8話「論理的圧殺」
学生ホールに響いた怒号は、まるで水面に投げ込まれた石のように波紋を広げ、周囲の野次馬たちを呼び寄せていた。
中心に立つのは、獲物を追い詰めた猛禽のような三年生と、震える小鳥のような一年生。そして、その間に平然と割って入った、やる気のない"中身はおっさん"の俺だ。
俺は視界の端に浮かぶL-Gearの検索窓に、目の前の男の特徴を入力し、学園の公開ログを叩く。
「……ふーん。三年の、柘榴坂先輩でしたか。まあまあ、ここは一つ、穏便に済ませてくださいよ」
俺がどこか抜けたような声でそう言うと、男――柘榴坂は、向けようとしていた手を止め、忌々しげに顔を歪めた。
「あ゛? そっちが喧嘩売ってきたんだろうが。……テメェ、どこの組だ。……あ?」
そこで柘榴坂が、何かを思い出したように眉を寄せた。
俺の顔を、上から下まで値踏みするように凝視する。その視線が、俺の左胸にある学年章と、L-Gearに表示されているであろう俺のパブリック・ステータスに固定された。
「……おい。もしかして、二年の炭崎か?」
「なんだ、俺のこと知ってるんすか。なら話が早い。先輩、そこの新入生が困ってるみたいだし、今日はこの辺で――」
「ああ、知ってるさ! 学年どころか学園中で有名じゃねえか! 二年生にもなって、Level 2の万年最底辺。掃き溜めの雑魚野郎だろ!?」
柘榴坂は腹を抱えるようにして、腹の底から嘲るような哄笑を上げた。
その笑い声に誘われるように、周囲の生徒たちからもクスクスという忍び笑いや、哀れみの混じった視線が注がれる。
「ああ、あの炭崎か」「ハズレ能力の無能だろ」――そんな囁きがホールを満たしていく。
「怪我したくなきゃ、とっとと退け。ゴミの分際で、この俺様に指図してんじゃねえよ」
柘榴坂は笑いを収めると、射殺さんばかりの鋭い眼光を俺に向けた。
だが、俺は一歩も引かなかった。
40代の修羅場を潜り抜けてきた精神にとって、この程度の威圧は"元気な若者の八つ当たり"程度にしか感じられない。
「退きませんよ。先輩のその"理的ではない"誘い方に、少し興味が湧いたんでね」
俺の返答が、柘榴坂の癇に障ったのが分かった。
彼の周囲の空気が、急激に重くなる。彼が発するWill-Bitの圧力が、物理的な風となって俺の制服を揺らした。
「――雑魚が生意気によ。……ちっとばかし、痛い目に遭わなきゃ分からねえらしいな……?」
柘榴坂が、両手に装着した重厚なガントレット型のL-Gearを構える。
ガシャリ、という硬質な駆動音が響き、彼の手に濁った赤色のビットが纏い始めた。
周囲の野次馬が「お、やるのか?」「柘榴坂さんは Level 24 だぞ、炭崎が死ぬ」と、ざわめきを大きくする。
だが、俺はむしろ、欠伸を噛み殺したいような気分で彼のガントレットを見つめていた。
「やめときましょ、先輩。そのギア、あと何回か能力回したら、焼き切れますよ」
俺は淡々と、彼の右手の接続部を指差した。
「……あ? 何言ってやがる」
「分からないんですか? 先輩のビットの波形、かなり乱れてますよ。特に、高周波領域のノイズが酷い。どんぶり勘定ですけど、今のあなたの出力効率は……いいとこ40パーってとこじゃないですか?」
彼の視線が、手元に落ちる。
確かに、歳の割に高出力なのは確かだ。しかし、あまりにも無駄が多い。
「……だから、どうしたってんだ。それでも、俺の――」
「大事なのは、こっからでね」
俺は敢えて、言葉を被せるように。
「大事なのは、残りの60パーセント近いエネルギーが、どこに行ってるか、だ。 全部、そのギアの論理回路の"熱"に変換されてるんですよ」
俺の研ぎ澄ませた"解析"は、彼のデバイスの"悲鳴"を正確に捉えていた。
この時代の低品質なギアを無理な高出力で使い回し、さらに調整を怠っている。ハッカーとしての初歩的なメンテナンス不足だ。
「……出まかせ言ってんじゃねえぞ、雑魚がぁっ!」
柘榴坂が激昂し、右拳を振り上げる。
そして、恐らく、その自身の源である、固有定義を発動させようとした――その瞬間だった。
バヂヂッ……!
耳障りなスパーク音と共に、彼のガントレットの隙間から、黒い煙が立ち上った。
纏われようとしていた赤色の光は一瞬で霧散し、焦げ臭い匂いが周囲に漂う。
「……なっ!? なんだ、何が起きた!?」
「あーあ、言わんこっちゃない。それ、完全に基板が融解しましたね。直すの高いっすよ、特注のガントレットならなおさらだ」
俺は一歩も動かず、冷めた視線でその惨状を眺めていた。
柘榴坂は動揺し、煙を吹く自分のギアを呆然と見つめている。周囲の生徒たちの声も、驚愕とどよめきに変わっていった。
「くそっ、テメェ……何をしやがった!」
「俺は何もしてませんよ。ただの"事実の指摘"ってやつです。それにしても、先輩」
俺は、少しだけ声を低くし、彼を一瞥した。
「一学年下、それも非戦闘用の新入生に襲いかかって、挙句に自滅してデバイスを壊すなんて。……これ、相当に野蛮というか、ハッカーとしての品性を疑われますよね。この一部始終のログ、翡翠先生辺りに流したら、ただのお説教じゃ済まないんじゃないですか?」
"翡翠先生"の名前が出た瞬間、柘榴坂の顔が引き攣った。
あの"不屈の壁"の異名を持つ厳格な教官に睨まれれば、この学園でのハッカー人生は終わったも同然だ。
「……チッ、クソが! 覚えてろよ、炭崎! 次会った時は、その減らず口を叩けなくしてやるからな!」
柘榴坂は、壊れたガントレットを抱えるようにして、野次馬を掻き分けながら逃げるように去っていった。
嵐が去ったような静寂。
周囲の生徒たちも、何が起きたのか完全に理解できないまま、興味を失ったように、あるいは俺の"不気味さ"に当てられたように散っていく。
俺は深く、深く溜息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。
「……さて、と」
背後を振り返る。
そこには、まだ震えが止まらない様子で、俺を魔法使いでも見るような目で見つめている少女がいた。
「あ……、あの……」
彼女は、眼鏡の奥の瞳を潤ませながら、消え入りそうな声で口を開いた。
「琥珀川、芽依香……といいます。……助けていただいて、本当に、ありがとうございました……」
少女がぺこりと深々と頭を下げる。
「ああ、ご丁寧にどうも。俺は、炭崎――」
刹那、俺の心臓は、その瞬間に別の意味で激しく鳴り響いた。
「――ちょっと待て、……琥珀川、芽依香?」
脳裏に、2070年の光景がフラッシュバックする。
琥珀川芽依香。
俺の知っている彼女と同じであれば――それは、伝説のエンジニアの名だ。
実際に会ったことこそ無いが、後に、人類最強の武装群を一人で設計し、俺の愛機"フラクタル"のチューニングにも携わった、"鉄の女"と聞いている。
未来では誰もが恐れ、崇めた天才の、あまりに気弱で、あまりに脆弱な、15歳の姿。
「……嘘だろ。これが、あの琥珀川なのか?」
俺は、呆然と彼女を見つめた。
運命という名のコードは、どうやら俺が思っている以上に、とんでもない"不確定要素"を俺の前に投げ出してきたらしい。




