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第45話「名前のない注文」


六十日目の朝。


好代はフロアのカウンターに立っていた。


今日は特に変わった業務はない。


午前中の予約確認。


冷蔵庫の在庫確認。


バーガーの状態確認。


それから、お客様への案内。


いつもの仕事だった。


「好代ちゃん、これお願い」


渾沌ちゃんがカウンターの向こうから包み紙を一つ投げてきた。


好代は受け取った。


「何ですか?」


「新しい試作品。まだメニューには出してないやつ」


包み紙は薄い水色だった。


ロゴの横に、小さな星が三つ描かれている。


「においは?」


「嗅いでみて!」


好代は棚を開いた。


においが来た。


甘い。


少し冷たい。


夜の公園みたいなにおい。


それから、誰かが帰ってくるのを待っている部屋のにおい。


「……変わったにおいです」


「でしょ?」


渾沌ちゃんが楽しそうに笑った。


「これ、まだ名前が決まってないんだ」


「名前がないんですか」


「うん。試作品だから」


好代は包み紙を見た。


名前の欄だけ、空白だった。


第一章「空白のメニュー」


◆バックヤード


秩序ちゃんが現れた。


いつものように書類を持っている。


「試作品の確認ですか」


「はい。名前がまだ決まってないそうです」


秩序ちゃんは包み紙を見た。


「……登録番号は?」


「ありません」


「世界線コードは?」


「仮登録だけです」


「分類は?」


「未分類です」


秩序ちゃんの手が止まった。


「……つまり、まだ何も決まっていない?」


「そうみたいです」


渾沌ちゃんが横から口を挟んだ。


「でも味はあるよ!」


「味があることと登録されていることは別です」


「そっか」


「そっか、ではありません」


いつもの二人だった。


好代は少し笑った。


秩序ちゃんが試作品を見つめる。


「……このバーガー、どこから来たんでしょう」


「それもまだ調査中」


渾沌ちゃんが答えた。


「気づいたら冷蔵庫に入ってたんだよ」


「……気づいたら?」


「うん」


「誰が入れたんですか」


「わかんない」


秩序ちゃんが黙った。


好代はバーガーを見た。


においを確認する。


冷たい夜。


誰かを待つ部屋。


それから――


少しだけ。


自分と似たにおい。


でも、自分ではない。


「……このバーガー」


好代が言った。


「私と少し似ています」


秩序ちゃんが顔を上げた。


「どういう意味ですか?」


「においが似ています。でも同じではありません」


好代はもう一度嗅いだ。


「私のにおいの方が、もっと色々混ざっています」


「……そうですか」


秩序ちゃんはそれ以上聞かなかった。


ただ、書類の余白に何かを書いた。


第二章「お客様」


昼前。


店のドアが開いた。


カラン、と小さな音がした。


一人のお客様が入ってきた。


年齢も性別もよくわからない。


黒い服。


白い靴。


それだけ。


「いらっしゃいませ」


好代が声をかける。


お客様はメニューを見上げた。


「……名前のないものをください」


好代は少し止まった。


「名前のないもの、ですか?」


「はい」


渾沌ちゃんがカウンターの奥から顔を出した。


「名前のないバーガー?」


お客様がうなずいた。


「それです」


好代は水色の包み紙を見た。


「こちらでしょうか」


「はい」


秩序ちゃんが横で固まった。


「……販売登録されていません」


「でも、あるよ?」


渾沌ちゃんが言った。


「ありますが、登録されていない商品を販売することは――」


「お客様が食べたいって」


「それだけでは販売理由として不十分です」


「じゃあどうする?」


秩序ちゃんが黙った。


好代はお客様を見た。


「どうして、これがいいんですか?」


お客様は少し考えた。


「名前をつけると、帰れなくなるから」


好代は、その言葉を聞いた。


郷愁ちゃんの部屋を思い出した。


帰れない場所。


失われたもの。


終わったもの。


でも、今日の言葉は少し違う。


「名前をつけると、帰れなくなる」という意味が、まだわからない。


「名前がない方がいいんですか?」


「はい」


「どうしてですか?」


「まだ、どこへ行くかわからないから」


好代は少し考えた。


「……それなら」


包み紙を手に取った。


「今は名前をつけなくてもいいと思います」


秩序ちゃんが好代を見る。


「好代さん」


「まだどこへ行くかわからないなら、決めなくてもいいです」


渾沌ちゃんが笑った。


「それいいじゃん」


秩序ちゃんはしばらく黙った。


それから書類を一枚抜いた。


「……仮販売として記録します」


「ありがとうございます」


お客様が小さく頭を下げた。


第三章「名前のない味」


好代はバーガーをお客様の前に置いた。


「こちらです」


お客様は包み紙を開いた。


一口食べた。


何も起こらなかった。


少なくとも、外から見える変化は。


「……おいしい」


お客様が言った。


その瞬間。


好代の棚が開いた。


知らない世界線。


知らない街。


知らない部屋。


知らない夜。


そして――


一人の人間。


その人は、何かを待っていた。


誰かを待っている。


でも、その誰かの顔は見えない。


名前もない。


ただ、帰ってくるのを待っている。


好代はその記憶を受け取った。


けれど、いつものように能力へ変換されていく感触がない。


知識でもない。


技能でもない。


世界線の特殊能力でもない。


ただ一つの感情だけが残った。


「待っている」


それだけ。


好代は目を開けた。


「……これは」


「どうしました?」


秩序ちゃんが聞く。


「何も能力になりません」


「何も?」


「はい」


好代はバーガーを見た。


「ただ、待っていた人の気持ちが残っています」


渾沌ちゃんが首を傾げる。


「それって能力じゃないの?」


「たぶん」


好代は少し考えた。


「でも、なくならないです」


お客様がバーガーを食べ終えた。


包み紙を丁寧に折っている。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


お客様が立ち上がった。


扉へ向かう。


その背中に、好代は声をかけた。


「どこへ帰るんですか?」


お客様が振り返った。


少しだけ笑った。


「まだ、決めてません」


扉が開いた。


カラン。


閉じた。


その瞬間。


水色の包み紙から、においが消えた。


第四章「名前をつける」


「……なくなりました」


好代が言った。


渾沌ちゃんが包み紙を見る。


「ほんとだ」


秩序ちゃんも確認する。


世界線コード。


未分類。


登録番号。


全部残っている。


なのに、バーガーそのもののにおいだけがない。


「お客様が食べたからですか?」


「わかりません」


好代は包み紙を嗅いだ。


何もない。


完全な無臭ではない。


紙のにおいはある。


でも、さっきまでそこにあった「待っている」というにおいだけが消えている。


「……名前をつける必要がなくなったのかもしれません」


秩序ちゃんが好代を見る。


「どうして?」


「お客様が、自分で決めると言っていたので」


「何を?」


「帰る場所を」


渾沌ちゃんが少し黙った。


「じゃあ、名前も?」


「はい」


好代は水色の包み紙を見た。


「名前がなくても、なくならないものがあるんだと思います」


秩序ちゃんが書類を見た。


「……名前がない状態を、記録しておく必要がありますね」


「はい」


「では商品名は」


秩序ちゃんがペンを持つ。


好代は少し考えた。


「『名前なし』ではどうでしょう」


「それでは名前をつけています」


「……そうですね」


渾沌ちゃんが吹き出した。


「じゃあ『空白』!」


秩序ちゃんが首を横に振った。


「空白という名前になります」


「じゃあ『名無し』!」


「それも名前です」


「むずかしい!」


好代は少し考えた。


「……今は、何も書かないのはどうですか」


秩序ちゃんがペンを止めた。


空欄。


それだけ。


「……それなら、記録上は空欄ですね」


「はい」


秩序ちゃんは商品名の欄を空白のままにした。


その下に、小さく書いた。


「未定」


そして、その文字を見て少し考えた。


「……これも名前ですね」


好代が言った。


秩序ちゃんは無言で「未定」を二重線で消した。


第五章「好代の棚」


夕方。


業務が終わった。


好代は廊下を歩いていた。


棚を開く。


今日のバーガー。


気配。


世界線。


名前のない記憶。


全部がある。


そして、その奥に。


昨日感じたものとは違う、ほんの小さなにおいがあった。


自分のにおい。


その隣に、別のにおい。


千姿のものなのか。


それとも、ぱんでむそのもののものなのか。


もう判断できなかった。


好代は少し考えた。


そして、棚を閉じた。


「……わからなくてもいいのかもしれません」


答えは出ない。


でも、今日一日で一つだけわかったことがある。


名前がなくても。


記録されていなくても。


誰かが待っていた時間は、消えない。


誰かが好きだったものも。


誰かが帰ろうとしたことも。


名前が変わっても。


場所が変わっても。


それは、その人が過ごした時間として残る。


好代は廊下を歩いた。


その背中を、少し離れた場所から渾沌ちゃんが見ていた。


「……すきよちゃん」


「はい?」


「今日、何食べた?」


「名前のないバーガーです」


「おいしかった?」


好代は少し考えた。


「……おいしかったです」


「そっか!」


渾沌ちゃんが笑った。


それだけで話は終わった。


【クルー視点モノローグ】


秩序――六十日目


今日、登録されていないバーガーを一つ販売した。


規定上は例外処理。


本来なら避けるべきだった。


しかし、記録を確認すると不思議なことが一つある。


販売前には、商品情報が存在していた。


世界線コード。


発生時刻。


保管場所。


担当者。


そして、商品名だけが空欄だった。


販売後。


商品名だけではなく、世界線コードも消えた。


担当者の欄も消えた。


ただ一つだけ残っていた。


「好代、確認済み」


誰が入力したのかわからない。


私は今日、入力していない。


好代さんも入力していない。


それでも記録は残っている。


訂正しようとした。


できなかった。


記録そのものが、訂正を必要としていない状態だった。


だから、そのまま残す。


記録係として。


ただ――


「好代」という名前の横に、以前あった別の名前の記録が、一瞬だけ重なって見えた。


私はそれを消さなかった。


でも、書き足しもしなかった。


名前が同じであることと。


存在が同じであることは。


同じ意味ではないから。


――六十日目、記録終了。

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