25話「"制裁"」
柘榴坂凱という男の人生は、常に"捕食者"の側にあった。
小・中学校ではサッカー部のエースとして君臨し、要領も良かった彼は、スクールカーストの頂点で他者を睥睨してきた。
この九十九学園に入学してからも、その恵まれた体躯と、何よりあらゆるものを粉砕する固有定義"切削研磨"によって、彼は常に強者の椅子に座り続けてきた。
――座り続けてきた、はずだった。
「……が、はっ……、あ……!?」
暗いダンジョンの床に、柘榴坂は無様に這いつくばっていた。
視界が赤い。自分の口内から溢れた血が、無機質なタイルを汚している。信じられなかった。自分が、学年どころか学園全体でも"万年最底辺"と蔑まれていた Level 2の下級生に、手も足も出ずに一方的にいたぶられているという事実が。
「どうした、先輩。自慢の"研磨"はどうした。まだ何も削り取っちゃいねえぞ」
湊の冷徹な声が、上から降ってくる。
柘榴坂は執念で立ち上がり、赤黒いノイズを纏わせた右拳を振り抜いた。必殺の"切削研磨"。触れるものすべてを情報の塵に変える死の一撃。
だが、その拳が湊に届く直前。
「――"解体"」
湊の手元にある"ヴォルテクス"が、鋭い駆動音を上げた。
刹那、柘榴坂の拳に宿っていた高周波の Will-Bit が、まるで魔法が解けたかのように霧散した。論理回路を直接ハックされ、定義そのものを上書きされたのだ。
威力を失い、ただの"肉の塊"となった柘榴坂の拳を、湊は最小限の動きでかわす。
そして。
ドッ。
湊の鋭い左フックが、柘榴坂の顎を完璧に捉えた。
脳を揺らされ、膝が折れる。
「……あ、が……。テメェ、何を……ッ!」
「驚くことじゃない。俺がハッカーとして最初に磨いたのは、ハッキングなんぞ関係ねえ、基礎的な格闘テクからだったんでね」
湊は、倒れ込もうとする柘榴坂の胸ぐらを掴み、強引に引き起こした。
「俺がいたところじゃ、手癖の悪い奴らが多くてな。ギア無しで殴り飛ばせなきゃ、食い物一つ守れなかったんだ。演算能力以前の話だよ」
湊はヴォルテクスを、能力の無効化と解体のためだけに使い、残りのリソースはすべて自身の肉体の最適化に回していた。
繰り出されるのは、洗練された暴力。
右ストレート、ボディブロー、そして容赦のない膝蹴り。
ボキリ、と嫌な音がして柘榴坂の肋骨が折れた。
「ひっ……、や、やめ……ろ……!」
「なんだよ、もう終わりか? 若いくせに、だらしがねえな。さっきまでの勢いはどこへ行った」
湊の瞳には、怒りすら宿っていない。
それは、害虫を駆除する作業員のような、淡々とした、そして絶対的な作業の目だった。
柘榴坂は、もはや反撃の意志すら失い、ただの肉塊となって地面に伏した。
ハッカーとしての誇りも、強者としての自尊心も、湊の拳によって一つ一つ丁寧に、そして無残に粉砕されていた。
湊は、ぴくりとも動かなくなった柘榴坂の側に歩み寄った。
そして、奴が装着していた重厚なガントレット型L-Gearを掴む。
「……あ、あぁ……。それ、は……っ」
「要らねえだろ。これ以上、お前の遊びにゃ付き合ってられねえよ」
湊の手の中で、ヴォルテクスが激しく発光した。
高密度の Will-Bit がガントレットの内部回路を暴走させ、パキパキと電子部品が焼き切れる音が響く。やがて、柘榴坂自慢のデバイスはただの熱い鉄屑へと変わり、床に転がった。
それだけではない。湊は、呆然とする柘榴坂の左目に装着されたパブリック・ログ用のL-Gearに手をかけた。
「や、やめろ……! それを取ったら、俺は……!」
ハッカーにとって、L-Gearを失うということは、ダンジョン内で"目"と"武器"を同時に失うことを意味する。Will-Bit を制御する端末がなければ、周囲を徘徊する最弱のガイストにすら抗う術はない。
メキッ。
無慈悲な音がして、左目のデバイスもまた、粉々に砕け散った。
「…………っ」
柘榴坂の喉から、声にならない悲鳴が漏れる。
完全な無力化。
学園のエリート候補生だった男が、今、情報の闇の中で、ただの非力な人間に成り下がった。
湊は、恐怖に顔を歪める柘榴坂の頭を鷲掴みにし、至近距離でその瞳を覗き込んだ。
「……いいか、先輩。よーく覚えておけ」
湊の声は、死神の囁きよりも冷酷に響いた。
「俺の物に手を出すのは、30年早いぜ」
湊はそのまま、柘榴坂の脳髄へとハッキングを仕掛けた。
精神負荷によって抵抗力を失った脳内に、無理やり論理の楔を打ち込む。今日この場所で起きた"真実"を、湊との交戦記録を、奴の脳内からも、そして、ネットワークを介して、学園のパブリック・サーバからも、跡形もなく消去した。
残されたのは、ただ"ダンジョンの事故によって自爆し、装備を全損した惨めな三回生"という事実だけだ。
湊は、白目を剥いて気絶した柘榴坂をゴミのように放り出した。
「……さて。片付けは終わりだ」
湊は寝かせていた琥珀川を背負い、静かに立ち上がった。
完全勝利。そんな言葉すら、この一方的な蹂躙を表現するには生温かった。
それは、頂点の座から降りた男が、身の程を知らない小悪党に下した、文字通りの"処刑"だった。
ダンジョンの最下層に、湊の静かな足音だけが響く。
背後には、牙も爪も、そして未来さえも折られた男が無様に転がっている。
湊は一度も振り返ることなく、青白い霧の向こうへと消えていった。




