36話「再定義、裂け目の中に」
――確かに、ずっと疑問だった。
30年前、この新宿第11ダンジョンの最下層で、記憶の中の結衣は死んだ。俺を逃がそうと最後までこの怪物――テッセラクトの前に立ちはだかっていたはずだ。
当時の彼女のレベルは、せいぜい20に届くかどうか。対するテッセラクトは、現役の銀級ですら容易に葬り去る死神だ。
論理的に考えれば、一瞬で殺されていてもおかしくない。それなのに、なぜ彼女は殿を務めることができたのか。
目の前で、眩い純白の輝きを放ちながら怪物の触手を弾き飛ばす結衣の背中を見て、その謎がようやく氷解した。
(……そういうことか。お前の能力は、この地獄で唯一の例外だったんだな)
テッセラクトが展開する高負荷領域。そこではWill-Bitの演算コストが100倍に跳ね上がり、通常のハッカーは、Will-Bitを操ることすらままならない。
だが、結衣の固有定義"蓄光"は、あらかじめギアの内部に蓄積した光そのものを媒介にしてWill-Bitを行使する。
光。すなわち、情報の伝達速度の限界点。
100倍程度の処理遅延があったとしても、光速という絶対的な定数の前では、その影響は誤差の範囲に収まってしまうのだ。
「――っ、結衣! 10秒、10秒だけでいい! そいつを足止めしてくれ!」
俺の声に、結衣が短く、けれど力強く頷くのが見えた。
彼女の纏う光が、一段と激しさを増す。だが、俺には分かっている。"蓄光"は強力無比な定義だが、そのリソースには限界がある。ギアに溜めた光を使い果たせば、彼女は一気に無力な少女へと戻ってしまうだろう。
(長くは戦わせられない……! 急げ、俺……!)
俺はテッセラクトが這い出てきた空間の裂け目へと、弾丸のような速度で飛び込んだ。
赤黒いノイズが渦巻く断層の底。そこには、周囲の不浄なエネルギーに侵されることなく、ひっそりと、だが圧倒的な存在感を放つ"遺物"が転がっている。
ゴミデータに覆われたそれは、一件すればただのノイズの塊だ。使用するためには、解析し、磨き上げ、削り出す必要がある。
俺はそれを掴み取ると同時に、壊れかけのヴォルテクスを叩き起こし、解析を始める――。
(……っ、この、構造は!?)
――と、同時に、解析を進める俺の意識を、戦慄が駆け抜ける。
ダンジョンから産出される遺物は、通常、旧時代の高度な軍事プロトコルや、失われた演算アルゴリズムを含んでいる。
だが、この手の中にある"何か"に刻まれているのは、そんな代物ではなかった。
(……どうして、これがここに……!? この論理構成、これは、2040年の技術じゃない……!)
その遺物は急速に、そして、奇妙な程に、俺の手に馴染んでいく――。
◆◇◆
視界が白く塗り潰されそうになるのを、私は必死に堪えていた。
熱い。全身を巡る Will-Bit が、限界を超えた出力を求めて悲鳴を上げている。
目の前にいるのは、幾何学的な立方体が複雑に組み合わさった、虹色の怪物。
学園の教科書にすら載っていない、たぶん、危険級よりももっと高位のガイスト。
剣を振るうたびに、手首に伝わる衝撃が骨を砕こうとしてくる。
今まで受けてきたどんな訓練も、どんな模擬戦も、この地獄に比べればお遊びにすら思えた。
(――怖い。……本当に、怖いよ)
死の気配が、冷たい情報の風となって肌を撫でる。
一歩間違えれば、一瞬でも意識を逸らせば、私の身体はあの虹色の光に呑み込まれて、データの塵になって消えてしまう。
でも。
私の後ろには、湊がいる。
ずっと、やる気がないふりをして、適当に笑って過ごしていると思っていた。
Level 2という数字に甘んじて、私に守られることを選んだと思っていた。
けれど、違った。
さっき、私の前を走っていった彼の背中は、誰よりも逞しくて、頼もしかった。
私たちが手も足も出なかったあの怪物を、たった一人で翻弄して、傷を負わせた。
(……聞きたいことは、山ほどあるよ、湊。どうしてそんなに強いの? 今まで何を隠してたの?)
叫びたい気持ちを押し殺して、私は剣を振り抜く。
私の"蓄光"が、怪物の触手を弾き飛ばす。
(――でも、今はとにかく、湊を、みんなを死なせない! そのためなら、私の光なんて全部使い果たしたっていい!!)
その一心で、私は光を紡ぎ続けた。
1秒、2秒……時間が酷くゆっくりと流れる。
光を媒介にした私の定義は、この空間のノイズを無視して怪物に届く。
やれる、と抱いた自信は、一瞬で瓦解していった。
相手は進化を遂げた怪物だ。一撃一撃が重くなり、私の防御障壁は、徐々に削り取られていく。
放った光芒は金属光沢の表面に弾かれ、霧散していく。一瞬で、私はジリ貧まで追い込まれた。
「……っ、ああぁぁぁぁ!!」
7秒。8秒。
ギアの残光ゲージが、警告の赤色に染まる。
意識が遠のきかけた、その瞬間。
極度の疲労と恐怖のせいで、ほんの一瞬だけ、剣を握る右手のコントロールがブレてしまった。
致命的な、隙。
怪物がそれを見逃すはずがなかった。
虹色の立方体が私の目の前で爆発的に膨張し、逃げ場のない死が、波となって押し寄せてくる。
(――あ。……ダメだ、これ)
間に合わない。
私は、迫り来る死の光を前に、ただ目を閉じかけることしかできなかった――。
「――丁度、10秒だ。サンキューな、結衣」
――不意に。
聞き慣れた、けれど今までで一番冷徹で、力強い声が私の耳を打った。
カラン、という澄んだ音が響く。
私の前に立ちふさがったのは、ボロボロの制服を翻した湊だった。
彼の右手には、見たこともない、黒い幾何学的な文様が刻まれたバトン型のギアが握られていた。
そのギアから溢れ出しているのは、光でもなければ、ノイズでもない。
周囲の、淀んだ大気さえも静まり返らせるような、圧倒的なまでに澄み切った、深淵のような漆黒の意志。
「あ……湊……?」
「下がってろ、結衣。……お前の守ったこの10秒で、勝負のロジックは完成した」
湊は、手にしたバトンをゆっくりと回した。
その瞬間、ダンジョン全体を支配していた赤黒いノイズが、まるで王を前にした臣下のように一斉に道を開けていく。
怪物が、初めて恐怖を感じたかのように、その巨躯を震わせた。
◆◇◆




