第44話「どこからがわたし」
【プロローグ】五十九日目の朝
朝の厨房に、輪廻ちゃんがいた。
右腕が昨日と違う。
好代は一目見てわかった。
「おはようございます」
「おはよー」
輪廻ちゃんは新しい右腕をぶんぶん振った。
「今日のは前より軽いんだよ」
「そうなんですか」
「うん。昨日の腕、万寿ちゃんが持ってっちゃったから」
「……持っていったんですか」
「うん。『非常に美しい状態で保存できました』って」
「腕を?」
「腕を」
輪廻ちゃんは楽しそうだった。
好代は新しい右腕のにおいを確認した。
昨日のものとは違う。
金属。
培養液。
知らない誰かの身体だった時間。
そして、その全部の下に。
輪廻ちゃんのにおいがある。
「……今日の腕、もう少し輪廻さんのにおいがします」
「え?」
「昨日よりです」
輪廻ちゃんが腕を見た。
「まだ一日も使ってないのに?」
「はい」
「じゃあさ」
輪廻ちゃんが腕を曲げた。
「これ、もうわたしなのかな」
好代は少し考えた。
「……どこからが輪廻さんなのか、ということですか?」
「そう」
輪廻ちゃんが笑った。
「それ、今日ちょっと気になってる」
第一章「輪廻ちゃんの実験室」
午後。
輪廻ちゃんの部屋へ行くことになった。
扉を開ける。
培養液。
金属。
薬品。
それから、たくさんの身体のパーツ。
左腕。
右腕。
脚。
耳。
指。
用途不明の小さな部品。
全部が透明なケースに収められている。
一つ一つ、違うにおいがする。
「……にぎやかですね」
「でしょ?」
輪廻ちゃんは嬉しそうだった。
「ここ、わたしが死んだ回数だけ増えてるんだよ」
「……そんなに?」
「正確には、死んだ回数より少ないかな。使い回せるやつもあるから」
さらっと言う。
好代は棚を見る。
その中に、昨日の腕があった。
花が一輪、添えられている。
「万寿ちゃんが返してくれたんですね」
「うん」
「使うんですか?」
「たぶんまた使うよ」
輪廻ちゃんは昨日の腕を見た。
「でも今は、今日の腕があるから」
少し沈黙した。
「ねえ、好代ちゃん」
「はい」
「昨日のわたしと今日のわたしって、同じだと思う?」
好代は答えなかった。
輪廻ちゃんが続ける。
「腕が違う」
「はい」
「昨日の腕は、今ここにある」
「はい」
「でも昨日の記憶は、今日のわたしが持ってる」
「はい」
「じゃあ、わたしってどこにいるんだろうね」
好代は棚を見た。
昨日の腕。
今日の腕。
もっと前の腕。
何度も交換された部品。
全部、別のにおいを持っている。
それなのに。
全部の底に、輪廻ちゃんのにおいがある。
「……私には」
好代が言った。
「輪廻さんは、一つです」
「一つ?」
「はい」
「でもパーツはいっぱいあるよ」
「パーツはいっぱいあります」
好代は一つ一つのにおいを確かめた。
「でも、輪廻さんが使ったことがあります」
輪廻ちゃんが少し黙った。
「……使ったこと」
「昨日の腕も、今日の腕も、もっと前の腕も」
好代は続けた。
「輪廻さんが、それを使ってきた。その事実が全部残っています」
「じゃあ、わたしはパーツじゃなくて……」
「積み重なったもの、なのかもしれません」
輪廻ちゃんが腕を見た。
「……じゃあ、全部なくなっても?」
「はい」
「全部?」
「全部です」
「身体が全部入れ替わっても?」
「はい」
「それでも輪廻ちゃん?」
「輪廻さんが、それを『自分が使ってきた』と思えるなら」
輪廻ちゃんはしばらく黙った。
「……それ、結構好き」
第二章「じゃあ、好代ちゃんは?」
輪廻ちゃんが突然こちらを向いた。
「じゃあ逆に聞く」
「はい」
「好代ちゃんは?」
「私ですか?」
「うん」
輪廻ちゃんが笑った。
「好代ちゃんって、千姿ちゃんの記憶を持ってるじゃん」
好代は少しだけ止まった。
「はい」
「千姿ちゃんの記憶がある」
「はい」
「ぱんでむにもなってる」
「……はい」
「でも、好代ちゃんは好代ちゃんだよね」
「そう思っています」
「じゃあ、どこから?」
好代は黙った。
輪廻ちゃんが聞く。
「千姿ちゃんの記憶が入ってくる前?」
「……」
「入ってきた後?」
「……」
「ぱんでむに来た日?」
「……」
「それとも、三歳の時?」
好代の中に、いくつものにおいが来た。
三歳の渋谷。
マクドナルド。
初めて嗅いだバーガー。
食べた。
死にかけた。
泣いた。
それでも好きだった。
五歳。
七歳。
十一歳。
十七年間。
そして、渾沌に手を引かれて入ったぱんでむ。
千姿の記憶。
クルーたち。
世界線。
全部。
「……わからないです」
好代は正直に言った。
輪廻ちゃんが「そっか」と言った。
「でも」
好代は続けた。
「私は、どちらかといえば好代です」
「どちらかといえば?」
「千姿の記憶もあります。ぱんでむの記憶もあります。でも——」
少し考える。
「十七年間、バーガーを食べられなかったことは、私のことです」
輪廻ちゃんの表情が変わった。
「三歳の時に泣いたことも」
「うん」
「食べたいのに食べられなかったことも」
「うん」
「渋谷で毎日、においを嗅いでいたことも」
「うん」
「ここに来てから、みんなと話したことも」
好代は自分の胸に手を当てた。
「全部、私です」
輪廻ちゃんが静かに笑った。
「じゃあ、わかった」
「何がですか?」
「わたしと同じ」
「……同じ?」
「どこからが自分なのか、探してもたぶん見つからない」
輪廻ちゃんが自分の腕を見た。
「だって、ずっと増えてるから」
第三章「棚の中の知らない腕」
その時だった。
好代が棚の奥に、一つだけ妙なにおいを見つけた。
「……輪廻さん」
「ん?」
「これ」
小さなケースを指差した。
右腕。
まだ使われていない。
「これ、誰のですか?」
輪廻ちゃんが覗き込む。
「知らない」
「知らない?」
「うん。かなり前からある」
好代はにおいを確認した。
知らないにおい。
誰かの身体だった記憶。
でも、その奥に。
ほんの少しだけ。
輪廻ちゃんのにおいがある。
「……これ、少しだけ輪廻さんです」
「え?」
「使っていないのに」
輪廻ちゃんが首を傾げる。
「棚にいたから?」
「そうかもしれません」
「じゃあ、使う前からちょっとわたしなんだ」
「……そういうことになります」
輪廻ちゃんが笑った。
「変なの」
「変ですね」
「じゃあ、もし好代ちゃんがこの腕を見て『輪廻ちゃんの腕です』って言ったら?」
「……それは、違うと思います」
「なんで?」
「まだ輪廻さんが使っていないからです」
輪廻ちゃんが黙った。
「でも、少しだけ輪廻さんのにおいがする」
「はい」
「じゃあ——」
輪廻ちゃんが腕をケース越しに見つめた。
「『まだ輪廻じゃないけど、輪廻になるかもしれない』?」
好代は少し考えた。
「……そうかもしれません」
その言葉を口にした瞬間。
ケースの中の腕から、ほんの一瞬だけ。
別のにおいがした。
輪廻でもない。
誰かでもない。
もっと遠い。
好代は反射的に棚を閉じた。
「……どうしたの?」
「わかりません」
「怖い?」
「怖くはないです」
ただ。
知らないにおいだった。
そしてそのにおいは、なぜか「まだ起きていないこと」のように感じられた。
第四章「交換する人、積み重ねる人」
帰る前。
輪廻ちゃんが言った。
「わたし、たぶん明日も死ぬんだよね」
「そうなんですか」
「うん。予定では」
「予定なんですか」
「だいたい予定」
好代は少し笑った。
「じゃあ、明日の輪廻さんも輪廻さんですね」
「うん」
「新しい腕でも」
「うん」
「新しい身体でも」
「うん」
「記憶が増えても」
「うん」
輪廻ちゃんが少し考えた。
「じゃあ好代ちゃんも」
「はい?」
「明日、何か変わっても好代ちゃんだね」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
「私も全部はわからないので」
輪廻ちゃんが笑った。
「それでいいと思う」
【エピローグ】五十九日目の夜
夜。
好代は廊下を歩いていた。
輪廻ちゃんの実験室の前を通る。
扉の向こうから、培養液の音がする。
棚のにおい。
金属。
身体。
昨日。
今日。
明日。
その全部の中に、輪廻ちゃんのにおいがある。
「……積み重なる」
好代は小さく呟いた。
自分の棚を思い出した。
食べたバーガー。
受け取った世界線。
千姿の記憶。
十七年間の渋谷。
クルーたちとの時間。
全部が自分の中にある。
一つを捨てれば、元に戻るわけではない。
全部を取り替えれば、別人になるわけでもない。
人は、部品ではない。
記憶だけでもない。
名前だけでもない。
たぶん。
「……私は、好代です」
声に出した。
廊下の先から、誰かの足音が聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
でも。
そこには、においが残っていた。
好代のにおい。
今の好代が歩いたことで残ったもの。
そしてその少し先に。
まだ歩いていない場所なのに。
ほんのわずかに。
同じにおいがした。
好代は立ち止まった。
「……?」
もう一度、確認する。
消えた。
何だったのかわからない。
好代はそのまま歩き出した。
まだ食べていないバーガーがある。
まだ行っていない場所がある。
まだ話していない人がいる。
そして。
まだ歩いていない場所にも、自分のにおいが残ることがある。
その意味を、好代はまだ知らなかった。
【クルー視点モノローグ】
輪廻——五十九日目
今日、好代ちゃんに聞いた。
「どこからがわたし?」
答えは、結局よくわからなかった。
でも。
「とりかえてきたことが全部残ってる」
って言われた。
それならいい。
昨日のわたしも。
今日のわたしも。
明日のわたしも。
たぶん全部わたし。
身体が違っても。
腕が違っても。
死んでも。
帰ってきたら、またわたし。
……なんか、これ好きだな。
それにしても。
今日、棚の腕を見て「まだ輪廻じゃないけど、輪廻になるかもしれない」って言った。
それ、ちょっと変だった。
だって、まだ使ってないのに。
どうしてあんなに少しだけ、わたしのにおいがしたんだろう。
まあ。
明日使ってみればわかるか。
明日死ぬ予定だし。
万寿——五十九日目
今日、輪廻の腕を返した。
美しかった。
棚に置いている間に、少し輪廻のにおいが移っていた。
まだ使っていない部品にも、長くそこにいる者の気配は残る。
それは、とても美しい。
輪廻がまた死ぬ。
また返ってくる。
そのたびに、何かが増えていく。
身体ではなく。
輪廻そのものが。
秩序——五十九日目
本日の記録。
輪廻さんが「自己の連続性」について好代さんに質問。
好代さんは、自身について「どちらかといえば好代」と回答。
この回答については保留とする。
千姿との関係についても、現時点では断定できない。
ただし、一点。
本日の好代さんの活動記録に、不可解な記述がある。
「未訪問区域に好代さんの残留臭を検知」
未訪問区域である以上、本来この記録は成立しない。
誤検知の可能性が高い。
訂正は保留。
記録だけ残す。
……理解できないことを記録するのも、記録係の仕事なので。
【五十九日目・深夜】
誰もいない廊下。
誰も歩いていない場所。
そこに。
ほんの少しだけ。
好代のにおいが残っていた。
まだ誰も、それを記録していない。
ただ。
廊下の奥にある古い記録端末だけが、一度だけ点灯した。
表示された文字は、一行。
「記録日時:未確定」
そして。
その下に、まだ誰も書いていないはずの文章があった。
「好代は、ここを通った。」
画面が消えた。
五十九日目の夜は、それ以上何も起こらなかった。
◆ぱんでむ拡張記録:渋谷2.3区画分+1ヶ所+外縁部2ヶ所(五十九日目・変化なし)
――第44話了――




