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第48話「返して」


「……返して」


声が消えた。


一番奥の二人席。


白い包み紙。


その中に残った、二つのにおい。


好代は手を伸ばしたまま動かなかった。


「今の、聞こえました?」


世達ちゃんが答えた。


「はい」


秩序ちゃんも頷く。


「私にも聞こえました」


好代は包み紙を見る。


「誰が言ったんでしょう」


「わかりません」


秩序ちゃんが記録端末を確認する。


「音声記録には何も残っていません」


「でも、聞こえました」


「はい」


好代は包み紙に触れた。


瞬間。


棚が開いた。


昨日の客。


一番奥の席。


バーガー。


温かい飲み物。


誰かを待っている。


そして。


もう一つ。


黒いにおい。


焦げた甘さ。


その二つが。


今度ははっきり分かれていた。


「……」


好代は手を離した。


「どうしました?」


世達ちゃんが聞く。


「二人います」


「二人?」


「はい」


好代は包み紙を見た。


「昨日の人と、もう一人」


「もう一人は歪者ですか?」


「わかりません」


「では何者かも?」


「はい」


好代は少し考えた。


「でも、昨日の人と同じ場所にいるわけじゃないです」


「どういうことですか?」


「この二つのにおい……」


好代は眉を寄せた。


「時間が違います」


秩序ちゃんが端末を下ろした。


「時間?」


「はい」


「同時に存在しているのに?」


「同時じゃないんです」


好代は包み紙を見る。


「昨日の人は、過去から残っている」


「もう一つは?」


「……今です」


その瞬間。


店の照明が。


一つだけ。


消えた。


第一章「今いるもの」


照明が戻る。


一秒にも満たない暗闇だった。


けれど。


好代には十分だった。


黒いにおいが。


一歩。


近づいていた。


「……」


好代が顔を上げる。


店内。


誰もいない。


カウンター。


厨房。


廊下。


階段。


全部いつも通り。


なのに。


黒いにおいだけが。


一番奥の席から。


店の中央へ移っている。


「移動しました」


世達ちゃんが聞く。


「どこへ?」


「……こっちです」


好代は歩き出した。


一歩。


二歩。


三歩。


においがついてくる。


「止まってください」


秩序ちゃんが言った。


「はい」


「それ以上、追わない方がいい」


好代は振り返った。


「どうしてですか?」


「相手が何なのかわかりません」


「でも」


「はい」


「ここにいるんです」


秩序ちゃんは少し黙った。


「……だからです」


好代は理解した。


敵がいるから怖いのではない。


何かわからないものが。


ぱんでむの中にいる。


そのことが怖い。


「……わかりました」


好代は戻った。


すると。


黒いにおいも。


戻った。


一番奥の席へ。


「……」


世達ちゃんが小さく言った。


「座席を基準にしている?」


「たぶん」


「誰かがそこに座ると?」


「変わるかもしれません」


「試しますか?」


好代は世達ちゃんを見る。


「危険です」


「はい」


「でも、試したいんですよね」


「……はい」


世達ちゃんが椅子を引いた。


座った。


何も起きない。


好代がにおいを読む。


世達ちゃん。


紙。


疲労。


コーヒー。


そして。


昨日の客。


少しだけ。


黒いにおい。


ほんの少し。


「……来ています」


「私に?」


「違います」


「では?」


好代は首を振った。


「席に」


世達ちゃんが立ち上がる。


においが消える。


座る。


戻る。


立つ。


消える。


「……なるほど」


世達ちゃんが言った。


「この席そのものが、何かを呼んでいる?」


「そうかもしれません」


「なら、片付ければいいんじゃないですか?」


秩序ちゃんが言った。


好代が首を振った。


「それは……」


「何か?」


「この席をなくしたら」


好代は空席を見る。


「誰かが帰ってこられなくなる気がします」


世達ちゃんが黙った。


第二章「片付けられない理由」


翌朝。


渾沌ちゃんが一番奥の席に座っていた。


「……ここ、やっぱり落ち着く」


好代が聞く。


「何か感じますか?」


「うん」


「何を?」


「よくわかんない」


渾沌ちゃんはテーブルに頬杖をついた。


「でも、ここに座ってるとさ」


「はい」


「誰かが来る気がする」


好代は少し驚いた。


「渾沌さんも?」


「も?」


「私も同じです」


「そっか」


渾沌ちゃんは笑った。


「じゃあ、一緒だね」


その時。


厨房から声がした。


「渾沌さん!」


「なに?」


「注文です!」


「今行くー!」


渾沌ちゃんが立ち上がる。


その瞬間。


椅子が。


ギッ。


後ろへ動いた。


好代は見た。


「……」


椅子の背もたれに。


一瞬だけ。


誰かの手の跡が浮かんだ。


人間の手。


小さい。


普通の手。


そして。


消えた。


「今の……」


好代が呟く。


渾沌ちゃんが振り返る。


「何?」


「何でもないです」


「また?」


「はい」


渾沌ちゃんは少し笑った。


「すきよちゃん、最近『何でもない』多いよ」


「……そうですね」


「本当は何でもあるんでしょ?」


好代は答えなかった。


渾沌ちゃんはそれ以上聞かなかった。


「じゃあ、あとで教えて」


「はい」


そう言って。


厨房へ戻っていった。


好代は椅子を見た。


今の手。


黒いにおいではなかった。


昨日の客のにおい。


つまり。


今、この席に。


過去の誰かが。


まだ触れている。


第三章「返して」


◆午後


好代は秩序ちゃんと古い記録を調べていた。


六十一日前。


注文。


一番奥の席。


ハンバーガー一個。


注文者不明。


それだけ。


「もっと前は?」


「確認しています」


秩序ちゃんが記録をめくる。


「一年前」


何もない。


二年前。


何もない。


三年前。


何もない。


五年前。


何もない。


十年前。


「……」


秩序ちゃんの指が止まった。


「ありました」


好代が顔を上げる。


「何が?」


「同じ席です」


「注文?」


「はい」


記録には。


ハンバーガー。


一個。


受取席。


一番奥。


注文者。


空欄。


「また……」


「はい」


秩序ちゃんがさらに遡る。


十五年前。


同じ。


二十年前。


同じ。


三十年前。


同じ。


「……」


世達ちゃんが画面を見る。


「これ、いつからですか?」


秩序ちゃんが答える。


「最古の記録まで遡れません」


「つまり?」


「この席には、最初から注文履歴がある可能性があります」


好代は黙った。


最初から。


ぱんでむができた時から。


誰かが。


この席に座っている。


「……おかしいです」


「はい」


「どうして誰も気づかなかったんでしょう」


秩序ちゃんは答えなかった。


その時。


記録画面に。


一行だけ。


文字が増えた。


返して


好代は息を止めた。


「……また」


世達ちゃんが立ち上がる。


「誰が入力した?」


秩序ちゃんが確認する。


「入力操作はありません」


「なら、どうやって?」


「わかりません」


好代は画面に触れた。


棚が開く。


今度は。


昨日の客の記憶ではない。


もっと古い。


店内。


同じ席。


一人の人間。


バーガーを食べている。


その人は。


誰かを待っていた。


何度も入口を見る。


でも。


誰も来ない。


それでも待っている。


そして。


最後に。


テーブルの上へ。


何かを置いた。


白い包み紙。


好代は息を止めた。


「……この人」


世達ちゃんが聞く。


「何かわかりましたか?」


「包み紙を置いています」


「バーガー?」


「たぶん」


「誰のために?」


好代は記憶を追った。


人間は。


席を立つ。


帰ろうとする。


でも。


一度だけ振り返る。


そして。


小さく。


「返して」


と言った。


好代は目を開けた。


「……」


「どうしました?」


「この人」


好代は言った。


「何かを渡したんです」


「何を?」


「わかりません」


「誰に?」


「……それも」


好代は首を横に振った。


「わかりません」


ただ。


最後のにおいだけ。


妙に残っている。


悲しさ。


寂しさ。


それから。


怒りではない。


もっと静かなもの。


後悔。


好代は包み紙を見た。


「この人は、何かを返してほしいんです」


世達ちゃんが聞く。


「何を?」


「……自分が渡したものを」


秩序ちゃんが記録する。


「誰かに渡したものを、返してほしい?」


「はい」


「なぜ?」


好代は答えられなかった。


第四章「普通のお客様」


その日の夕方。


一人の客が来店した。


普通の人だった。


仕事帰りらしい服。


少し疲れた顔。


一人。


「いらっしゃいませ」


好代が声をかける。


客はメニューを見る。


「ハンバーガーを一つ」


「かしこまりました」


注文を受ける。


渾沌ちゃんが厨房で作る。


普通のバーガー。


普通のパン。


普通の肉。


普通のソース。


完成。


「お待たせしました」


客はバーガーを受け取った。


そして。


店内を見回した。


「……ここ、空いてますか?」


指差した。


一番奥の席。


好代の背中が冷えた。


「はい」


「じゃあ、あそこいいですか」


「……はい」


客が座った。


空席だった場所。


初めて。


普通のお客様が座った。


好代は少し離れて見ていた。


客はバーガーを食べる。


一口。


二口。


三口。


「おいしい」


普通の言葉。


好代はそのにおいを受け取る。


普通の「おいしい」。


その瞬間。


空席に残っていた。


昨日の客のにおいが。


ふっと。


薄くなった。


好代は目を見開いた。


「……」


さらに。


黒いにおいも。


少しだけ薄くなる。


「……食べると」


好代は呟いた。


「消える?」


違う。


消えたのではない。


移った。


客がバーガーを食べるたび。


空席に残っていたものが。


ほんの少しずつ。


客の方へ。


移っている。


好代は棚を開いた。


その客の記憶。


一人暮らし。


仕事。


家。


疲労。


食事。


普通の日々。


そして。


一番奥の席。


知らない誰かの記憶が。


ほんの少し。


混ざっている。


「……」


好代は顔を上げた。


その客は。


何も知らずにバーガーを食べている。


それなのに。


その人の記憶の中に。


自分が経験していない記憶が。


一つ。


増えていた。


一番奥の席。


白い包み紙。


誰かを待つ時間。


「返して」


客は突然。


バーガーを置いた。


「……え?」


好代が近づく。


客は自分でも驚いたように。


「今……何か言いました?」


「いいえ」


「そうですか……」


客は首を傾げた。


そして。


もう一口。


食べる。


「おいしい」


その瞬間。


空席のにおいが。


また少し薄くなった。


好代は気づいた。


この現象は。


誰かを傷つけているわけではない。


でも。


何かを。


誰かから誰かへ。


移している。


第五章「受け取ったもの」


閉店後。


好代は一人で空席に座っていた。


今日の客は帰った。


普通に。


「ありがとうございました」


と言って。


普通に。


帰っていった。


その後。


席には。


何も残っていない。


いや。


正確には。


一つだけ。


小さなにおいがある。


知らない人の記憶。


誰かを待っていた時間。


好代はそれを受け取る。


棚に入れる。


その瞬間。


一つの感情が。


はっきりした。


「食べてほしかった」


好代は目を開いた。


「……」


今まで。


「返して」としか聞こえなかった。


でも。


その奥には。


別の感情がある。


返してほしい。


その前に。


渡したかった。


誰かに。


食べてほしかった。


誰かに。


受け取ってほしかった。


「……」


好代は空席を見る。


「あなたは」


誰もいない席へ。


「何を渡したかったんですか?」


返事はない。


ただ。


椅子が。


ほんの少しだけ。


動いた。


好代は立ち上がらなかった。


怖くなかった。


今度は。


少しだけ。


待ってみようと思った。


その時。


店内の奥。


誰もいない厨房から。


小さな音がした。


カサ。


紙が擦れる音。


好代が振り返る。


厨房の調理台。


そこに。


一つの包み紙が置かれていた。


白い。


何も書かれていない。


好代が近づく。


においを読む。


昨日の客。


古い記憶。


そして。


もう一つ。


今までより近い。


黒いにおい。


好代は包み紙を開いた。


中には。


バーガーが一つ。


普通のハンバーガー。


焼きたて。


まだ温かい。


好代は息を止めた。


誰も作っていない。


厨房には誰もいない。


それなのに。


確かに。


そこにある。


好代はバーガーを見る。


食べることはできない。


でも。


このバーガーが。


誰かに食べられるために置かれたものだということだけは。


わかった。


包み紙の内側に。


今度は文字があった。


一文字ずつ。


ゆっくり。


浮かび上がる。


「受け取って」


好代は。


しばらく動かなかった。


そして。


小さく答えた。


「……はい」


その瞬間。


店の外。


遠くの暗闇で。


何かが。


一度だけ。


こちらを見た。


好代には。


姿は見えなかった。


ただ。


においだけが。


少しだけ。


近づいた。

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