37話「相似形の断絶(フラクタル・エンド)」
"致命級"ガイスト、テッセラクト。
後に、そう命名される、この時点では名もない情報構造の怪物。それは、この新宿第11ダンジョンにおいて、絶対の捕食者であるはずだった。
しかし今、その死の象徴である紫黒の多面体――その前に立ちはだかる少年の背中からは、それを裏返すかのような、絶対的な覇気が立ち上っていた。
テッセラクトが、その幾何学的な全身を激しく振動させた。
目の前の存在が、これまでのどんなハッカーとも違う、自分を論理の根底から消し去り得る存在であることを、その演算意志が察知したのだろう。
――キィィィィィィィン!!
大気を切り裂く高周波の絶叫と共に、数十本の紫黒の触腕が一斉に湊へと放たれた。
それは三次元的な軌道を無視し、空間を跳躍して湊の急所を最短距離で貫こうとする、必殺の飽和攻撃。
「――遅い」
湊は、一歩も動かなかった。
ただ、手にした黒いバトンを、静かに一振りしただけ。
その瞬間、彼の身体に触れる寸前まで迫っていた触腕の群れが、パッと青い火花を散らして崩壊した。
切断されたのではない。その攻撃を構成する論理構造を、湊が瞬時に読み解き、最末端から最上位階層までを"無効化"へと強制書き換え――すなわち、塵へと解体したのだ。
「……馬鹿な。あの速度で、致命級の構造を……直接解体しただと……?」
背後の壁際で、ようやく意識を繋ぎ止めた尖晶が、信じられないものを見るような声を漏らした。
四回生、学園有数の実力者である彼からしても、今の湊が行った行為は魔法に等しい。演算のコストを無視し、相手の定義を上回る神速のハッキング。それがどれほどの地獄を潜り抜けた者にしか到達できない領域か、彼は痛いほど理解して――。
――否、理解など、追いつくはずもない。
「……もう、隠し通すのは無理そうだな」
湊は、誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に呟いた。
だが、後悔はない。そのために、彼は2070年の絶望から戻ってきたのだから。
湊は、右手に握られた"遺物"を見つめた。
黒い幾何学模様が刻まれた、そのギア。30年後の未来において、孤高のSS級ハッカーとして名を馳せた彼が、最期まで握りしめていた愛機――"フラクタル"。
(どうしてこれが、今のこの時間に流れ着いていたのかは、俺にもわからない)
あの日。2070年の新宿第11ダンジョン。
謎の影に襲われ、命を落とした瞬間、湊の意識だけがこの肉体へと回帰した。
ダンジョンの本質は情報の海だ。物質であっても、極限の状態では情報へと変換される。ならば、彼の魂に最も深く刻まれていたこのギアもまた、意志と共に30年の時を遡り、この場所へ"漂着"したのだろうか。
(――いや、考えるのは後だ。今は、こいつをデリートすることだけを考える)
湊が"フラクタル"を強く握りしめた。
その瞬間、黒いバトンの表面に、眩い黄金色の幾何学的紋様が浮き上がった。
ガ、ギギ、ギィィィィン!!
ギアが意志を持つ生き物のように脈動し、瞬時に変形を開始する。
重なり合う三角形の刃が連なり、刃の中にさらに小さな刃が、その中にまたさらに微細な刃が無限に連なっていく。
自己相似を繰り返す無限の階層構造。
それは、三次元の物理法則を超え、テッセラクトの四次元装甲さえも断ち切るために創られた、最適化の頂点。
「……こっからの俺は、ちっとばかし、怖いぞ」
湊が"フラクタル"を正眼に構えた。
その身から立ち上るWill-Bitの密度は、もはや計り知れない。
テッセラクトが、初めて"恐怖"を体現するかのように、その全身を激しく明滅させた。奴は自身の全演算リソースを防御に回し、空間の定義を幾重にも重ねた虹色の絶対障壁を張り巡らせる。
「――無駄だ。お前の装甲がどれだけ厚かろうと……自己相似性の刃の前には、紙切れと同じだ」
湊が地を蹴った。
加速ではない。空間の接続点を直接踏み抜く、情報の跳躍。
「――喰らえ、ビスマス野郎!!」
一閃。
黄金の光を纏った大剣が、テッセラクトの正面から振り下ろされた。
ドォォォォォォォォォォォォッ!!
新宿の地下深くに、この世界の限界を超えるほどの轟音が鳴り響いた。
テッセラクトが誇る鉄壁の防御ロジックが、フラクタルの刃に触れた瞬間、連鎖的に崩壊していく。
刃は装甲を切り裂き、その奥にある虹色の論理核を捉えた。
「これが俺の、30年だあああああッ!!!」
湊の叫びと共に、フラクタルに込められた30年分の怨嗟が爆発した。
漆黒と黄金の奔流がテッセラクトを内側から食い破り、四次元の怪物は絶叫にも似たノイズを上げながら、一瞬にして光の塵へと還っていき――。
――静寂が、戻ってきた。
赤黒いノイズが晴れ、新宿第11ダンジョンの最下層には、皮肉なほど穏やかな静けさが満ちていた。
湊は、砕け散った地面の上に立ち尽くしていた。
手にしたフラクタルが、役目を終えたかのように元のバトン型へと戻り、やがて粒子となって彼の影の中に溶けていく。
「……はぁ、……はぁ……」
全身の細胞が悲鳴を上げていた。
強引な意志の行使、"ヴォルテクス"を遥かに超える負荷。彼の精神を持ってしても、17歳の肉体でこれを行う代償はあまりに大きかった。
(……助け、られたな。……今度は、間に合った)
湊は、震える脚でゆっくりと振り返った。
そこには、呆然と、けれど涙を流しながら自分を見つめている、大切な幼馴染の姿があった。
「湊……?」
結衣の声が、遠くで聞こえる。
湊は、安心させるように微かに微笑もうとした。
だが、限界だった。
膝から力が抜け、視界が急速に暗転していく。
湊は、安堵の闇の中に落ちていく感覚に身を任せた。
けれど。
意識を手放す、その最後の刹那。
湊の視覚が、見てはいけないものを捉えた。
自分を呼ぼうと駆け寄ってくる結衣。
その彼女の周囲の空間。
テッセラクトが消滅し、論理崩壊は収束したはずだ。本来であれば安定しているはずのそこに。
一瞬だけ。
ほんの僅かな、ノイズが走った。
それは、ダンジョンの異常によるものではない。
テッセラクトのようなガイストのものでもない。
(……なんだ、あれは……?)
かつて、30年後の未来で。
自分を情報の塵へと変え、命を奪った"あの影"に、酷似した――。
だが、その疑問に答えを出す前に、湊の意識は深い、深い眠りの中へと沈んでいった。




