38話「書き換えられた運命(コード)」
鼻を突く消毒液の匂いと、規則的に刻まれるバイタルモニターの電子音。
重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは、ひどく無機質な白い天井だった。
「……ここ、は」
自分の声が、驚くほど掠れている。喉が焼けるように熱い。
起き上がろうと身体に力を込めた瞬間、全身の節々に走ったのは、電流のような激痛だった。
「――っ! 先輩! 先輩が、目が覚めましたぁぁぁ!!」
鼓膜を震わせる絶叫。視界の端から飛び込んできたのは、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした琥珀川芽依香だった。彼女は俺のベッドに縋り付くようにして、子供のように号泣し始める。
「よせ、琥珀川。……病人の耳元で大声を出すな」
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子。そこに座り、不機嫌そうに鼻を鳴らしたのはジジだった。だが、腕組みをしたその指先が微かに震えているのを、俺の目は見逃さない。
「フン。無茶を通り越して自殺志願者かと思ったぜ。"ヴォルテクス"をあそこまでボロボロにしやがって……おかげで俺の仕事が山積みだ」
「……悪かったよ。でも、おかげで生きてる」
俺は苦笑し、自分の掌を見つめた。
指先一つ動かすのにも、ひどい抵抗感がある。
精神や技術は健在でも、17歳の肉体には、あの"フラクタル"の行使はあまりに過酷な負荷だったらしい。まるで、細い電線に超高電圧を無理やり流したような感覚だ。
(……"フラクタル"、か)
辺りを見回してみるが、あの漆黒のバトンはどこにもない。
右手の感覚を探ってみても、あの異次元の演算能力との接続は既に断たれている。
やはり、あれはこの時代に存在する実体ではなかったのだ。俺が命を落としたあの日、あの場所で情報として霧散したはずのギアが、俺の意志の回帰に引き寄せられて結実した、一時的な影法師。
それがもうここにないことは、口惜しくもあったが――それ以上に、寂しかった。
「湊。……お水、飲む?」
花瓶の水を替えていた結衣が、静かに歩み寄ってきた。
彼女の瞳は赤く腫れている。俺が意識を失っていた間、ずっとここにいたのだろうか。
「ああ、悪い。……俺、どれくらい寝てた?」
「3日。……丸3日、ずっと眠りっぱなしだったのよ」
結衣がコップを差し出しながら、少しだけ呆れたように、けれど愛おしそうに目を細めた。
一口含んだ水が、乾き切った体に染み渡っていく。
――結衣の話によれば、あの後、新宿第11ダンジョンの崩落は急速に収束したという。
異変を察知した他の受験者が発した緊急信号を受け、学園の救助部隊――翡翠先生を含む一線級のハッカーたちが深層に突入。そこで彼らが目にしたのは、半壊した第14階層で意識を失っていた俺と、それを必死に守っていた結衣、そして満身創痍の尖晶先輩の姿だった。
「……他のみんなは?」
俺の問いに、結衣の表情が曇った。
「尖晶先輩は……戦闘用のL-Gearは全損したけど、命に別状はないわ。でも、一緒にいた四回生の人たちは……公式には"行方不明"。事実上の、死亡扱いね」
なるほどな、と俺は窓の外の街並みを眺めた。
確かに、歴史は変わった。
30年前、ここで確実に死ぬはずだった結衣は今、俺の隣で息をしている。
だが、俺が払った対価と、俺の力をもってしても掬い上げられなかった命が、確かに存在する。
"致命級"の顕現というバグを正すためには、これだけの犠牲が必要だったということか。
「湊? どうしたの、難しい顔して」
結衣が心配そうに顔を覗き込んでくる。
俺は、なんでもない、と笑って誤魔化したが、胸の奥に澱のように残っている"懸念事項"が、静かに警鐘を鳴らし続けていた。
意識を手放す寸前、俺が結衣の背後に感じた、あの微弱なノイズ。
あれは、ダンジョンの異常ではない。
(……間違いない。あれは、結衣から放たれていたものだ)
俺の脳裏に、2070年のあの日、俺の命を奪った瞬間の記憶が蘇る。
俺の背後から、心臓を論理的に貫いた漆黒の人影。
その顔は、ノイズに隠れて見えなかった。
だが、その影が消え去った後の足元に、一つだけ落ちていたものがある。
(……結衣がいつもつけていた、あの髪飾りだ)
もし。
未来で俺を殺したのが、結衣だったとしたら?
いや、そもそも彼女は30年前に死んでいたはずだ。死んだ人間が、どうして未来の俺を殺せる?
矛盾。論理の破綻。
彼女が死ぬはずだった運命を、俺は今、無理やり書き換えた。
それは、彼女が"未来で俺を殺す"という結果に繋がる一本の線を、期せずして開通させてしまったのではないか?
あの瞬間に感じたノイズは、彼女の魂に刻まれた"未来の俺を殺すための種"だったのか。
(考えなければならないことが多すぎるな……)
「ちょっと! 琥珀川さん、湊に抱きつかないの! あんた、それでも一回生?」
思考の深淵に潜り込もうとした俺を現実に引き戻したのは、結衣の刺々しい声だった。
「いいじゃないですかぁ! 私は湊先輩の"お守り"を作った功労者ですよ!? これくらいのご褒美、当然ですぅぅ!」
「お守りって……! あんた、あんな学園の規則外のギア作ったこと、まだ先生に怒られてないと思ってるの!? 離れなさいってば!」
琥珀川は「いやですぅ!」と首を振りながら、俺の布団の上で芋虫のように身悶えている。
結衣は顔を真っ赤にして、彼女の襟首を掴んで引き剥がそうと躍起になっていた。
「おい、やめろ……。ベッドが軋んで痛い……」
「あ! ほら先輩、口を開けてください! ジジさんと作ってきた、最高級の栄養ゼリー食べさせて差し上げます!」
「ちょっと、それは私の役目よ! 幼馴染を差し置いて何言ってんの!」
「関係ないですよ! 私と先輩は、何度も苦難を乗り越えてきたんですぅ!」
ギャーギャーと騒ぎ立てる二人。ジジは呆れ果てたように「俺は帰るぞ」と言い残して、足早に病室を出て行った。
――騒がしい。
けれど、この騒がしさが、俺にとってはどんな高度な論理回路よりも愛おしく感じられた。
失われてしまうはずだったものが、今、ここにある。
未来がどうなろうと。結衣が俺にとってどんな存在になろうと。
少なくとも、あの日の"彼女の死"というバグだけは、俺の手でデリートしたのだ。
「……ふっ」
自然と、口元に笑みがこぼれた。
「ちょ、ちょっと湊!? 何笑ってんのよ、気持ち悪いわね!」
「あぁ、先輩が笑った! 私の気持ちが通じたんですね!? そうなんですね!?」
「うるせえよ。……二人とも、ありがとな」
俺は、病室の窓から差し込む柔らかな光を浴びながら、重い身体を横たえた。
運命という名の巨大なコード。
その最初の一行を、俺はようやく書き換えることができたのだ。
第一のデバッグ、完了。
だが、物語の真の深淵は、まだ情報の闇の奥で静かに俺を待っている。




