3話「境界線の箱庭」
すべては、2030年代に確立された一つの理論から始まった。
"情報質量理論"。
かつては形のない、ただの概念に過ぎなかった"情報"に物理的な質量が存在することを証明したその理論は、世界の在り方を根底から書き換えた。
人間の想像力、すなわち"強い意志"は、量子レベルでの観測を確定させ、現実の物理法則を上書きする力を持つ。その理論を応用し、意志をデジタル的なエネルギーへと変換する手法が確立された。
そうして取り出されたエネルギーが"Will-Bit"だ。
だが、この全能に近い力は、世界に恐ろしい副作用をもたらした。
の利用拡大と足並みを揃えるように、世界各地で物理法則がバグを起こした異空間、通称"ダンジョン"が出現し始めたのだ。
ダンジョンの内部は、既存の科学が通用しない情報の吹き溜まりだ。そこに巣食う異形の怪物"電想霊"を屠れるのは、自らの意志で現実を再定義できる者――。
いつしか、人は彼らを"ハッカー"と呼ぶようになった。
ダンジョンという混沌をハックし、世界の秩序を書き換える者。それがこの時代の、そして未来における俺たちの定義だ――。
「――湊、何ボーッとしてるのよ。まだ眠いの?」
覗き込んできた結衣の声に、思わずハッとする。
地下鉄の車内は、新学期を迎えた学生たちの熱気で満ちていた。ガタゴトと、規則正しい振動が尻に伝わってくる。
「……いや、まあ、なんでもないさ。昨日、ちょっと夜更かししすぎちまってさ」
「そうなの? どうでもいいけど、寝過ごしちゃっても起こさないからね」
「わかってる、気をつけるさ」
そんな、何気ないやり取りを交わしつつ、俺は、左目に装着したL-Gearに意識を向ける。
視界の隅に流れるシステムログ。現代の標準的なセキュリティプロトコル。
47歳のSS級ハッカーとしての視点から見れば、この時代の公共ネットワークは穴だらけだ。指先一つ動かすだけで、この電車の制御権を奪うことすら容易い――。
「なによ、さっきからニヤニヤして。湊、やっぱり今日おかしいわよ?」
隣で吊革にぶら下がるように掴まっていた結衣が、怪訝そうに俺の顔を覗き込んできた。
30年前の彼女。まだガイストの恐怖も、己の運命も知らない、ただの17歳の少女。
「……いや。学園のセキュリティも、意外とガバガバだと思ってな」
「はぁ? 何言ってんのよ。九十九学園のファイアウォールは国内最強だって、昨日のニュースでも言ってたじゃない」
「ああ、そうだったっけ?」
そんな俺を見て、結衣が大きな溜息を吐いた。
「あんた、相変わらずね。本当に学校のこと、興味ないんだから」
「そんなことはないぞ、ちゃんと考えてるさ、将来のことは、色々とな」
嘘だった。この頃の俺は、学校をサボることと、遊ぶことしか考えていなかったはずだ。
それを見抜かれていたのだろう。彼女は呆れるように肩を竦めながら。
「……どうでもいいけど、今年こそはまともな成績取らないと、再来年の学科振分けで"普通科"行きになっちゃっても知らないわよ」
「……そうだったな。そんな話もあった」
俺は苦笑して誤魔化した。
九十九学園は5年制の高専だ。4年生になれば、エリートが集まる"現実編綴学科"や"論理装具工学科"などの専門学科へと分かれる。だが、そのためには今の基礎課程で一定以上の成績を収めなければならない。
基礎課程の成績が悪く、素養がないと判断されれば、"普通科"に編入される――つまりそれは、ハッカーとしての終わりを意味する。
そんな結末を恐れていたのも、今は懐かしい。
――と、俺が感慨に浸っていると、不意に、結衣が視線を外に投げた。
「あ、そろそろ見えてきたわよ。ほら、学校」
俺も、彼女に従い、外を見ることにした。
俺たちが向かっているのは、東京都郊外の地下に建設された巨大施設"セクター09"。
特異点となるダンジョンを封じ込めるために築かれた巨大な地下要塞であり、その中心に位置するのが、俺たちの学び舎だ。
『九十九式現実定義技術専修学校』。
通称、九十九学園。
五年制、高等専門学校に相当する、世界最高のハッカー育成機関。
未来では既に、"崩壊した瓦礫の山"となってしまったその場所は、今は眩いばかりの白亜の殿堂として地下深くに鎮座している。
『次は、九十九学園前。九十九学園前。お出口は左側です。不確定情報の漏洩にご注意ください』
アナウンスと共に電車が速度を落とす。
駅のホームに降り立った瞬間、肌にピリピリとした感覚が走った。
学園全体を包む巨大な演算補助フィールド。
エスカレーターを上り、改札を抜ける。
その先に広がる校門の前には、既に多くの生徒が集まっていた。
「……あ」
大通りの中心。
喧騒に沸く生徒たちを、微動だにせず見守る一つの影があった。
黒い教職員用コートを纏い、短く切り揃えられた黒髪。
一切の妥協を許さない、鋭利な刃物のような眼光。
そこに立っているだけで、周囲の空気がピンと張り詰めるような圧倒的な威圧感。
「…………」
俺の足が、無意識に止まった。
脳裏に、未来の光景がフラッシュバックする。
燃え盛るシェルター。数千のガイストをたった一人で食い止めていた、血まみれの巨匠。
『……炭崎、行け。ここは俺が時間を稼ぐ。……お前は、まだ死ぬべきハッカーじゃない』
かつて、俺の背中を押してくれた恩師。
殿を務め、文字通り"不動の壁"となって消えていった男。
「……ああ。懐かしい姿だ。確か――翡翠先生、だったか」
翡翠厳一。
学園の教官にして、現役のハッカー。
記憶の中と、何も変わっていない。
彼もまた、未来では故人となってしまっている。
最後に見た彼よりも少しだけ若く、その瞳にはまだ守るべき教え子たちへの厳しさが満ちている。
彼が生きて、そこに立っている。その事実だけで、俺の胸の奥が熱くなるのを感じた。
「湊、急いで! もう始まっちゃうわよ!」
結衣に促され、俺は歩き出した。
翡翠先生の前を通り過ぎる。
一瞬、彼と視線が交差した気がしたが、俺はすぐに目を逸らした。
今の俺は、基礎課程二年生の劣等生だ。彼のような達人の目に留まるはずもない。今は、まだ。
「湊、何よ勝手に冷や汗かいちゃって。翡翠先生が怖いのはいつものことでしょ。ほら、行くわよ!」
結衣はケラケラと笑いながら、校舎へと走っていく。
俺は、彼女の後ろ姿を見ながら、大きく息を吐き出した。
人工太陽の光が降り注ぐ中庭を抜け、校舎へと足を踏み入れる。
廊下には、かつての級友たちの姿が見える。
俺を馬鹿にしていた奴ら。俺を見捨てた奴ら。そして、未来で俺を庇って死んでいった奴ら。
すべてが、やり直しだ。
"基礎課程二年生・三組"。
その教室のドアの前に立ったとき、俺の胸の中にあったのは、懐かしさではなく、静かな決意だった。
ポケットの中で、鉛色のL-Gearを握りしめる。
かつて、俺は自分の無能さに絶望し、俯いてこのドアを開けた。
だが、今は違う。
この安っぽいデバイスの中にある俺の意志は、既にこの時代のどんな天才をも凌駕している。
「……さて。二度目はどんな風に、楽しもうか」
俺は不敵な笑みを浮かべ、教室のドアへと手をかけた。
炭崎湊、二度目の学園生活。
その最初のページが、今、開かれる。




