32話「四次元の悪夢(テッセラクト)」
第14階層。本来ならば、今回の試験の終着点となるはずのエリアに足を踏み入れた瞬間、世界が変質した。
――キィィィィィィィィン!!
鼓膜を直接針で突き刺すような、高周波のノイズが空間を満たす。
天井、壁、そして足元の地面までもが、赤黒いノイズの奔流に染まっていく。現実を構成する論理が、何者かの手によって強制的に書き換えられ、崩壊していく現象――論理崩壊だ。
「……ッ、いよいよ起こったか!」
俺は即座に結衣の腕を掴み、全速力で反転しようとする。
だが、その瞬間、左目のL-Gearが振動し、アラートを吐き出した。
[ 空間定義エラー:未定義の座標が検出されました ]
[ 警告:物理定数の整合性、喪失を確認 ]
網膜上に投影された、真っ赤なエラーメッセージ。
それを見た瞬間、俺の思考は氷結した。
(――嘘だろ。これは……30年後と、全く同じ……!)
未来の自分が命を落とした、あの瞬間。
絶望の引き金となった、あのシステム・ログ。
直後、目の前の空間が、まるで古びた壁紙が剥がれるように"捲れた"。
第14階層の内壁が情報の断片となって崩落した、その奥。
虚空から、現実世界の物理法則を根底から否定するような"ナニカ"が、ゆっくりと這い出してきた。
「……っ、ふざけんなよ……! なんで、こいつが今ここにいるんだ!」
それは、虹色の金属光沢を放つ、巨大な階段状の立方体が幾何学的に組み合わさった、全高10メートルを超える多面体構造物だった。
中心部は常に脈動するように結晶が生成・崩壊を繰り返しており、見る角度によって、その姿は歪み、膨張し、あるいは消失して見える。まるで現実世界に無理やり投影された、四次元の影。
周囲の空気が、その存在だけで削り取られていく。
存在そのものが"世界のバグ"であり、存在するだけで周囲の情報を食い荒らす、純粋な怪物。
(――個体識別名、テッセラクト。文句無しの、"致命級"だ!!)
2040年の現在、この個体はまだ世界で数体しか観測されていないはずの、超高密度情報生命体。"危険級"よりもさらに格上の、本物の怪物。
Level 15やそこそこの学生たちが挑むなど、アリが台風に立ち向かうようなものだ。
「な、何よ……あれ……。ステータスが、読み取れない……」
結衣が、震える声で呟いた。
彼女だけではない。周囲にいた特待生たちの顔からも、一瞬にして血の気が引いていく。
テッセラクトがその巨躯を微かに震わせるたび、周囲の生徒たちのL-Gearがエラーを吐き出し、火花を散らして沈黙していく。
「結衣! 全員連れて今すぐ逃げろ! 後ろを振り返るな、全速力で上層へ戻れ!!」
俺の一喝に、生徒たちが弾かれたように動き出す。
だが、テッセラクトの動きは、俺たちの常識を遥かに超越していた。
奴は"歩く"必要すらなかった。
空間の座標を直接書き換え、次の瞬間には、逃げようとした生徒たちの頭上に、その巨大な影を落としていた。
(くそっ……! こうなれば、俺がここで全力を出すしか――!)
俺がヴォルテクスのリミッターに手をかけた、その時だった。
「――下がれ、二回生!!」
上層から閃光と共に現れたのは、監督役の尖晶、そして二人の四回生たちだった。
彼らは突如として現れた規格外の怪物に戦慄しながらも、流石は選り抜きのエリート、瞬時に戦闘態勢を整える。
「想定外のイレギュラーだ! 僕たちが足留めをする! 君たちはその隙に脱出を――"飛尖晶"、多重展開!!」
尖晶の手から、無数の赤い結晶が射出される。
先ほど危険級を粉砕した、あの完璧な連携。四回生二人が左右から Will-Bit の波を叩き込み、テッセラクトの座標を固定しようと試みる。
だが、俺は見た。
テッセラクトの中心部が、嘲笑うように不気味な光を放ったのを。
「駄目だ、先輩、戦うな! そいつは――そいつの領域に入っちゃいけない!!」
俺の叫びは、激しいノイズにかき消された。
「――なんだこれは、僕たちの、"固有定義"が……消えて……!?」
尖晶の悲鳴に近い困惑。
彼が放ったはずの赤い結晶が、テッセラクトの周囲数メートルに触れた瞬間、パッと霧のように消滅した。
消えたのは結晶だけではない。
彼らのL-Gearから溢れていた Will-Bit の輝きそのものが、まるで電源を引き抜かれたかのように消失したのだ。
「あ、あぁ……あぁぁぁぁぁっ!!」
最前線にいた四回生二人が、絶望的な声を上げた。
テッセラクトから伸びた、幾何学的な"腕"が、彼らに触れる。
防御障壁すら張れない彼らの肉体は、情報の演算権を奪われ、一瞬にして青い粒子――情報の塵へと還元され、この世界から跡形もなく消滅した。
「……そんな、嘘だろ……。一ノ瀬! 佐伯!!」
仲間を目の前で失い、尖晶の顔が驚愕に歪む。
テッセラクトの不可視の波動が、逃げ遅れた彼を直撃した。
ドォォォォォォン!!
激しい衝撃波と共に、尖晶の身体が紙屑のように吹き飛ばされる。
彼は壁面に叩きつけられ、その手に握られていた拳銃型のL-Gearが、過負荷によって無惨に粉砕されるのが見えた。
「……う、ぐ……。あ……あぁ……」
先ほどはあれだけ頼もしかったはずの男が、指一本触れられぬまま、無様に地面に転がっている。
周囲の受験生たちの間に、もはや悲鳴すら出ないほどの、絶対的な絶望が伝播していった。
(――無理だ、この時代にテッセラクトを倒すなんて、現役ハッカーでも相当な上澄みじゃないと)
こいつは、2040年の世界において、人類がまだ、明確な対抗策を持ち合わせていない"死神"だ。
そんな、絶望の化身――テッセラクトが、ゆっくりとその幾何学的な全身を回転させる。
その歪な"眼"のような結晶体が、恐怖で立ち尽くす生徒たちへと向けられた。
立ち向かえるのは、俺しかいない。俺はヴォルテクスを握り締め、両足に力を込めた。




