第46話「お客様のいない席」
朝。
好代がフロアに出ると、一番奥の席に誰かが座っていた。
窓際。
二人掛けの小さなテーブル。
白い椅子。
花瓶には、いつもの小さな花。
でも、その席には誰もいなかった。
「……?」
好代は立ち止まった。
においを確認する。
誰もいない。
それなのに、椅子には人が座ったにおいが残っていた。
少し古い服。
温かい飲み物。
バーガーの包み紙。
それから――
帰ろうとした人のにおい。
「……誰かいましたか?」
カウンターにいた秩序ちゃんが顔を上げた。
「いいえ」
「昨日も?」
「昨日もいません」
「一昨日は?」
「いません」
好代は席を見た。
「じゃあ、どうして人が座ったにおいがするんでしょう」
秩序ちゃんは答えなかった。
しばらくして、端末を開いた。
「……記録を確認します」
その横から渾沌ちゃんが顔を出した。
「そこ、最近ちょっと変なんだよ」
「変?」
「誰も座ってないのに、たまに椅子が動くの」
「勝手に?」
「うん」
「どうして放置してるんですか?」
渾沌ちゃんは少し考えた。
「……誰も困ってないから?」
好代は椅子を見た。
「でも、誰かが困っている可能性はあります」
渾沌ちゃんが黙った。
「……そっか」
いつもの「そっか」だった。
でも今日は少し違った。
笑っていなかった。
第一章「空席の注文」
◆午前九時
開店してから三十分。
客はまだ少ない。
好代はカウンターから店内を見ていた。
空席。
空席。
空席。
そして、一番奥の席だけ。
誰もいない。
なのに、そこに誰かがいるような感じがする。
好代は棚を開いた。
においが来た。
昨日のにおい。
誰かを待つ部屋。
名前のないバーガー。
それに似ている。
でも違う。
もっと古い。
もっと薄い。
そして――
「……寂しい」
好代は思わず口に出した。
渾沌ちゃんが振り返った。
「寂しい?」
「この席です」
「席が?」
「はい」
「椅子が寂しいの?」
「わかりません」
好代はもう一度においを読んだ。
椅子そのものではない。
ここに座った誰かの記憶が残っている。
でも、その人の姿がない。
「……人がいないのに、人がいたことだけが残っています」
秩序ちゃんが端末から顔を上げた。
「それは珍しくありません」
「そうなんですか?」
「世界線が消滅した後、記録だけ残ることはあります」
「でも」
好代は席を見た。
「この席は、世界線が消えた感じじゃありません」
「では?」
「……まだ待っている感じがします」
秩序ちゃんの指が止まった。
◆世達ちゃんが来る
「どうしましたか」
世達ちゃんが来た。
黒いスーツ。
いつもの端末。
いつもの少し疲れた顔。
好代は説明した。
世達ちゃんは空席を見た。
「……ここですか」
「はい」
「私も知っています」
「知っているんですか?」
「昨日、閉店後に確認しました」
世達ちゃんが椅子を引いた。
座った。
「何も起きませんでした」
「においは?」
「……気づきませんでした」
好代は世達ちゃんを見る。
「もう一度、確認してもいいですか?」
「どうぞ」
好代は世達ちゃんのにおいを読む。
疲労。
紙。
コーヒー。
それから、ほんの少しだけ。
「……気になります」
「何がですか」
「世達さん、この席に座ると、少しだけ昔のにおいが強くなります」
世達ちゃんが黙った。
「昔?」
「はい」
「私の?」
「たぶん違います」
好代は席の背もたれを触った。
冷たい。
「……誰かが世達さんを待っていた、みたいな感じがします」
世達ちゃんの表情が変わった。
ほんの少し。
「……私を?」
「違うかもしれません」
「そうですか」
世達ちゃんは席を立った。
「少し調べます」
「一緒に調べてもいいですか?」
「……はい」
世達ちゃんが答えた。
その返事は、いつもより早かった。
第二章「記録にない客」
◆バックヤード
秩序ちゃんが過去の記録を開いた。
一年前。
二年前。
十年前。
さらに古い記録。
「……ありません」
「誰も座っていないんですか?」
「正確には、客として登録された記録がありません」
「でも、においはあります」
「はい」
秩序ちゃんは記録を切り替えた。
「来店記録ではなく、世界線接続履歴を確認します」
大量の文字が流れる。
好代は画面を見ながら、においを読む。
「……待ってください」
「何ですか」
「この日です」
好代が画面を指差した。
そこには、一つの日付が表示されていた。
記録上、何も起きていない日。
営業記録も正常。
世界線接続も正常。
異常報告なし。
でも。
好代には、その日のにおいがわかった。
「この日に、誰か来ています」
秩序ちゃんが確認する。
「記録にはありません」
「でも、います」
「誰ですか?」
「わかりません」
「顔は?」
「わかりません」
「名前は?」
「わかりません」
好代は少し考えた。
「でも――」
においを辿る。
「この人、バーガーを食べています」
秩序ちゃんが止まった。
「……記録がないのに?」
「はい」
「何を食べたんですか?」
「わかりません」
好代は目を閉じた。
においが遠くなる。
そして――
一瞬だけ。
声がした。
『ごちそうさまでした』
好代は目を開けた。
「……今、聞こえました」
世達ちゃんが言った。
「何が?」
「お礼です」
「誰の?」
「わかりません」
その瞬間。
フロアの奥から、
カラン。
小さな音がした。
三人が振り返った。
誰もいない。
一番奥の席に。
バーガーの包み紙だけが置かれていた。
第三章「食べた人」
好代が駆け寄った。
包み紙は白。
何も書いていない。
でも、においがある。
強い。
今まで嗅いだどのバーガーよりも、人間らしいにおいだった。
「……これ」
好代は包み紙に触れた。
記憶が流れ込む。
ぱんでむではない。
世界線でもない。
宇宙でもない。
一人の人間の人生。
朝。
学校。
仕事。
家族。
友達。
失敗。
笑った日。
泣いた日。
お腹が空いた日。
誰かと食べたバーガー。
その全部。
そして最後に。
ぱんでむの店内。
この席。
目の前のバーガー。
好代は息を止めた。
「……普通の人です」
秩序ちゃんが聞いた。
「普通?」
「はい」
「クルーでも、異常存在でもない?」
「違います」
好代は包み紙を握った。
「ただの人です」
渾沌ちゃんが後ろから来た。
「……その人、どうしたの?」
「わかりません」
好代は記憶を辿る。
でも、最後だけがない。
この人がどこへ行ったのか。
その部分だけ、空白だった。
「途中で切れています」
「死亡記録?」
「違います」
「じゃあ?」
好代は首を横に振った。
「……帰った記憶がありません」
全員が黙った。
◆郷愁ちゃん
扉が開いた。
郷愁ちゃんだった。
「呼ばれた気がしたの」
彼女は席を見る。
そして。
「……あら」
初めて、明確に驚いた顔をした。
「知ってるの?」
好代が聞いた。
郷愁ちゃんは答えなかった。
空席に近づいた。
椅子の背もたれに手を置く。
「この席」
「はい」
「昔からあるわ」
「いつからですか?」
「覚えてない」
郷愁ちゃんは目を閉じた。
「でも、ここに座っていた人がいたことは覚えてる」
「どんな人でしたか?」
「……知らない」
「知らない?」
「顔も名前も思い出せない」
郷愁ちゃんが席を見た。
「ただ、その人はいつもバーガーを食べていた」
好代の胸が少し動いた。
「何を話していたんですか?」
「何も」
「何も?」
「一人で食べていたから」
郷愁ちゃんは少し笑った。
「でも、最後の日だけ」
「はい」
「誰かに向かって、『ありがとう』と言った」
好代は包み紙を見る。
「誰に?」
郷愁ちゃんが答えた。
「わからない」
その瞬間。
空席の上に、ほんの一瞬だけ。
人影が見えた。
誰かが座っている。
ただ、それだけ。
顔は見えない。
声も聞こえない。
でも。
その人は笑っていた。
そして、テーブルの上にバーガーを置いた。
好代が一歩近づく。
人影が消えた。
包み紙だけが残った。
第四章「お客様を愛するということ」
「……不思議ですね」
好代が言った。
渾沌ちゃんが隣に立つ。
「うん」
「誰も覚えていないのに、誰かがいた」
「うん」
「バーガーだけ残っている」
「うん」
「どうしてでしょう」
渾沌ちゃんは答えなかった。
好代は彼女を見る。
「渾沌さん」
「なに?」
「その人のこと、好きですか?」
渾沌ちゃんが止まった。
「……え?」
「その人はバーガーを食べたお客様です」
「うん」
「だから、好きですか?」
渾沌ちゃんは困ったような顔をした。
「……わかんない」
「そうですか」
「私、バーガーは好き」
「はい」
「バーガーを食べてくれるのも嬉しい」
「はい」
「でも、その人自身のことは――」
渾沌ちゃんが空席を見る。
「知らないから」
好代は黙った。
「知らない人を好きになれる?」
「私は、少し気になります」
「それと好きは違う?」
「たぶん」
渾沌ちゃんが考えた。
長い時間。
「……すきよちゃんって、変だね」
「そうですか?」
「うん」
渾沌ちゃんが笑った。
「バーガーを食べる人まで気にするんだ」
「はい」
「私たちはバーガーを見てる」
「そうですね」
「すきよちゃんは、その向こうを見る」
好代は答えなかった。
ただ、空席を見た。
誰もいない席。
それでも。
そこに座っていた人がいたことだけは、わかる。
「……その人が幸せだったならいいなと思います」
渾沌ちゃんの笑顔が、少し消えた。
「……うん」
それだけ言った。
第五章「空席が一つ増える」
夕方。
閉店時間。
最後の客が帰った。
好代はフロアを確認していた。
テーブル。
椅子。
床。
窓。
そして、一番奥の席。
においを読む。
もう、あの人のにおいは薄い。
代わりに。
別のにおいがあった。
誰かが座っている。
好代は振り返った。
誰もいない。
でも、今度は知っている。
この席にいるのは、過去の客ではない。
「……渾沌さん」
「なに?」
「空席が一つ増えました」
「え?」
渾沌ちゃんが見る。
いつもの店内。
席数は変わっていない。
なのに。
好代にはわかる。
「においだけです」
「誰の?」
「わかりません」
「また?」
「はい」
好代はその席を見つめた。
その瞬間。
店の外から、
何かが落ちる音がした。
ドン。
全員が振り返る。
窓の外。
ぱんでむの外縁。
そこに、黒い何かが一瞬だけ見えた。
人の形。
赤と黄色。
でも、遠すぎて顔までは見えない。
好代は棚を全部開いた。
においが来た。
黒い。
焦げている。
甘いのに苦い。
そして――
昨日までの「歪者」と同じ根。
好代の指が止まった。
「……渾沌さん」
「うん」
「外に、何かいます」
渾沌ちゃんが窓を見る。
もう何もいない。
ただ。
窓ガラスに、指で書いたような跡だけが残っていた。
文字ではない。
文字になる前の何か。
好代には読めない。
でも、意味だけは。
なぜか一つだけ伝わった。
見つけた。
好代は黙った。
渾沌ちゃんも黙った。
秩序ちゃんが静かにインカムを取った。
「全クルーへ」
声が変わっていた。
「外縁部に異常反応」
少し間。
「全員、通常業務を中止してください」
店内の空気が変わった。
好代は窓を見た。
空席が一つ。
名前のないバーガー。
記録に残らない客。
そして。
こちらを見つけた何か。
まだ、誰も知らない。
それが何なのか。
ただ一つだけ。
好代には、においでわかった。
あれは。
ぱんでむを食べに来たものではない。
ぱんでむそのものを、探している。
――六十一日目。
閉店時間は、まだ来ていなかった。




