6話「構築の死角(コンパイル・バグ)」
九十九学園の朝は早い。
二年生の基礎課程、一時間目。演習室に並べられた無機質なデスクには、まだ眠気が抜けきらない生徒たちが並んでいる。
教壇に立つのは、翡翠先生とは対照的に、どこか神経質そうな痩せ型の教師だった。彼は手元の計器を叩きながら、ホログラムの黒板に複雑な数式を書き連ねている。
「――いいか、諸君。ハッカーにとって、Will-Bitを操る技術は呼吸と同じだ。だが、その呼吸にも"作法"がある。それが我々が学ぶ"三基底言語"だ」
教師の声を聞き流しながら、俺は、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
三基底言語。未来の俺にとっては、文字通り赤子の這い這いのような基礎中の基礎だ。
1.解析: 対象の情報を読み取り、脆弱性を可視化する"入力"。
2.構築:Will-Bitを実体化させ、現実を定義する"出力"。
3.干渉: 物理法則やシステムに割り込み、制御を奪う"処理"。
これら三つのプロトコルを組み合わせることで、ハッカーは現実という名のプログラムを書き換える。今日の授業課題は、その中の"構築"――Will-Bitを用いて一時的な物質を創り出す訓練だった。
(……それにしても、これからどうしたもんか)
脳内では、授業の内容よりも切実な問題が渦を巻いている。
昨日の放課後、結衣が口にした"新宿第11ダンジョン"での昇格試験。
彼女の運命を変えるには、俺もその場に居合わせる必要がある。だが、現在の俺のLevelは"2"。試験の参加資格であるレベル15には、絶望的に足りない。
(……最悪、試験当日に無断でダンジョンに忍び込むか? ……いや、それは悪手だな)
"大変動"後の崩壊した世界ならいざ知らず、この時代のダンジョン管理は厳重だ。国家資格を持たない者が、あるいは許可なく指定区域に立ち入れば、それは重罪として処理される。
捕まれば学園を退学になり、結衣を近くで守ることすら不可能になるだろう。
(正規のルートでLevelを上げるしかない。……短期間で、それも効率よく)
思考の海に沈んでいた、その時だった。
「――おい。炭崎湊、聞いているのか!」
不意に名前を呼ばれ、俺は現実に引き戻された。
見れば、教壇の教師が苛立たしげに俺を指差している。クラスメートたちの視線が、一斉に俺の窓際最後列へと集まった。
「あ、ああ、すんません。ちっとばかし、考えごとを……」
俺がとぼけた顔で頭を掻くと、周囲からクスクスという忍び笑いが漏れた。
「また炭崎か」「あいつ、いつも上の空だよな」という、いつもの嘲笑だ。
「そうか。それは何よりだ。炭崎、お前にとってこんな基礎技術は余裕すぎて、授業中に深遠な思索に耽る必要があるというわけだな?」
当てつけのような嫌味と共に、教師が顎で黒板を示した。
「ならば、お前が手本を見せてくれ。課題は黒板の設計図通り、ダンジョン探索用の"簡易足場"を構築することだ。時間は……そうだな、お前のような"天才"なら三秒もあれば十分だろう?」
教室内が失笑に包まれる。
この足場の構築は、不規則なWill-Bitの波形を固定しなければならない。基礎課程の二年生にとっては、早くても十数秒はかかる難易度だ。
(……やれやれ。これだから若者は、沸点が低くて困る)
俺は内心で溜息をつき、重い腰を上げた。
中年の精神にとって、この手の子供染みた挑発は、もはや怒りを感じる段階ですらない。
俺は教壇の前に立ち、教師から手渡された演習用のL-Gearを無造作に構えた。
("構築"の要諦は、総量ではなく"密度"だ。……余計なコードを削ぎ落とし、最短距離で現実に固定を当てる)
俺は、L-Gearに意識を流し込んだ。
「――"構築"」
一言。
呟いた瞬間に、俺の指先から放たれた青いWill-Bitの粒子が、空中で幾何学的な模様を描きながら収束した。
シュンッ、という小気味いい電子音。
次の瞬間、そこには完璧な形状の足場が出現していた。
設計図にある誤差ゼロ。Will-Bitのロスもゼロ。
一秒にも満たない、神業のような速度。
「…………な」
教師が絶句した。
掲示板を見ていた生徒たちの笑い声が、ピタリと止まる。
静まり返った教室内で、俺が構築した足場だけが、透き通った青い輝きを放ちながら毅然と存在していた。
(――マズい、やりすぎたか)
あまりに無意識だった。
30年間、死線で生き残るために研ぎ澄ましてきた"当たり前"を、そのまま出してしまった。
この時代、SS級ハッカーは世界に四人程度しかいない。
もし、俺の今の技量が本物だとバレれば、どんな目に遭うか分かったものではない。
軍や企業に捕まり、一生"便利な計算機"としてこき使われ、自由に動くことなどできなくなるだろう。それでは結衣を救うどころではない。
(……修正だ)
俺は、構築した足場の基底部――その一箇所の論理式を、わざと"1ミリ"だけズラした。
本来ならあり得ない、初心者がやるような初歩的なバグの挿入。
ガラガラガラッ!
完璧だった足場が、一瞬でバランスを崩し、勢いよく崩壊した。
粒子となったWill-Bitが空中に霧散し、演習室に虚しい音が響き渡る。
「……ふぅ。やっぱり、難しいっすね」
俺はわざとらしく額を拭い、照れ笑いを浮かべた。
数秒の沈黙。
そして、それまで呆気にとられていた生徒たちが、安堵したようにドッと笑い始めた。
「なーんだ! びっくりした、ズルして一瞬で出したから成功したのかと思ったぜ」
「炭崎、お前、急ぎすぎて構築手順を飛ばしただろ」
「見ろよ、あのボロボロの崩れ方! やっぱ炭崎は炭崎だな」
教師も、一度は戦慄した表情を露骨に緩め、咳払いを一つした。
「……コホン。炭崎、お前はまだまだ、訓練が足りんな。速度を意識するのは良いが、基礎の安定性を疎かにしては実戦で死ぬぞ。……席に戻れ」
「はい。すんませんでした」
俺はとぼけたふりをしながら、頭を下げて席に戻った。
窓の外。
人工太陽に照らされた校庭を眺めながら、俺は冷や汗を拭う。
危なかった。
枯れたふりをするのはおっさんの得意分野だが、現役の感覚がこうも身体に染み付いているとは。
(……目立たずに、かつ確実にLevelを上げる方法。やっぱり、学校のカリキュラムじゃ限界があるな)
学園のシステムに監視されている以上、授業で異常な数値を出すわけにはいかない。
ならば――と、俺は思考を巡らせる。
取ることができる手段は、どうやらそこまで多くはなさそうだった。




