第51話「それは誰のもの」
朝。
好代は厨房の調理台を見ていた。
昨夜まで、そこには二つのバーガーがあった。
一つは温かかった。
一つは冷たかった。
今は。
どちらもない。
包み紙すら残っていない。
ただ。
調理台だけが残っている。
いつもの調理台。
いつもの厨房。
いつもの朝。
「……」
好代は棚を開いた。
においを確認する。
パン。
肉。
野菜。
ソース。
昨日の夜。
一番奥の席。
それから。
黒いにおい。
「……」
黒いにおいは。
少し遠くなっていた。
完全に消えたわけではない。
でも。
昨日までのように、すぐそばにはいない。
好代は少し安心した。
「何見てるの?」
渾沌ちゃんが来た。
「昨日のバーガーです」
「もうないよ?」
「はい」
「食べたの?」
「……私ではありません」
「じゃあ誰?」
「わかりません」
渾沌ちゃんは首を傾げた。
「変なの」
「はい」
「でも」
渾沌ちゃんが厨房を見回す。
「普通の朝だね」
好代も見回した。
確かに。
普通だった。
秩序ちゃんが注文表を持って歩いている。
世達ちゃんが書類を抱えている。
理性ちゃんが湯呑みを持っている。
摩天ちゃんは訓練場へ向かっている。
世頼ちゃんは礼拝室へ向かっている。
昨日のことなど。
何もなかったように。
ぱんでむは朝を迎えている。
好代は。
それが少しだけ嬉しかった。
第一章「消えた注文」
午前。
秩序ちゃんが端末を確認していた。
「……ありません」
「何がですか?」
好代が聞く。
「昨夜の注文です」
「二つのバーガー?」
「はい」
「記録から?」
「消えています」
好代は端末を見る。
確かに。
注文履歴がない。
昨日まで残っていた。
六十一日前の注文。
現在時刻に発生した注文。
どちらも。
存在しない。
「でも」
好代は言った。
「実際にありました」
「はい」
「食べた人もいます」
「はい」
「それなのに、記録だけがない」
秩序ちゃんは少し考えた。
「……記録が消えたのではないかもしれません」
「え?」
「最初から、記録されるべきものではなかった」
「どういう意味ですか?」
「わかりません」
秩序ちゃんは珍しく。
すぐに答えを出さなかった。
「私の管轄では、記録は残るのが普通です」
「はい」
「残らないなら、何かが記録そのものを拒んでいる」
好代は考えた。
「記録されることを嫌がっている?」
「可能性はあります」
「誰が?」
「そこまでは」
秩序ちゃんが端末を閉じた。
「まだわかりません」
好代は。
少しだけ。
安心した。
わからない。
その言葉が。
今は正しい気がした。
第二章「理性ちゃんの答え」
昼。
食堂。
好代は理性ちゃんの向かいに座っていた。
理性ちゃんは湯呑みを持っている。
「……ということなんです」
好代が話し終える。
理性ちゃんはしばらく黙っていた。
「ふむ」
「どう思いますか?」
「難しいのう」
「理性ちゃんでも?」
「わらわを何だと思っておる」
「何でもわかる人」
「そんな便利なものではないのじゃ」
理性ちゃんは湯呑みを置いた。
「じゃが」
「はい」
「一つだけ、妙なところがある」
「どこですか?」
「『返して』という言葉じゃ」
好代は黙った。
「はい」
「普通、何かを返してほしいなら」
理性ちゃんは指を一本立てた。
「まず、自分が何を持っていたかを知っておる」
「……はい」
「そして、誰に渡したかも知っておる」
「そうですね」
「じゃが、今回のものは違う」
「はい」
「誰が渡したのかもわからぬ」
「はい」
「誰が受け取ったのかもわからぬ」
「はい」
「何を返してほしいのかもわからぬ」
好代は。
黙っていた。
理性ちゃんが少し首を傾ける。
「それなのに、『返して』だけは残っておる」
「……」
「これは妙じゃ」
「どういうことですか?」
理性ちゃんは少し考えた。
「言葉だけが、目的を失って残っておるように見える」
「目的を失って?」
「うむ」
「じゃあ」
好代は考えた。
「誰かが返してほしかったことだけは残っている?」
「その可能性はある」
「でも、何を返してほしいかは消えた」
「そうじゃ」
「どうして?」
理性ちゃんは首を振った。
「そこまでは、わからぬ」
少し間。
「じゃが」
理性ちゃんは好代を見る。
「お主が考えすぎている可能性もあるぞ」
「え?」
「何でも意味があると思うと、何でも意味があるように見える」
「……」
「それもまた、怖いことじゃ」
好代は少し笑った。
「理性ちゃんらしいですね」
「そうじゃろ」
理性ちゃんは湯呑みを持ち上げた。
「だからこそ、わからぬものは、わからぬまま置いておくのも大事じゃ」
好代は頷いた。
「はい」
その言葉を。
好代は覚えておくことにした。
第三章「一番奥の席」
午後。
一番奥の席には。
誰も座っていなかった。
好代は掃除をしていた。
テーブルを拭く。
椅子を戻す。
床を掃く。
いつもの仕事。
昨日まで。
この席には。
たくさんの記憶があった。
知らない人。
バーガー。
待つ時間。
帰れなかった時間。
誰かに渡したもの。
そして。
返してほしいもの。
今日は。
何もない。
好代は椅子を持ち上げた。
その瞬間。
棚が開いた。
「……?」
一つの記憶。
昨日の女性。
バーガーを食べている。
「おいしい」
笑っている。
その記憶の中に。
もう一つ。
知らない記憶。
白い包み紙。
二つの椅子。
そして。
誰かの声。
「次は一緒に食べよう」
好代は目を閉じた。
昨日。
女性が帰ったあと。
その記憶はなかった。
今になって。
増えている。
「……どうして」
好代は呟いた。
記憶は。
消えたり。
増えたりする。
自分の中に入ってくる。
好代はそれを。
いつも受け取ってきた。
世界線バーガーから。
記憶を。
知識を。
能力を。
技能を。
それらは。
受け取れば。
自分のものとして使える。
でも。
今の記憶は。
少し違った。
「……これ」
好代は胸に手を当てた。
「私の記憶じゃない」
もちろん。
それはわかっている。
でも。
もう。
自分の中にある。
だったら。
これは。
誰のものなのか。
好代は答えられなかった。
第四章「世達ちゃんの書類」
夕方。
世達ちゃんが書類を整理していた。
好代はその横に座った。
「世達さん」
「はい」
「聞きたいことがあります」
「何ですか?」
「人からもらったものって」
「はい」
「自分のものになるんでしょうか」
世達ちゃんの手が止まった。
「物によります」
「記憶とか」
「……難しいですね」
「そうですよね」
世達ちゃんは少し考えた。
「例えば」
「はい」
「誰かから仕事を引き継いだとします」
「はい」
「その仕事は、自分がやることになります」
「はい」
「でも」
世達ちゃんは書類を見る。
「その人が積み上げてきた時間まで、自分のものになるわけではありません」
好代は黙った。
「引き継ぐことと」
世達ちゃんが続ける。
「奪うことは違います」
「……」
「受け取ることと」
少し間。
「自分のものだと思うことも、同じではありません」
好代は。
胸の中が少しざわつくのを感じた。
「世達さんは」
「はい」
「誰かから受け取ったものを、返したことがありますか?」
「あります」
「何を?」
「仕事です」
「仕事?」
「はい」
世達ちゃんは少し笑った。
「私が抱えすぎていると、別の人が取り上げてくれます」
「それは返したことになるんですか?」
「……どうでしょう」
世達ちゃんは考えた。
「でも、返してもらったことで助かったことはあります」
好代は。
その言葉を聞いた。
「返してもらう」
その感覚を。
まだ理解できなかった。
第五章「注文がない」
夜。
閉店前。
好代がフロアを歩いていると。
一番奥の席に。
またバーガーが置かれていた。
「……」
昨日とは違う。
普通の包み紙。
でも。
注文記録はない。
好代は近づく。
においを読む。
普通のバーガー。
それだけ。
黒いにおいは。
ない。
「……?」
好代は触れる。
何も起きない。
記憶も。
声も。
文字も。
何もない。
渾沌ちゃんがやってきた。
「また?」
「はい」
「誰の?」
「わかりません」
「食べる?」
「私は食べられないです」
「じゃあ私が」
渾沌ちゃんが包み紙を開く。
一口。
「……普通」
「普通?」
「うん」
二口。
「普通においしい」
好代はそのにおいを読む。
普通。
本当に。
何もない。
「……」
少しだけ。
安心した。
渾沌ちゃんが食べ終わる。
「ごちそうさま」
その瞬間。
一番奥の椅子が。
動いた。
ギッ。
二人とも振り返る。
椅子は。
テーブルの方を向いている。
渾沌ちゃんが笑った。
「やっぱり、誰かいるのかな」
「……」
好代は。
今度は棚を開かなかった。
ただ。
椅子を見た。
すると。
椅子の上に。
ほんの一瞬。
小さな紙片が見えた。
好代が手を伸ばす。
触れる。
消えた。
でも。
一つだけ。
感情が残った。
満足。
誰かが。
今のバーガーを。
食べたことを。
喜んでいる。
好代は。
それを受け取った。
第六章「好き」
「……」
好代は。
しばらく動かなかった。
渾沌ちゃんが聞く。
「どうしたの?」
「今」
「うん」
「誰かが」
好代は胸に手を当てた。
「嬉しいって」
「誰が?」
「わかりません」
「何が嬉しいの?」
好代は少し考えた。
「バーガーを食べてもらったこと」
渾沌ちゃんが笑う。
「じゃあ、よかったじゃん」
「はい」
「おいしかったし」
「はい」
「食べてもらえて嬉しいなら」
渾沌ちゃんは。
いつものように。
「それでいいじゃん」
と言った。
好代も。
「そうですね」
と答えた。
でも。
その言葉の奥で。
何かが引っかかった。
食べてほしい。
受け取ってほしい。
好きになってほしい。
それは。
悪いことではない。
むしろ。
とても普通の願いに思える。
なのに。
どうして。
その願いの奥に。
黒いにおいがあるのか。
好代には。
まだわからなかった。
第七章「名前のないもの」
閉店後。
好代は一番奥の席に座った。
誰もいない。
静か。
空席。
二つの椅子。
好代は向かい側の椅子を見た。
「……あなたは」
返事はない。
「何を返してほしいんですか?」
何もない。
「何を受け取ってほしいんですか?」
何もない。
好代は少し考えた。
「……もしかして」
言葉を選ぶ。
「返してほしいんじゃなくて」
静寂。
「受け取ってほしいんですか?」
その瞬間。
椅子が。
ほんの少し。
動いた。
好代は息を止めた。
「……違う?」
もう一度。
椅子が動く。
今度は。
テーブルの方へ。
好代は。
小さく笑った。
「じゃあ」
向かい側へ。
手を伸ばす。
「受け取ります」
何も起きない。
「……」
好代は目を閉じた。
そして。
自分の中にあるものを感じる。
世界線。
記憶。
能力。
誰かの感情。
誰かの願い。
自分が受け取ってきたもの。
その全部。
「でも」
好代は静かに言った。
「受け取ったからって」
少しだけ。
胸が痛んだ。
「私のものになるとは限らないですよね」
椅子は。
動かなかった。
好代は。
そのまま続けた。
「あなたのものなら」
「あなたのものとして」
「ここに置いておきます」
静寂。
そして。
ほんの一瞬だけ。
黒いにおいがした。
けれど。
今までとは違った。
焦げた甘さの奥に。
ごく小さな。
安心するようなにおい。
好代は。
それを受け取った。
「……はい」
誰もいない席へ。
「ここに置いておきます」
その夜。
ぱんでむの外。
かなり遠い場所で。
何かが立っていた。
姿は見えない。
においも。
ほとんどない。
ただ。
一番奥の席に残されたものを。
取り戻そうとするように。
静かに。
そこにいた。




