4話「1%の虚飾」
ホームルームが終わると、九十九学園の初日は騒がしく動き出した。
午前中の身体測定を終え、昼休みを挟んだ午後の予定は、全生徒にとって最も憂鬱であり、かつ最も誇らしい時間――"固有定義"測定だ。
地下二階にある巨大な演習ホールへと続く長い廊下を歩きながら、隣を行く結衣の顔は、朝の元気はどこへやら、ひどく浮かない様子だった。
「あーあ……。どうしよう湊。私、春休みに固有定義の訓練、サボっちゃった」
「サボってたのか?」
「宿題が忙しかったの! あー、もう。評価、下がっちゃったらどうしよう。鋼級への昇格、遠のいちゃうかも……」
結衣は自分のポニーテールをいじりながら、情けない声を漏らす。
ハッカーを評価する基準は大きく分けて二つある。
一つは、"マテリアル・コード"。
これはハッカーの意志ビットの総量や演算速度、これまでの戦果などを総合的に数値化した"物差し"だ。
一から百までの"Level"で表され、その数値に応じて、鉛級、鋼級、銀級といった階級に分類される。
そしてもう一つ、ハッカーの個性を決定づけるのが、"固有定義"だ。
一人に一つ備わった、世界を書き換えるための独自の"異能力"。
どれほどレベルが高くても、この固有定義が使い物にならなければ、実戦ではただのデカいバッテリーでしかない。逆に、レベルが低くても定義さえ強力であれば、一発逆転の可能性を秘める"最強の武器"になり得る。
「まあ、別にお前はいいだろ。もともと強い固有定義なんだからさ。多少サボったところで、お前の"蓄光"が錆びつくとは思えないしな」
「そうかなぁ……。でも、湊はいいよね、いつも落ち着いてて」
結衣が羨ましそうに俺を見る。
俺は肩を竦めた。
「俺なんて、最初から期待されてないんだ。悩むだけ無駄だよ」
口ではそう言いつつ、俺は自分の胸の内に意識を向ける。
俺の固有定義、"最適化"。
Will-Bitの燃費効率をわずかに向上させるだけの、この時代の評価基準では"ハズレ"の代表格。
だが、47年の地獄を経て、俺はこの能力を磨き上げている。そうして、SS級ハッカー、マテリアル・コードで言えば、最上位の金剛級まで上り詰めたのだ――。
(――もっとも、それを今ここで披露するつもりは、毛頭ないがな)
演習ホールに辿り着くと、そこには既に多くのクラスメートが集まっていた。
ホールの中心には、教官の翡翠先生が、手元に計測用の特殊なL-Gearを携えて立っている。その鋭い眼光に見据えられ、生徒たちの間に緊張が走る。
「では、測定を始める。名前を呼ばれた者から前へ出ろ」
翡翠先生の冷徹な声が響き、測定が始まった。
「次。田中、前へ」
呼ばれた男子生徒が、意気揚々と中央へ進み出る。
彼は自身のL-Gearを構え、全身のWill-Bitを右手に集中させた。
「はあああぁっ!」
瞬間、彼の周囲に浮遊する無数の石の礫が出現した。
それは凄まじい風切り音を立てながら、ショットガンのように演習用のターゲットへと叩きつけられる。
派手な音と共に、ターゲットの装甲が火花を散らして凹んだ。
「……ふむ。出力は安定しているが、無駄な散乱が多すぎるな。ビットの三割が空気抵抗で霧散している。評価、55点。次」
翡翠先生の辛口な採点に、田中と呼ばれた生徒は肩を落として戻っていく。
俺の目から見ても、今の攻撃はひどく"汚いコード"だった。
出力を上げることばかりに意識が行き、そのリソースがどう流動しているかが見えていない。若さゆえの暴走――。47歳の俺からすれば、微笑ましいとさえ思える。
「次。蛍原、前へ」
名前を呼ばれ、結衣の身体がビクッと跳ねた。
彼女は不安げな視線を俺に一度投げると、意を決して翡翠先生の前へ進み出た。
「蛍原結衣。……いきます!」
彼女がデバイスを掲げた瞬間、演習ホールの照明が、まるで彼女に吸い込まれるように屈折した。
固有定義、"蓄光"。
L-Gearに溜め込んだ光をエネルギーに変換し、自身のビットと同期させる、極めて稀少かつ強力な定義だ。
彼女の全身が、眩いばかりの純白の輝きに包まれる。
一歩。
彼女が踏み出した瞬間、その姿が残像となって消えた。
高速移動。
そして次の瞬間には、ターゲットの背後に現れた彼女の指先から、極太の光条が放たれた。
ドォォォォン!
爆音。
演習用ターゲットの中央に、綺麗な円形の溶断孔が空いていた。
「……悪くない。休みの間に多少の緩みは見られるが、ビットの純度は高い。評価、88点。合格圏内だ」
「……っ! あ、ありがとうございました!」
結衣がパッと顔を輝かせ、スキップせんばかりの足取りで戻ってくる。
周囲の生徒たちからは、「さすがは特待生候補だ」と称賛と嫉妬の混じった視線が送られていた。
「湊、見た!? 私、なんとか大丈夫だった!」
「ああ、お見事。やっぱりお前は凄いよ、結衣」
俺が本心から褒めると、結衣は少し照れくさそうに笑った。
そして。
「次。炭崎、前へ」
ついに、俺の番が回ってきた。
周囲の空気が、一気に弛緩するのがわかる。
期待の眼差しは消え、代わりに"休憩時間"のような、あるいは"滑稽な見世物"を見るような、侮蔑ぶべつの入り混じった冷ややかな視線が俺に刺さる。
(……さて、どうしたものかな)
俺はゆっくりと翡翠先生の前へ歩み寄った。
翡翠先生は、相変わらず無表情で俺を見つめている。だが、その瞳の奥には、どこか俺という存在を値踏みするような鋭さがあった。
「始めろ」
「はい」
俺は、腰にある鉛色のL-Gear――学校支給の安物に手を添えた。
本来なら、俺が本気でWill-Bitを回せば、このホール全体のエネルギーバランスが崩壊しかねない。
だが、今の俺に求められているのは、そんな"最強"の姿ではない。
俺は、脳内にある膨大な演算回路の99パーセントを意図的にシャットダウンした。
残されたわずか一パーセントの領域で、極めて限定的な、極めて"つまらない"コードを走らせる。
「――実行」
微かな起動音。
デバイスから漏れ出たのは、結衣の輝きとは比較にならないほど、細く、頼りない青い光の粒子だった。
俺は、その光を自分の身体の周りに、薄い膜のように展開させた。
燃費効率を向上させる。
それだけの、視覚的にも地味な現象。
(……まあ、こんなもんだろ)
数秒間、その"粒子"を維持し、俺はデバイスを収めた。
「…………」
翡翠先生は、手元の計器をじっと見つめていた。
そして、短く告げる。
「評価、12点。ビットの消費効率上昇率は、1.0パーセント。……相変わらずだな」
その言葉を合図に、教室内から失笑が漏れた。
「ひでぇ……。1パーセントって、誤差だろそれ」
「固有定義ってより、ただの節約術だよな」
「炭崎、あいつ、よくあんなので九十九学園に入れたよ。運だけはいいのかね」
ひそひそと聞こえる嘲笑の声。
結衣が「ちょっと、あんたたち!」と怒鳴ろうとするのを、俺は片手で制した。
「湊……」
「いいんだ、結衣。事実だしな」
俺は、肩を竦めて自分の席へと戻った。
憤りなど微塵もない。むしろ、計画通りに事が進んだ安心感の方が大きかった。
俺の目的は、ここで誰かに認められることではない。30年分の蓄積を使って、やりたい放題やろうなんてことは、微塵も考えていない。
悪目立ちはむしろ避けた方が無難だ。今はまだ、"無能な炭崎湊"という隠れ蓑が必要だろう。
(俺の力なんて、今はこんなもんでいいのさ)
誰にも聞こえない声で、俺は独りごちた。
枯れたふりをするのは、中年ハッカーの得意分野だ。
だが。
俺が席に戻る際、一瞬だけ翡翠先生と目が合った。
彼は相変わらず無表情だったが、その計器を持つ指先が、ほんのわずかに震えていたのを、俺は見逃さなかった。
12点という低い点数は、あくまでも固有定義の強度だ。
しかし、気が付いたのだろう。最適化ビット効率――その1.0パーセントという上昇率が、コンマ以下の桁まで寸分も狂わず、"完全な一定値"で維持されていたことの異質さに。
この場にいる"子供"たちの中で唯一、あの男だけが。
(……へえ、バレちまったか)
まあ、いい。
今日はこれで終わりだ。
俺は、自分を笑うクラスメートたちの間を抜け、ホールの出口へと歩き出した。
外は、まだ明るい。
2040年の、穏やかで脆弱な人工太陽が、俺の背中を照らしていた。




