2話「再起動の朝」
眩しい。
視界を焼くような白光に、俺は反射的に腕で顔を覆った。
おかしい。
2070年の東京に、これほど純粋な太陽の光など存在しないはずだ。あの街の空は、いつだって電磁ノイズの雲に覆われ、毒々しい紫色の光を放っている。
それに、身体が妙に軽い。
47年間、戦いと酒で磨り潰してきた関節の痛みも、脳を締め付けるような演算疲労も、嘘のように消えている。
それどころか、鼻を突くのは死臭や焦げた情報の匂いではなく――。
「……古びた、畳の匂い?」
俺はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、剥がれかけた壁紙と、山積みの漫画。そして、机の上に置かれた飲みかけのペットボトル。
安アパートの六畳一間。
そこは、俺が17歳の頃に住んでいた、かつての自室だった。
「……なんだ、これは。死に際に見てる夢……とかか?」
心臓が不快なほど速く脈打っている。
俺はふらつく足取りで立ち上がり、壁に掛けられた古いカレンダーに目をやった。
『2040年 4月』
2040年。
そんな馬鹿な、と言葉が漏れる。今から30年前。人類がまだダンジョンに希望を抱き、致命的な絶望なんて存在もしなかった頃の、平和な時代。
俺は部屋の隅にある姿見の前に立った。
鏡の中にいたのは、こけた頬も、鋭すぎる眼光も、白髪混じりの無精髭もない――。
どこにでもいるような、冴えない17歳の少年だった。
「……ははっ。冗談だろ」
自分の顔を触る。肌には張りがあり、傷一つない。
SS級ハッカーの証である最高級のギア、"フラクタル"はどこにもなく、代わりに机の上にあるのは、学校から支給された普及型のL-Gear。
鉛色の、安っぽいプラスチックの塊だ。
「……ってことは、今、俺は17歳……ってことになるのか?」
信じられなかった。
あの第11ダンジョンの最深部で、俺の胸は確かに貫かれたはずだ。存在というデータがデリートされていく感覚も、はっきりと覚えている。
あの瞬間に起動した、あの"Protocol 17/47"という謎のコードが、俺をここへ運んだというのか。
混乱する頭でL-Gearを手に取り、起動コマンドを叩いた。
網膜上に投影されるステータス画面。そこにある数字は、さらに俺を絶句させた。
『Name: Minato Sumizaki』
『Rank: Lead(鉛)』
『Level: 2』
『Signature: 最適化 (Efficiency +1.0%)』
「効率、1パーセント……。そうだった。当時はこれが俺の限界だったんだ」
30年後の俺なら、鼻で笑うようなゴミ同然の数値。
だが、この肉体とデバイスが現実であることを、その低すぎるステータスが無情にも告げていた。
これは夢ではない。
本物の、過去。
あるいは、地獄の続きか。
その時。
薄い木製のドアを、三回、リズミカルにノックする音が響いた。
トントントン、と。
懐かしい、そのリズム。
かつて俺の日常そのものだった、聞き間違えるはずのない音。
「……っ」
心臓が、喉まで跳ね上がった。
そんなはずはない。彼女は死んだ。俺の目の前で、冷たい結晶の一部になって消えたんだ。
だが、ノックの後に続いたのは、俺の魂を直接揺さぶるような、高く透き通った声だった。
「湊! ちょっと、いつまで寝てるのよ! 今日から新学期だって言ったでしょ!」
返事も待たずに、ドアが乱暴に開けられる。
朝日を背に受けて部屋に入ってきたのは、少し短い制服のスカートを揺らした、一人の少女だった。
「…………結、衣」
そこに立っていたのは、蛍原結衣だった。
物言わぬ遺品ではない。
柔らかい茶髪を揺らし、健康的な肌の色をした、17歳の彼女。
瞳には意志の強い光が宿り、少しだけ怒ったように眉を寄せている。
「なによ、その顔。まだ夢でも見てるの?」
結衣は呆れたように笑い、ずかずかと俺の目の前まで歩いてきた。
彼女の匂いがする。洗剤と、少しだけ甘い、生きた人間の匂い。
幻じゃない。
彼女の喉は、確かに動いている。心臓は、確かに打っている。
「……ああ、そうだな。夢かも、しれない」
声が、震えた。
止めようと思っても、視界が急速に歪んでいく。
47歳の老兵として、あらゆる絶望に耐えてきたはずの俺の決壊は、あまりにも容易かった。
「ちょ、ちょっと湊!? なんで泣いてるのよ!?」
結衣が慌てたように顔を覗き込んでくる。
温かい。彼女の手が俺の肩に触れる。その感触だけで、俺の胸の奥にある、黒く焼け焦げた塊が、激しく疼いた。
「悪い……。なんでもないんだ。……ただ、本当に、お前がそこにいるんだなと思って」
俺は顔を覆い、静かに涙を流した。
声を上げて泣くことさえ忘れていた。
30年間、俺がどれほどこの光景を望んだか。
どれほどこの言葉を伝えたかったか。
「もう、何寝ぼけてんのよ」
結衣は少しだけ困ったように、でも優しく俺の背中を叩いた。
「今日から新学期! 九十九学園の2年生でしょ? 早くしないと、遅刻するわよ!」
結衣が笑っている。
太陽のような、何の翳りもない笑顔。
俺は、涙を拭った。
これが、末期に見ている夢なのか、それとも、俺の想像や妄想の類なのか。
そんなことはもう、どうでもよかった。
結衣が生きている。
それだけで、俺がこの景色をもう一度やり直す理由は十分すぎる。
「……ああ、わかってる。すぐ準備する」
俺は机の上の、鉛色のL-Gearを手に取り、歩き出した。




