28話「嵐の前の静止」
中野の工房を包む空気は、かつてないほどの緊張感に支配されていた。
作業灯の冷たい光が、分解され、内部構造を剥き出しにした"ヴォルテクス"を照らし出している。その傍らで、俺は網膜上に展開された膨大な論理階層と格闘していた。
コンマ数ミリ単位の調整。出力波形に生じる僅かなノイズの除去。
指先を動かすたびに、ホログラムのウィンドウが高速で入れ替わり、背後で見守る琥珀川が息を呑むのが分かった。
「……湊よう。もうその辺にしておけ。これ以上の微調整は、実戦じゃ誤差の範囲だぜ」
溶接マスクを跳ね上げ、ジジが呆れたような声を出す。
彼は作業台に無造作に置かれた自作の冷却材を煽りながら、鋭い眼光を俺に向けてきた。
「今の"ヴォルテクス"はお前の"最適化"を十全に受け止められると思うぜ。中野での戦いを見て確信した。お前の技術なら、月末の試験なんて片手間で満点を取れるはずだ。……なのに、どうしてそこまでシビアに追い込む?」
ジジの問いはもっともだった。
今回、俺たちが挑む"新宿第十一ダンジョン"は、確かに攻略難度の高い特異区画だ。だが、その難しさの本質は、複雑に入り組んだ三次元的な地形と、死角から無数に湧き出す小型ガイストの波にある。
数で押し潰そうとする物量戦。それがこのダンジョンの定石だ。
今の俺の技量と、ジジの創ったこのデバイスがあれば、そんな雑魚の群れを殲滅するのは造作もない。
だが、俺は作業を止めることなく、首を振った。
「……地形や雑魚の群れが問題じゃない。嫌な予感がするんだよ、ジジ」
「予感だと? そりゃ、ハッカーが吐くセリフじゃねえな」
「そうかもな。だが、お前も見てきただろ。中野に巣食っていたハニカム・ビー……あれよりもヤバい何かが、新宿には潜んでる気がするんだ」
俺の言葉に、ジジの表情が僅かに強張る。
30年前――つまり、この2040年の世界ではまだ、明らかになっていないもの。
未観測の、高位ガイストの存在――。
だが、未来を知る俺の記憶には、あの惨劇の記録が克明に刻まれている。結衣がいなくなってからずっと、何度も何度も見返した、あの死亡事故の記録が。
――試験開始から数時間後、平穏だったダンジョンが突如として地獄へと変貌した。
逃げ場のない閉鎖空間で発生した、大規模な論理崩壊――ダンジョン構造そのものを揺るがすほど大きな、地形変化。
その混乱に乗じるようにして現れた、当時の学生たちでは逆立ちしても勝てないガイストの影。
「……たぶん、そいつは、あのダンジョンの何処かに、息を潜めてるんだ。ハニカム・ビーが小突き合いに見えるような、本物の"バグ"がな」
俺の声が、工房の隅々にまで冷たく響く。
「……ハニカム・ビーが、ねえ。にわかにゃ、信じがてえ話だが……」
「信じなくったっていいさ。月末になれば、嫌でも答え合わせができる。今は、ひたすらに答案用紙を見返すしかない」
30年前、俺は自分の無力さに絶望し、情報の奔流に呑み込まれていく結衣の手を掴むことすらできなかった。
失った時間は戻らない。だが、今、俺の手の中にはあの時持っていなかった"牙"がある。
「今回ばかりは、失敗するわけにはいかない。……俺が想定している"最悪"は、学園が用意したマニュアルの遥か外側にある」
「……学園でも予想できねえような、アクシデントが起きると?」
「アクシデントってのは、起きなきゃアクシデントじゃないのさ。俺にできるのは、何が起きても対応できるようにすること……それだけだ」
俺は最後に一箇所、メイン回路の応答速度をさらに数ナノ秒だけ短縮する修正を加え、コンパイルの実行ボタンを叩いた。
ヴォルテクスの筐体が微かに振動し、沈黙する。
どれだけやっても、不安は拭えない。。
ハードウェア、ソフトウェア、そしてそれを操る俺の魂。
すべてを、運命という名の巨大なバグをデリートするためだけに最適化していっても――まだ、十分には程遠い。
程遠いと、しても。
「……ふん。相変わらず、可愛げのねえガキだ。だが、お前がそこまで言うなら、予備の電源をもう一つ積み増してやるよ」
ジジは不敵な笑みを浮かべると、再び溶接火花の中に身を投じた。
「炭崎先輩。……私も、先輩の背中を守れるように、ギアの調整をお手伝いできるよう……最後まで頑張ります!」
琥珀川も、汗を拭いながら自身の端末へと向き直る。
今の俺が持っているものは、力という"牙"だけではない。
未来を救うための二人の共犯者。
その熱気が、夜の工房を焦がしていく――。
――そして、翌朝。
俺は学園のゲートへと向かった。
そこには、いつも通りの、けれどどこか緊張した面持ちの結衣が待っているはずだ。
新宿第11ダンジョン。
運命が待ち構えるその場所へ。
「……待ってろよ、結衣」
俺は腰元の漆黒のギアを一度強く叩き、眩しい朝日の中へと足を踏み出した。
これが、やり直しの物語の、本当の始まりだ。




