1話「最強ハッカー、死に場所を求める」
2070年。空は、死んだ瞳のように濁っていた。
かつて青かったはずの天蓋は、10年前の"大変動"以来、厚い電子ノイズの雲に覆われ続けている。時折、毒々しい紫色の稲光が地表をなめるように走り、ひび割れたアスファルトを照らし出していた。
「……また、同期がズレているな」
路地裏のバー。俺――炭崎湊は、安物のグラスを揺らしながら、左目に装着した単眼型デバイス"L-Gear"の数値を眺めていた。
視界の隅で、現実世界の解像度がわずかに揺らいでいる。
この世界は今、ダンジョンから溢れ出した"不確定なデータ"に侵食され、物理法則そのものがバグを起こしていた。
「湊。飲みすぎだ。お前の脳、そろそろ焼き切れるぞ」
カウンターの向こう側から、掠れた声が飛んできた。
瑪瑙 治。通称、ジジ。
かつての腕利きエンジニアも、今や全身の半分以上を機械化した、ただのジャンク屋だ。
「……焼き切れてくれた方がマシだ。寝るたびに、クソみてえな記憶が自動再生されるよりはな」
吐き捨てるように言い、酒を煽った。五十路を目前にした体は、酒毒に麻痺してしまい、どこか感覚も遠い。
俺は、世界に数人もいないとされるSS級ハッカーだ。
この時代、ハッカーとは単なる情報盗取者ではない。人間の脳が放つ強い"意志"をエネルギー――"Will-Bit"へと変換し、L-Gearを通じて現実を強引に書き換える、現実を変える権利を持つ者たちだ。
俺たちはこの力で、ダンジョンから這い出す異形の怪物――"電想霊"を屠ってきた。
通常の兵器が効かない"情報質量の塊"であるガイストを殺せるのは、奴らの存在定義を上書きできるハッカーの能力だけだ。
だが、その結果はどうだ。
仲間は死に、故郷は消え、残ったのは酒に焼かれた内臓と、"確定事象"という皮肉な二つ名だけだ。
俺が介入すれば、勝利という結果は"確定"する。だが、その過程で失われるものは、何一つ救えなかった。
「ジジ。……俺は、文字通り"炭"みたいに燃え尽きちまった。あとは、どこで灰を捨てるか。それだけだ」
「……バカ野郎が。お前さん、最強のSS級ハッカーだろうが、湿気た面してんじゃねえよ」
ジジは呆れたように首を振り、カウンターに一枚の黒い電子チップを滑らせた。
「匿名の依頼だ。場所は"新宿第11ダンジョン"。今じゃあ、S級指定の禁域だぜ」
俺の手が、ぴたりと止まった。
第11ダンジョン。
30年前。俺が守れなかった、幼馴染が命を落とした場所。
「……誰が、そんなところへ行けと?」
「匿名だ。暗号が掛かっててな。お前さんなら、解けんだろ」
「まあ、な。ったく、面倒なことしやがって……」
L-Gearでチップを読み取る。
網膜上に投影されたのは、稚拙な暗号化アルゴリズムをベースにした文字列。
パズルを揃えるように、順に解いていく。そうしているうち、現れた言葉に、俺は目を奪われた。
「よう、湊。なんて書いてあったんだ?」
「…………」
俺は、無言でデータを開示した。
そこに書かれていたのは、一人の人名。
"蛍原結衣"。
脳が、物理的に殴られたような衝撃。
それは30年前、この場所で死んだはずの、幼馴染の名前だ。
酒で焼けて止まっていた俺の心臓が、不快なほどに激しく脈打ち始めた。
「……こりゃあ、お前。流石に怪しすぎんだろ、止めとけよ」
ジジが、怪訝そうに眉を寄せる。
罠かもしれない。あるいは、死に場所を探している俺への、地獄からの招待状か。
しかし、俺の答えは決まっていた。
「……サンキューな、ジジ。これが終わったら、ツケ払いに来るよ」
「おい、湊……。お前、まさか、死にに行こうとしてるんじゃねえだろうな」
ジジの問いに、俺は答えなかった。
ただ、腰のホルスターに収められた愛機――"フラクタル"の重みを確かめ、雨の降る夜の街へと消えていった。
新宿第11ダンジョン。
かつては平和な地下鉄の駅だった場所は、今や巨大な黒い結晶体に覆われていた。
現実と虚構の境界が曖昧になり、物理法則がバグを起こしている特異点。
「……静かすぎるな」
俺は、黒いバトンのような形状をしたL-Gear"フラクタル"を抜き放った。
思考を加速させ、脳内のニューロンが発火するエネルギーをデバイスに充填する。
[ 認証:炭崎 湊 ]
[ 実行プロトコル:最適化 ]
フラクタルの表面に幾何学的な紋様が浮かび上がり、それは瞬時に変形。
重なり合う三角形の刃が連なり、無限の階層構造を持つ大剣へと姿を変えた。
周囲に蠢いていた、半透明な獣の姿をしたガイストたちが、俺から放たれる圧倒的なWill-Bitの圧力に耐えかねて霧散していく。
SS級の俺にとって、この程度の"敵"は存在しないも同然だ。
だが、深部へ進むにつれ、その余裕は冷たい戦慄へと変わっていった。
「……なんだ、このログは」
視界のL-Gearが、あり得ないエラーを吐き出していた。
[ 空間定義エラー:未定義の座標が検出されました ]
突如、背後の空間が"剥がれた"。
音もなく、気配もなく、ただそこに"虚無"が口を開けたような違和感。
俺は、長年の戦場経験だけでその場を跳躍した。一瞬前まで俺がいた場所が、文字通り"消滅"している。
「"解析"――ッ!?」
咄嗟に、周囲のデータ解析を挟む。しかし、俺の狙いは空振りに終わった、
「――反応が、ない?」
戦慄とともに振り返る。
そこに立っていたのは、漆黒の霧を纏った"人型"の何かだった。
顔はない。ただ、無数の文字列が猛烈な速度で流れる、空虚な闇があるだけ。
ガイストじゃない。この世界の要件で記述されていない何か。
黒い敵が、腕を振り上げた。
その動作には過程がない。振り上げた、という原因の次に、既に俺の胸元に拳があるという"結果"だけが叩きつけられる。
「ッ……! "干渉"――座標固定!」
俺は瞬時に空間の物理定数を書き換え、絶対の防御壁を構築した。
俺が全リソースを注ぎ込んだ、世界で最も硬い"最適解"。
だが。
パリン、と。
冬の氷が砕けるような、呆気ない音が響いた。
「……な……に?」
防御壁を、黒い腕が透過してきた。
いや、透過したのではない。俺が構築した"防御壁が存在する"という事実そのものが、上書きされていた。
「が……はっ……!!」
胸を、冷たい衝撃が貫いた。
痛みは、なかった。ただ、自分の存在というデータが、末端から急速に消去されていくような、絶望的な喪失感だけがあった。
俺は、地面に転がった。
視界が急速にノイズで塗りつぶされていく。
L-Gearの警告音が、遠くで壊れたレコードのように鳴り響いていた。
「……ハハッ、笑えねえな……」
口から溢れるのは、鉄の味がする鮮血。
SS級ハッカー、炭崎湊。"確定事象"と謳われた俺の最期が、正体不明の"バグ"にハックされて終わりか。
「……でも、まあ……悪くないか……」
霞む視線の先、足元に何かが落ちていた。
それは、30年前。俺が守れなかった結衣が身につけていたはずの、今はもう輝きを失った髪飾りの欠片。
「結衣……。ようやく、そっちに……行ける……」
俺は、震える指を髪飾りに伸ばした。
だが、その指が触れる前に、意識は急速に冷えていく。
脳が、活動を停止しようとしている。
その時。
――俺の耳に、機械的な声が届いた。
[ 緊急事態:システム・メルトダウンを検知 ]
[ 最終生存プロトコル:Protocol 17/47 を起動します ]
(……なんだ、これ。……こんなの、知らないぞ……)
俺の意志とは無関係に、残されたすべてのWill-Bitが、一箇所に収束していく。
それは敵への反撃ではなく、自分自身を消去することでもなく。
[ 実行中:情報の再帰演算]
[ ターゲットデータ:2040年・4月1日 ]
世界が、真っ白に染まった。
耳を劈くような電子音が響き、俺の魂という名の"コード"が、世界の外側へと射出される。
最後に聞こえたのは、無機質なシステム音声だった。
[ システムを再起動します。 ]
[ 良い生涯を、ユーザー。 ]
そこで、俺の意識は完全に途絶えた。




