26話「情報の砂塵(アフター・ノイズ)」
中野第2ダンジョンのゲートを抜けると、夜の冷たい空気が肺の奥まで流れ込んできた。背中に預けた琥珀川の体温と、まだ熱を帯びたままのヴォルテクスの重みが、先ほどまでの"処刑"が現実であったことを静かに告げている。
地上には、青い回転灯を回す学園の救急車両と、数人の教官たちの姿があった。その中心で、鋭い眼光をこちらへ向けていたのは、結衣と翡翠先生だ。
「湊……!」
結衣が真っ先に駆け寄ってくる。その瞳には、安堵と、それ以上の混乱が混濁していた。俺はあえて足取りをふらつかせ、ボロボロになった"劣等生"の仮面を被り直す。
「……遅かったな、結衣。翡翠先生も、わざわざすみません」
「炭崎、状況を説明しろ。内部のノイズレベルが異常だ」
翡翠先生が歩み寄り、俺の背負っている芽依香と、俺の全身をくまなくスキャンするように見つめた。俺は深く溜息を吐き、あらかじめ脳内で組み上げておいた"嘘のログ"を口にする。
「……俺たちが着いた時には、もうめちゃくちゃでしたよ。3年の柘榴坂先輩が、どういうわけか新入生を連れて深層に潜ってたみたいで。……たぶん、ギアの調整をミスったんでしょうね。俺が見た時には、自爆したような火花が散ってて、先輩はガイストの群れの中に突っ込んでいって……」
「柘榴坂が、だと?」
「ええ。俺は、隙を見て倒れていた琥珀川を引っ張り出すのが精一杯でした。柘榴坂先輩がどうなったかは……正直、分かりません。ただ、あの様子じゃ無事じゃ済まないでしょうね」
俺は白々しく、それこそ"不幸な事故を目撃した善良な後輩"になりきって首を振った。
翡翠先生は俺の言葉を鵜呑みにしたわけではないだろうが、緊急事態を優先し、数人の教官を引き連れてダンジョン内へと急行していった。
「……ねえ、湊。ちょっとこっち来なさい」
翡翠先生が去った後、俺は結衣に腕を引かれ、救急車両の陰へと連れ込まれた。彼女の視線は、俺の腰にある漆黒のギアに固定されている。
「……何だよ、結衣。俺、これでも疲れてるんだけど」
「誤魔化さないで。……さっきのダンジョン内での戦い、何よあれ。あんた、たった一撃で十数体のガイストを消したわよね? Level 2が、あんな精密な広域殲滅なんてできるわけない」
(――やっぱ、訊かれるよな)
結衣の追及は鋭かった。幼馴染としての情を排した、純粋なハッカーとしての疑問だ。俺はあらかじめ用意していた"言い訳"を、どこか得意げな、それでいて軽薄な調子で披露する。
「ああ、これか? ……ジジ、あのおっさんの工房で作ってもらった特注品だよ。中身はボロボロの型落ちだけど、出力の指向性だけ異常に尖らせてあるんだ。言っただろ? お前に置いていかれたくないから、最新の装備を揃えたって」
「……装備だけで、あんな動きができるとでも?」
「できるんだよ、あいつの技術ならな。……まあ、その代わり演算負荷が酷くて、今も頭が割れそうだけどな」
俺はわざとらしくこめかみを押さえ、苦笑いを見せた。結衣はなおも不審げに俺を見つめていたが、俺が「ひどい顔だぜ、結衣。そんなに心配してくれたのか?」と茶化すと、顔を赤くして「バカじゃないの!」とそっぽを向いた。
これ以上の追及は、今は避けてくれるだろう。彼女は優しい。俺が何を隠していようと、俺が無事に帰ってきたという事実だけで、矛先を収めてくれる程度の甘さが、今の彼女にはまだ残っている。
「……ん、……ぁ、……」
救急車両のベッドに横たわっていた琥珀川が、微かな声を漏らして目を開けた。
「……琥珀川。気がついたか」
「……湊、先輩……? 私、どうして……。……あ、柘榴坂、さんが……」
彼女の記憶は混濁しているはずだ。制裁の最中、俺は彼女を強制スリープさせた。彼女が見たのは、柘榴坂に追い詰められた絶望的な状況と、そこへ現れた俺の姿まで。
「柘榴坂先輩は、事故でリタイアしたよ。……もう大丈夫だ。俺が、お前を外まで運んだんだ」
「……先輩が……。……ありがとうございます、本当に……」
琥珀川は、弱々しく俺の手を握った。
「別に、何もしちゃいないさ。お前が無事でよかったよ」
彼女は、静かに頷く。
俺が語った"事故"という言葉を疑ってはいないのだろう。だが、彼女の瞳の奥には、確かな、そして深い色が宿っていた。
――恐らく、彼女は知っている、あるいは気付いているのだろう。自分を救い出したのが誰なのか、そして、何が起こったのかも。
(……まあ、後輩に慕ってもらえるぶんには、悪いことじゃないか)
琥珀川は再び目を閉じ、噛みしめるように眠りについた。
俺はその穏やかな寝顔を見つめながら、今度こそ間に合った安堵に、胸を撫で下ろすのだった。
◆◇◆
一時間後。
ダンジョンの最深部、赤黒いノイズがようやく収まり始めた広場に、翡翠厳一の足音が響いた。
「……これは」
彼の視線の先には、無残に折れ曲がり、ピクリとも動かない柘榴坂凱の姿があった。
命に別状はない。だが、ハッカーとしての心臓部である二つのL-Gearは、粉々という言葉では足りないほど"徹底的に"破壊されていた。
翡翠は、膝をついて床に散らばったパーツの残骸を拾い上げた。
高価なガントレット型の外殻が、熱で融解している。だが、その溶け方は、内部回路の暴走によるものとしては不自然だった。
「……事故、か」
翡翠は、砕け散ったレンズの破片を指先でなぞる。
ガイストによる暴行であれば、もっと肉体的な損傷が激しいはずだ。
自爆によるものであれば、もっと無秩序な破壊痕が残るはずだ。
だが、この現場に残されているのは、まるで熟練の外科医が執刀したかのような、急所だけを的確に、そして完膚なきまでに破壊した"整然とした暴力"の跡。
「……ここは、あまりに"綺麗"すぎるな」
翡翠の脳裏に、先ほど地上でヘラヘラと笑っていた、万年 Level 2の教え子の顔が浮かぶ。
中野第2ダンジョンに吹き荒れた嵐は、一人の三回生の将来を奪い、一人の少女の心を変え、そして一人の賢者の疑念を確信へと変えようとしていた。
翡翠は通信機を手に取り、冷徹な声で本部へと告げた。
「収容を開始しろ。……それから、炭崎湊の本日全ての行動ログを、私の個人端末に転送しておけ。……一文字たりとも、見落とすなよ」
中野の夜空に、再び不穏な風が吹き始めていた。
◆◇◆




