと新しい。
そして。
妙に近い。
好代の胸の奥に。
一つの感情が入ってくる。
安心。
好代は目を見開いた。
「……」
秩序ちゃんが聞く。
「何か?」
好代は。
空席を見た。
「今」
「はい」
「誰かが」
少しだけ笑う。
「残ったって、安心したみたいです」
秩序ちゃんは。
空席を見る。
何もいない。
それでも。
静かに。
一枚の紙を。
その席の上へ置いた。
そこには。
今日までに確認されたことが書かれている。
名前のない客。
名前のない注文。
名前のない声。
名前のない記憶。
そして最後に。
一行だけ。
「存在したことを確認した」
紙は。
しばらくそこにあった。
消えなかった。
第七章「一つだけ違う」
その夜。
好代が部屋へ戻る前。
廊下で。
理性ちゃんに会った。
「まだ起きておったのか」
「はい」
「何をしておった?」
「記録を残していました」
理性ちゃんは。
少し笑った。
「秩序らしいのう」
「はい」
「うまくいったか?」
「少しだけ」
「そうか」
理性ちゃんは湯呑みを持っていた。
「じゃが」
「はい」
「記録を残すことと」
少し間。
「記録に縋ることは違うぞ」
好代は。
理性ちゃんを見る。
「どういう意味ですか?」
「残したものが真実そのものとは限らぬ」
「……」
「記録は、残ったものじゃ」
「はい」
「残らなかったものが存在しなかった、という意味ではない」
好代は。
その言葉を聞いた。
「じゃあ」
「うむ」
「記録できないものも」
「あるじゃろうな」
「それでも残す?」
理性ちゃんは笑った。
「残せるものは残せばよい」
そして。
「残せぬものは、覚えておけばよい」
好代は。
小さく頷いた。
「はい」
理性ちゃんが歩いていく。
「では、もう寝るのじゃ」
「おやすみなさい」
「おやすみじゃよ」
一人になった好代は。
少しだけ。
自分の棚を開いた。
今日受け取ったもの。
秩序ちゃんの言葉。
世達ちゃんの言葉。
空席の記憶。
そして。
安心した誰かの感情。
全部。
自分の中にある。
でも。
自分のものではない。
好代は。
一つずつ。
丁寧にしまった。
その時。
棚の一番奥。
今まで見えなかった場所に。
小さな。
黒い包み紙があった。
触れていない。
食べていない。
なのに。
そこには。
確かに。
一つの記憶が入っていた。
好代は開かなかった。
ただ。
その包み紙から。
ほんの少し。
焦げた甘いにおいがした。
そして。
そのにおいの中に。
今までとは違うものが混ざっていた。
「残してほしい」
好代は。
包み紙を閉じた。
まだ。
誰のものなのか。
わからなかった。




