33話「最適化の反撃(カウンター・ロジック)」
空間全体が、まるで高熱に浮かされた巨大な電子脳のように、不規則な演算エラーを撒き散らしながら悲鳴を上げていた。
四次元の影――テッセラクトがその巨躯を震わせる。
「……待って、湊! 行っちゃダメ!!」
踏み出そうとした俺の背後から響いたのは、喉を震わせるような結衣の絶叫だった。
彼女は震える手で湊の制服の裾を強く掴み、恐怖と懇願が入り混じった瞳で彼を見上げていた。
「あんなの……あんなの、人間が勝てる相手じゃないわ! お願い、逃げましょう。今ならまだ、先生たちの所まで……!」
「ダメだ、結衣。それはできない」
湊は立ち止まり、振り返らずに静かに答えた。
視界の端では、テッセラクトの中心核が脈動し、周囲の情報を貪り食うように膨張している。
奴の放つ重圧は、既にこの階層にいた生徒たちの精神を摩耗させ、立っていることすら困難なほどの演算負荷を強いていた。
「こいつは空間の座標そのものを書き換えて移動する。見た目よりもずっと俊敏だし、性質が悪い。……誰かがここで止めなきゃ、こいつは浅層まで追ってきて、他の受験生も、先生たちも……全部、情報の塵に変えられるだけだ」
「……っ、だったら、私が戦う! 特待生の私が……あんたを置いて逃げるわけにいかないでしょ!」
結衣が剣型のL-Gearを必死に構え直そうとする。しかし、その手は震えを隠せていなかった。
俺は、掴まれていた結衣の手を、そっと、だが拒絶できない確かな力で解いた。
そして、ようやく彼女の方を向き、ほんの少しだけ、かつての万年劣等生だった彼には到底不可能な、冷徹な自信を湛えた笑みを浮かべた。
「安心しろよ、結衣」
自分の声が、やけにはっきりと聞こえる。
周囲を吹き荒れる電子の暴風の中でも、不思議なほど透き通って――きっと、彼女の耳に届くだろう。
「――俺は、強い。お前が思っているより、ずっとな」
少なくとも、運命の歯車にすらなれなかった、あの無力な"あの日"の自分よりは。
「湊……?」
唖然とする結衣をその場に残し、湊は反転した。
ヴォルテクスのグリップを握りしめた瞬間、脳内の演算回路が、目覚めるように励起した。
俺は迷うことなく、死神の化身であるテッセラクトに向かって、一直線に突っ込んでいく。
(――さて、これで殿を請け負うのは俺になったな)
加速する思考の中で、俺は冷徹に状況を把握していた。
俺がここでテッセラクトの注意を引きつける。それによって結衣や、腰が抜けて動けなくなっている他の生徒たちが脱出する時間を稼ぐ。
この時点で、俺の記憶にある、30年前の惨劇の歴史は、決定的に書き換えられた。殿を請け負って死ぬはずだった彼女も、生き残ることができるはずだ。
(……それにしても、こいつの顕現は早すぎる)
俺は、目の前で幾何学的な立方体を組み替える虹色の多面体を睨みつけた。
テッセラクト。
俺がいた未来の歴史では、2050年代後半――世界規模の論理崩壊である"大変動"の少し前に初めて発見された、世界でも26種類目の"致命級"だ。
その恐ろしさの真髄は、固有定義"論理飽和"にある。
テッセラクトは周囲数キロメートルの空間を、Will-Bitの演算効率が極端に低下する"超高負荷領域"へと強制的に変貌させる。
この領域内において、Will-Bitの消費コストは――バカげた数字だが、驚異の10,000%という異常値にまで跳ね上がる。
(――普通のハッカーなら、ちょろっとビットを使おうとしただけで、脳まで焼き切られるだろうな)
先ほどの四回生たちが、固有定義を発動した瞬間に無力化されたのもこれが原因だ。彼らは"攻撃を無効化された"のではない。"発動に必要な膨大な演算コストに、システムそのものが耐えきれなかった"のだ。
(だが、幸いにも……俺の"最適化"との相性は、最悪だぜ)
奴が空間のコードを複雑化させてリソースを食い潰すなら、湊はそれを極限まで簡略化して中和するだけだ。
「――ヴォルテクス、展開。中和階層設定」
俺がヴォルテクスを起動した瞬間、周囲数メートルだけ、赤黒いノイズがガラスが砕けるような音を立てて弾け飛んだ。
テッセラクトが撒き散らすデータの嵐の中に、凪のような安定領域が形成される。
「ハァッ!!」
湊は一足飛びにテッセラクトの懐へと潜り込んだ。
Will-Bitを物理的な推進力に変換する。100倍のコストがかかる領域内であっても、湊の最適化された変換効率なら、通常のハッカーが平地で走る程度の消費量で済む。
テッセラクトが反応した。
幾何学的な立方体がバラバラに解体され、それらが鋭利な錐となって全方位から俺を刺し貫こうとする。
「遅いな。そんな数式、人類は10年も前に解いてるんだぜ!」
湊はヴォルテクスから溢れる漆黒の光を腕に纏わせ、迫り来る四次元の影を、最小限の、それでいて最も効率的な軌道で弾き飛ばした。
バヂィィンッ! と、激しい火花が散り、金属同士が擦れ合うような嫌な音が空間を震わせる。だが、俺の纏うビットの盾は、テッセラクトの攻撃を寸分狂わぬ角度で受け流していた。
(領域を中和しつつ、演算の隙間を縫う。……これだ、この感覚だ)
久方ぶりに味わう、命のやり取りの感覚。
テッセラクトの攻撃は三次元的な物理法則に縛られていないが、それでも"演算の意志"がある以上、そこには必ず予測可能なパターンが存在する。
俺はヴォルテクスの制御をミリ単位で操作し、相手の次の攻撃を先読みする。
(座標移動、予兆検知。……3、2、1。――そこだ)
テッセラクトが空間から一瞬で消失し、俺の背後に再出現する。
素人であれば、何が起きたか理解する前に心臓を貫かれているだろう。だが、俺は奴が姿を消す直前、空間の接続点をハッキングして移動先を特定していた。
「――『反転』」
俺は振り返ることなく、背後の空間に向けて肘打ちを叩き込んだ。
肘には、ヴォルテクスによって高密度に圧縮されたWill-Bitの衝撃が乗っている。
ドォォォォン!!
再出現した直後の、無防備なテッセラクトの表面に衝撃が直撃した。
虹色の金属結晶が激しく剥離し、階層全体が揺れるほどの衝撃波が広がる。
「な、……湊!? あの化け物と、互角に……?」
避難を開始していた結衣が、信じられないものを見るような表情で足を止めた。
彼女の目には、Level 15のはずの俺が、致命級の怪物を翻弄し、一方的に打撃を叩き込んでいるように見えているのだろう。
だが――正直、そこまで余裕があるわけじゃない。
(勝てるかは、五分ってとこだな)
そもそも、致命級のガイストともなると、単なる物理的な打撃では、倒すことができない。
こいつを仕留めるには、この四次元的な体の何処かにある論理核を見つけ出し、分解する必要がある。
「――でも、やらなきゃいけねえのが、辛いところだよな」
俺は、ヴォルテクスを構え直す。
呼応するように漆黒のギアが低く唸りを上げ、Will-Bitの干渉力を上げていく。
テッセラクトもまた、怒りに呼応するように変容を開始した。
虹色の光沢が消え、ビスマス結晶のような全身が、より複雑で堅固な幾何学的構造へと組み変わっていく。
演算リソースの集中。どうやら、相手は俺のことを、対等な相手だ認めてくれたようだ。
赤黒いノイズの嵐の中、さらに一歩踏み込み、加速する――。




