29話「新宿にて」
新宿。かつて日本最大のターミナル駅を擁し、欲望と情報の濁流が交差していたこの街は、今や巨大な漆黒の"塔"に呑み込まれている。
"新宿第11ダンジョン"。
物理法則が情報の重圧によって歪み、重力が不定形にうねるその場所は、学園が管理する外部ダンジョンの中でも指折りの危険度を誇っていた。
ゲートの前に、二回生の選抜組が集結している。
そこには、俺のような滑り込みの昇格者など一人もいない。並んでいるのは、入学時からその才能を嘱望され、Level 15から19という、二回生でも上位のステータスを維持し続けている特待生たちだ。
彼らが纏う空気は、以前までの訓練とは一線を画していた。緊張と功名心が、 Will-Bit の微かな共鳴となって周囲の空間をピリつかせている。
「ちょっと、湊。少しはしゃんとしなさいよ。制服、襟が曲がってるわよ」
不意に横から伸びてきた手が、俺の襟元を強引に整えた。
振り返れば、そこにはフル装備を整えた結衣が立っていた。彼女もまた、特待生の一人。だが、その瞳には周囲のような功名心ではなく、どこか戦地へ向かう戦士のような、硬い決意が宿っている。
「わかってるって。……しかし、壮観だな。ここにいるのは、みーんな、特待生様たちだもんな」
俺は肩を竦め、わざとらしく周囲を見渡した。
30年前――つまり、俺がかつて経験した、あの一日とは違う景色。前の俺は、この場所に来ることもできず、全てが終わった後に知らされることになった。
だが、今の俺は違う。どうにかこの場所に、結衣とともに立つことができている。
(……この中の何人が、生きてこのゲートを潜り直せるのか)
冷徹な計算が脳内を過る。俺が変えようとしているのは、結衣の運命だけではない。このダンジョン全体を包み込む"絶望"そのものをハックしなければ、真の最適化は成し遂げられない。
いよいよ本番だ――と、気を引き締め直していた、その時だった。
「――よう、君、試験ギリギリで Level 上げしてた、二年の炭崎だろ? 頑張ったな!」
不意に、背後から朗らかな声がかけられた。
振り返れば、他の学生たちよりも一回り大きく、そして圧倒的に落ち着いた雰囲気を纏った青年が、こちらへ向かって歩いてくるところだった。
整った顔立ちに、理知的な光を湛えた瞳。学園の制服を着崩すことなく、完璧に着こなしているその姿からは、隠しきれない実力者の風格が漂っている。
「炭崎湊、です。……先輩は?」
「ああ、名乗るのが遅れたね。4年の尖晶だ。今日は君たちの試験の監督役として抜擢されてね。よろしく」
尖晶と名乗ったその青年は、気さくに右手を差し出してきた。
四回生。落伍者や、適性不足によって退校するものも少なくない九十九学園において、そこまで生き残っているのは、既にプロのハッカーギルドからも即戦力としてマークされている精鋭だ。
特に試験の監督役に選ばれる者は、技術だけでなく、不測の事態における判断力を翡翠先生らに認められた"本物"のみ。
(尖晶……。ああ、思い出した。卒業後は政府直属の特務機関に入った、そんな名前の先輩がいたっけな)
俺は彼の掌を握り返しながら、脳内のアーカイブを検索する。
四回生。Level はおそらく30を下らない。先日の柘榴坂のような小物とは比較にならない、正真正銘、現役の中堅ハッカーたちにも劣らない実力者だ。
「監督役ってことは、俺たちがダンジョンでヘマをしたら、助けてもらえるってことですか?」
「ははは、期待しすぎないでくれ。僕の仕事はあくまで評価と、致命的なバグの報告だ。君たちの自立を妨げるような手出しは、規約で禁じられているからね。……でも、本当に危なくなったら、もちろん全力を尽くすよ」
尖晶の言葉には、一片の嘘も混じっていない清廉さがあった。
彼は周囲の特待生たちにも等しく穏やかな視線を向け、場の緊張を適度に和らげている。
だが、その頼もしい背中を見つめながら、俺の心臓は冷たい重圧に締め付けられていた。
(……これほどの男たちが、監督役として同行していたんだ。……なのに、あの日の惨劇は防げなかった)
未来の記録。
この場所で発生した"論理崩壊"。
あの時、監督役を務めていた上級生たちも幾人かが、想定外の脅威に呑み込まれ、殉職したはずだ。
Level 30を超える実力者ですら抗えない"何か"が、このダンジョンの深層には眠っている。あるいは、その瞬間に産み落とされるのか。
「湊、どうしたの? 黙っちゃって」
結衣が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……いや、なんでもない。頼りになりそうな先輩で良かったと思ってさ」
「そうね。尖晶先輩は、学園でも有名だもん。人格者で、実力もトップクラス。私たちも、先輩の顔に泥を塗らないように頑張らないとね」
結衣が拳を握り、自分を鼓舞するように言う。
周囲の特待生たちも、尖晶たち四回生の登場によって"自分たちの試験は、この偉大な先輩に見守られている"という安心感を得たようだった。それが油断に繋がらなければいいが……と、俺はヴォルテクスの接続状態を再確認する。
「さて、全員揃ったかな。……翡翠先生、準備は整いました」
尖晶が、一歩後ろに控えていた翡翠先生に向かって、整った動作で敬礼した。
翡翠先生は無言で頷き、ゲートの制御端末に自身のライセンス・キーを差し込む。
ゴオォォォォン……。
新宿の街を震わせるような重低音が響き、漆黒のゲートがゆっくりと開放され始めた。
ゲートの向こう側から、冷たく、そして情報の腐臭が混じったダンジョンの風が吹き抜けてくる。
「これより、二回生春期査定試験を開始する」
翡翠先生の冷徹な声が、整列した生徒たちに突き刺さった。
「目標は、第14階層までの到達、および指定されたガイストの討伐ログの提出。……繰り返すが、これは訓練ではない。実戦だ。お前たちの意志が脆ければ、そこがお前たちの墓場になる」
生徒たちの間に、再び引き締まった緊張が走る。
尖晶は、自身のL-Gearを起動させ、柔らかくも鋭い光をその身に纏わせた。
「行こうか、皆。……君たちの最適解を、僕に見せてくれ」
その言葉を合図に、特待生たちが次々とゲートの深淵へと吸い込まれていく。
結衣が俺を一瞥し、意を決したように一歩を踏み出した。
(――さあ、始まるぞ)
俺は、腰元で静かに唸る漆黒のギアを一度強く握り締め、結衣の背中を追うように闇へと踏み込んだ。
2040年、最悪の一日。
運命という名のバグとの決戦が、今幕を開ける。




