第50話「届ける先」
二つのバーガー。
一つは温かい。
一つは冷たい。
好代は厨房の調理台に、それを並べていた。
白い包み紙。
文字はもう消えている。
それでも。
どちらが「受け取って」なのか。
どちらが「返して」なのか。
好代にはわかっていた。
温かい方。
受け取って。
冷たい方。
返して。
ただ。
誰に。
何を。
それだけがわからない。
「……」
好代は二つのバーガーを見つめた。
その時。
背後から足音がした。
「好代さん?」
世頼ちゃんだった。
「はい」
「まだ起きていたんですね」
「はい。少し調べています」
世頼ちゃんが二つのバーガーを見る。
「……これは?」
「わかりません」
「注文ですか?」
「たぶん」
「誰から?」
「わかりません」
世頼ちゃんは少し黙った。
そして。
温かい方のバーガーへ手を伸ばしかけて。
止めた。
「触ってもいいですか?」
「はい」
世頼ちゃんが包み紙に触れる。
その瞬間。
小さく。
紙が鳴った。
カサ。
世頼ちゃんの表情が変わった。
「……」
「何か感じましたか?」
「少しだけ」
世頼ちゃんは手を離した。
「遠いです」
「何がですか?」
「声が」
好代は目を見開いた。
「聞こえたんですか?」
「いいえ」
世頼ちゃんは首を振った。
「聞こえたというより……」
少し考える。
「届けたい、という感じがしました」
好代は。
二つのバーガーを見た。
「……届けたい」
「はい」
「誰かに?」
「たぶん」
「何を?」
「それは……」
世頼ちゃんは困ったように笑った。
「まだ、わかりません」
好代も笑った。
「私もです」
二人で。
しばらくバーガーを見ていた。
第一章「世頼ちゃんの歌」
翌朝。
礼拝室。
世頼ちゃんが歌っていた。
いつもの歌。
明るい。
穏やか。
まっすぐ。
好代は扉の外で聞いていた。
歌のにおいがする。
白い。
柔らかい。
少し温かい。
その奥に。
昨日のバーガーのにおい。
好代は目を閉じた。
歌が。
どこかへ届いている。
遠い。
とても遠い。
そして。
その先で。
何かに触れている。
「……」
歌が終わった。
世頼ちゃんが振り返る。
「好代さん?」
「はい」
「どうしましたか?」
「昨日のバーガーのことなんですが」
「はい」
「歌っている時に、少しだけ思い出しました」
世頼ちゃんが静かに聞く。
「何を?」
「誰かに何かを届けようとしている感じです」
「……」
世頼ちゃんは少し考えた。
「それなら」
「はい」
「歌ってみましょうか」
「いいんですか?」
「はい」
世頼ちゃんはもう一度、歌い始めた。
今度は。
昨日のバーガーを思いながら。
届けたい。
誰かへ。
まだ届いていない何かを。
歌に乗せる。
好代は棚を開いた。
歌のにおい。
温かい。
白い。
そして。
その奥に。
黒いにおい。
焦げた甘さ。
一瞬だけ。
混ざった。
好代の顔が強張る。
でも。
世頼ちゃんの歌は。
歪まなかった。
黒いにおいが混ざっても。
歌そのものは。
変わらなかった。
好代は。
それを受け取った。
第二章「二つの方向」
歌が終わった。
世頼ちゃんが息を整える。
「どうでしたか?」
好代は少し考えた。
「届いています」
「どこへ?」
「わかりません」
「そうですか」
「でも」
好代は続けた。
「昨日より近いです」
世頼ちゃんは少し驚いた。
「近い?」
「はい」
「何が?」
「黒いにおいです」
世頼ちゃんは黙った。
好代は説明する。
「温かいバーガーのにおいは、前へ進んでいます」
「前へ?」
「はい」
「では、冷たい方は?」
好代は振り返った。
「逆です」
「逆?」
「戻っています」
世頼ちゃんが眉を寄せた。
「どこへ?」
「……わかりません」
好代は二つのにおいを追った。
温かいバーガー。
遠くへ。
冷たいバーガー。
過去へ。
一つは。
誰かへ届けようとしている。
もう一つは。
誰かから戻ってこようとしている。
「……同じ場所から出て」
好代が呟く。
「別々の方向へ行っています」
世頼ちゃんが言った。
「それは、少し寂しいですね」
「はい」
「どうしてでしょう」
「わかりません」
世頼ちゃんは微笑んだ。
「では、歌ってみます」
「また?」
「はい」
「どうして?」
世頼ちゃんは少しだけ笑った。
「届いていないなら、届くまで歌えばいいと思うので」
好代は。
その言葉を聞いた。
そして。
少しだけ。
嬉しくなった。
第三章「返す」
午後。
好代は冷たいバーガーを持って。
一番奥の席に座った。
誰もいない。
いつもの空席。
でも。
今日は違う。
目の前にバーガーがある。
「……返して」
好代は小さく言った。
誰に向けた言葉なのか。
自分でもわからない。
冷たいバーガーを。
テーブルに置く。
その瞬間。
椅子が動いた。
ギッ。
向かい側。
誰もいない椅子が。
少しだけ後ろへ引かれた。
まるで。
誰かが座るために。
場所を作ったように。
好代は動かなかった。
「……いますか?」
返事はない。
棚を開く。
におい。
昨日の客。
一番奥の席。
バーガー。
待つ時間。
そして。
もう一つ。
黒いにおい。
でも。
今日は違う。
黒いにおいの奥に。
ほんの少し。
白いものがある。
好代は目を閉じた。
「……返したいんですね」
椅子が。
もう一度。
動いた。
好代は冷たいバーガーを持ち上げた。
「でも」
少し考える。
「私は、誰に返せばいいのかわかりません」
沈黙。
「あなたが教えてくれたら」
何も起きない。
「返します」
その瞬間。
冷たいバーガーが。
少しだけ温かくなった。
好代は驚いた。
「……」
においが変わった。
冷たい時間のにおいが。
少しだけ。
温かい時間へ戻っている。
「……返すって」
好代は呟く。
「物を戻すことじゃないのかもしれません」
その時。
背後から声がした。
「何をしていますか」
世達ちゃんだった。
好代は振り返る。
「少し、話していました」
「誰と?」
「わかりません」
世達ちゃんは空席を見る。
「……そうですか」
「世達さん」
「はい」
「もし」
好代は少し考える。
「誰かから、何か大切なものを預かったら」
「はい」
「返しますか?」
世達ちゃんは即答しなかった。
「……相手が必要としているなら」
「はい」
「返します」
「自分に必要でも?」
「必要なら、話し合います」
好代は少し笑った。
「世達さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい」
世達ちゃんは椅子に座った。
「でも」
「はい」
「自分が持っていることで、誰かが待っているなら」
世達ちゃんは空席を見る。
「返すべきだと思います」
好代は。
その言葉を受け取った。
第四章「誰も注文していない注文」
夕方。
秩序ちゃんが厨房へ来た。
「好代さん」
「はい」
「注文が一件あります」
「誰からですか?」
「それが」
秩序ちゃんが端末を見る。
「注文者がありません」
「また……」
「はい」
注文画面。
商品。
ハンバーガー。
数量。
一。
受取席。
一番奥。
好代の顔が変わった。
「昨日と同じです」
「ただし、今回は違います」
「何が?」
秩序ちゃんが画面を見せる。
注文時刻。
現在時刻。
「……」
「今、注文されたものです」
「誰が?」
「不明です」
「受取人は?」
「不明です」
好代は注文画面を見る。
すると。
備考欄に。
一文字ずつ。
文字が浮かんだ。
「返して」
好代の背筋が冷えた。
「……」
秩序ちゃんが記録する。
「注文処理を停止しますか?」
好代は少し考えた。
「……いいえ」
「よいのですか?」
「はい」
「理由は?」
好代は画面を見た。
「昨日の注文は、過去から来ました」
「はい」
「でも、これは今です」
「はい」
「だったら」
好代は言った。
「今度は、ちゃんと受け取る人を探したいです」
秩序ちゃんは少し黙った。
「わかりました」
調理開始。
厨房が動き始める。
パン。
肉。
野菜。
ソース。
いつもの工程。
いつものバーガー。
でも。
好代には。
今日のバーガーが。
昨日までのものとは違って感じられた。
誰かが。
今。
注文している。
誰かが。
今。
返してほしいと言っている。
「……」
好代は完成したバーガーを持った。
一番奥の席へ。
歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
テーブルへ置く。
誰もいない。
好代は椅子を引いた。
座る。
向かい側。
空席。
「……お待たせしました」
誰も答えない。
「ご注文の品です」
沈黙。
それでも。
好代は待った。
第五章「受け取る」
十分。
二十分。
三十分。
誰も来ない。
世達ちゃんが遠くから見ている。
秩序ちゃんもいる。
渾沌ちゃんも。
誰も声をかけない。
好代は。
ただ待っていた。
その時。
向かい側の椅子が。
ゆっくり。
引かれた。
ギッ。
好代は顔を上げる。
誰もいない。
でも。
座った。
誰かが。
そこに座った。
好代には。
そう感じた。
「……」
目の前のバーガーが。
少しだけ動く。
テーブルの中央へ。
誰かの手が。
押したように。
好代は。
バーガーを向かい側へ滑らせた。
「どうぞ」
椅子が。
少しだけ沈んだ。
好代の棚が開く。
においが。
一気に流れ込んできた。
知らない人。
知らない時間。
知らない場所。
でも。
一つだけ。
はっきりしている。
誰かが。
誰かに。
食べてほしかった。
「……」
好代はその感情を。
受け取った。
次の瞬間。
向かい側のバーガーが。
消えた。
好代は驚かなかった。
ただ。
「……食べましたか?」
と聞いた。
返事はない。
でも。
においが。
少しだけ変わった。
焦げた甘さ。
その奥に。
ほんの少し。
普通のバーガー。
そして。
「ありがとう」
今度は。
はっきり聞こえた。
好代は。
小さく笑った。
「どういたしまして」
その瞬間。
店の外。
遠くの暗闇で。
黒いにおいが。
一度だけ。
大きく揺れた。
まるで。
何かが。
こちらを見ているように。
好代は窓を見た。
でも。
何もいない。
ただ。
一番奥の席には。
二つの椅子がある。
一つには。
好代。
もう一つは。
空席。
それなのに。
今までとは違った。
その空席から。
「待っている」というにおいが。
消えていた。
第六章「届いたあと」
夜。
礼拝室。
世頼ちゃんが歌っていた。
好代は静かに聞いていた。
歌のにおいは。
白い。
温かい。
そして。
今日は。
焦げた甘さが。
混ざっていない。
「……届きました」
歌が終わる。
世頼ちゃんが振り返る。
「何がですか?」
「わかりません」
「でも?」
「今日は、歌が歪んでいません」
世頼ちゃんは少し笑った。
「それなら、よかったです」
好代は。
しばらく考えた。
「世頼さん」
「はい」
「誰かに何かを届けるって」
「はい」
「届けたら、終わりなんでしょうか」
世頼ちゃんは首を横に振った。
「わかりません」
「そうですよね」
「でも」
世頼ちゃんは少しだけ考えた。
「受け取ってもらえたら」
「はい」
「次に何をするかは、その人が決めることなんじゃないでしょうか」
好代はその言葉を聞いた。
「……そうかもしれません」
世頼ちゃんは笑った。
「私は、届けるところまでしかできませんから」
「それで十分ですか?」
「はい」
世頼ちゃんは頷いた。
「届いたかどうかがわかれば、それで十分です」
好代は。
その言葉を棚にしまった。
大切に。
今日受け取ったものとして。
そして。
その夜。
ぱんでむの一番奥の席には。
誰も座っていなかった。
注文もない。
包み紙もない。
ただ。
二つの椅子だけが。
向かい合っている。
その間に。
ほんの一瞬だけ。
黒い影が映った。
人の形。
でも。
すぐに消えた。
残ったのは。
小さなにおいだけ。
焦げた甘さ。
その奥に。
ほんの少しだけ。
「届けたい」という感情。
まだ。
誰にも届いていない。
けれど。
確かに。
そこにあった。




